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第六章 赤
第110話 「そなたの中に」◆
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ヒューゴが無事動けるまでに回復したのは、さらに翌日のことだった。
ちなみに、あれほどヒューゴに付き纏っていたアイリスだが、ヒューゴが医務室から私室に移動してからは不気味なほど沈黙を保っている。
今も、火の神殿を再訪するため廊下を歩いているが、アイリスが近寄ってくる気配も感じない。
ヒューゴは、部屋の外に出た途端に寄ってくるのではないかと身を固くしていたが、予想が外れて拍子抜けしているようだった。
「どうやら火の精霊ジン様も落ち着いているようだな。さあ、行くぞ」
ヒューゴは、煙突のような中庭に揺れている焚き火に手を翳し、火の神殿への入り口を開く。
二度目なので、火をくぐるのも怖くない。
前回の帰り道のような気怠い暑さもなく、火の神殿は心地良い暖かさに満ちていた。
「よく来たな。先日はすまなかった」
火の神殿の奥に進むと、炎の中から褐色の肌、細身の美丈夫が現れた。
滑らかな絹織物に身を包み、どことなくヒューゴや国王に似た怜悧な表情で、腕を組んで佇んでいる。
体付きは細身だが、程よくしなやかな筋肉が付いていて、頭からは小さなツノが二本、控えめにその黒髪を押し上げていた。
「……ジン様、ですか?」
「そうだが? ……ああ、この姿のことか?」
以前会った時は、はち切れそうなほど大きな筋肉に覆われ、厳しい顔つきだったはず。
衣服も燃え盛っていたし、ツノだって大きく巻いていて、とてつもない威圧感を放っていた。
「お前の父の魔力が落ち着いたためだな。今は眠りに落ちているようだが、徐々に悪意も浄化されつつある。そのお陰か、見ての通り我も調子が良いのだ」
「そうでしたか……良かった」
「ヒューゴ、お前も落ち着いたようだな。父の心に触れたか? その痛みを垣間見たのだろう?」
「……はい」
ヒューゴはさっぱりとした表情で、ジンに返答する。
以前彼が見せた、瞳の奥の昏い炎は、綺麗さっぱり消えてしまったようだ。
眠っている間に、彼が何を見て何を感じたのか――また、国王からの手紙に何が記されていたのか、私には知る由もないが、ひとつ憑き物が落ちたようだ。
「さて、虹の巫女。空の神子。記憶を返そう。待たせたな」
ジンがその手で印を結ぶと、空中に小さな赤い炎が現れた。
私とセオは、炎に触れる勇気が出ず、思わずたじろいでしまう。
「熱くないから心配するな。さあ、触れるが良い」
私たちは顔を見合わせて頷くと、同時に炎に手を伸ばす。
赤い炎は一瞬で私たちを包み込み、見知らぬ世界へと私たちを誘っていった――
***
ごーん、ごーん。
鐘の音が響き渡る。
ここは、聖王都にある大神殿のチャペルだ。
『私』は、お父様の腕を取り、ヴァージンロードを進んでゆく。
一歩一歩が、『私』の人生。
真っ直ぐに敷かれたカーペットの向こう側。
『私』を待つ彼は、真っ白なタキシードを身に纏い、柔らかな笑顔を浮かべている。
普段はふわりと揺れる空色の髪は、きっちりと固められ、秀麗な顔立ちを引き立てていた。
彼は、『私』に手を差し出した――。
◇◆◇
「おぎゃあ、おぎゃあ」
生まれてきた小さな命は、愛しい彼にそっくりだった。
彼よりも淡い水色の髪。
瞼から覗く瞳は、澄んだ金色。
天からの贈り物、愛しい愛しい『私』の息子。
「生まれてきてくれてありがとう。あなたの名前は、セオドアよ――」
◇◆◇
ぴしゃあん、ゴロゴロゴロ……
雷鳴が轟き、ロイド家別荘の窓を雨が打ちつけている。
雷精《トール》も心配しているようだ。
このままでは、親友も、親友の赤ちゃんも、命を落としてしまう。
「大精霊よ、力をお貸しください」
『私』は祈った。
久しぶりに使う、『神子』としての力だ。
「どうか二人を救って――アリサと、生まれてくる命を」
しかし運命は、二人の命を繋ぐのを躊躇っているようだ。
『私』は、『神子』の力に『巫女』の力を上乗せして、混ぜ合わせていく。
「私の力を削ってもいい。私の命を削ってもいい。お願い、救って――アリサと、『パステル』を!」
あたりに光が満ちる。
祈りを込めて、魔力を込めて、生まれてくる赤子に名前を贈った。
運命のキャンバスに、『パステル』の命が吹き込まれていく――
◇◆◇
目の前に広がっている書類の数々に、『私』は確信を持った。
デイビッドさんが調合した解毒薬の種類、それを卸した時期。
オリヴァーと『私』が調べた、ジェイコブ陛下の情報。
アリサが入手した、ここ十数年のファブロ王国王家の動向。
――ファブロ王国には、ジェイコブ陛下の愛妾の子、『毒の精霊の加護を得た娘』がいる。
陛下の娘、ヴァイオレットは王国の深い所まで入り込んでいたが、力を使いすぎて精霊を魔物化させてしまった。
そして、『私』たちが毒の精霊を鎮めてしまったことで、ヴァイオレットは眠りにつき、国王は狂い始めた。
『私』は急ぎ手紙を認めた。
アリサの家に隠してもらうつもりだ。
もう少ししたら、ジェイコブ陛下が動くかもしれない。
そうなったら、ロイド家の別荘にでも集まって、今後のことを話し合わないといけないだろう。
その時にはセオとパステルちゃんも連れて――魔力の繋がりを築いておく必要がある。
このまま何も起きなければいいが、少し、嫌な予感がした。
◇◆◇
『私』が学園に通いはじめる少し前。
虹の巫女だった祖母は、『私』に力を引き継いだ。
「ソフィア、あなたの力は隠さなくてはなりません。あなたの『神子』としての力は、いざという時に取っておきなさい。今後は私から引き継いだ『巫女』の力を使うのですよ」
「はい、お祖母様」
『私』はパステルちゃんに『神子』の力を使いながら、そんな事を思い出していた。
パステルちゃんの中に仕込んだ種。
それに、『巫女』としての力を被せていく。
あと少しで、『私』の身体は消えてしまう。
オリヴァーも、アリサも、デイビッドさんも、一足先に行ってしまった。
けれど、パステルちゃんはエレナさんが、セオはカイとハルモニアさんが守ってくれるはず。
二人は良き友人として、それぞれの場所で役割を果たしてもらうはずだったし、お父様に遺した手紙にもあんなことを書いた。
――ああ、撤回する時間もないのが悔やまれる。
けれど、二人がまた巡り合って、想いが通じ合ったとしたら――きっとハルモニアさんも、お父様も、二人のために頑張ってくれるだろう。
『私』は最期の力を振り絞る。
パステルちゃんの色が、記憶が消えていく。
セオの感情が消えていく。
『私』の虹の力が、消えていく。
――二人とも、重いものを背負わせてごめんね。
さようなら、愛しい子たち――
***
私とセオは、火の神殿へと戻ってきた。
「今の記憶は……?」
今回の記憶は、これまでとは様相が違った。
これは、私自身の記憶ではない。
「――母上の、記憶?」
そう。
今見た記憶は、セオの母、ソフィアの記憶だ。
「どうして……? なぜ、ソフィア様の記憶が、心が、流れ込んできたのですか?」
「――お前は――」
火の精霊ジンは、すっと私に指を向けた。
「虹の巫女であることを知らなかったにも関わらず、何故、虹の力の使い方を憶えていたのだと思う?」
「――え?」
「何処からか、視線を感じたことはなかったか? 時が来るまで、自分の敷地から出ない方がいいと、押し留める何かを感じなかったか?」
私はふと思い出した。
ロイド子爵家のタウンハウスで、義父にセオを紹介した時――誰かの寂しげな視線を感じた事を。
ジンは、私の動揺に構わず、言葉を続ける。
「それなのに空の神子に、風の精霊に、すぐに心を開いたのは何故だ? 旅に出るのを後押しする存在を、感じなかったか?」
私の心に、誰かの気配がちらつく。
嫌な気配ではない、あたたかくて愛に満ちたもの――
「――答えは、そこに居る。そなたの中に」
――ああ、そうだ。
私、気付いてた。
私は、ジンと目を合わせる。
ジンは、口元に弧を描きながら、首肯した。
――セオは、息を呑み、目を見開いて固まっていたのだった。
ちなみに、あれほどヒューゴに付き纏っていたアイリスだが、ヒューゴが医務室から私室に移動してからは不気味なほど沈黙を保っている。
今も、火の神殿を再訪するため廊下を歩いているが、アイリスが近寄ってくる気配も感じない。
ヒューゴは、部屋の外に出た途端に寄ってくるのではないかと身を固くしていたが、予想が外れて拍子抜けしているようだった。
「どうやら火の精霊ジン様も落ち着いているようだな。さあ、行くぞ」
ヒューゴは、煙突のような中庭に揺れている焚き火に手を翳し、火の神殿への入り口を開く。
二度目なので、火をくぐるのも怖くない。
前回の帰り道のような気怠い暑さもなく、火の神殿は心地良い暖かさに満ちていた。
「よく来たな。先日はすまなかった」
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滑らかな絹織物に身を包み、どことなくヒューゴや国王に似た怜悧な表情で、腕を組んで佇んでいる。
体付きは細身だが、程よくしなやかな筋肉が付いていて、頭からは小さなツノが二本、控えめにその黒髪を押し上げていた。
「……ジン様、ですか?」
「そうだが? ……ああ、この姿のことか?」
以前会った時は、はち切れそうなほど大きな筋肉に覆われ、厳しい顔つきだったはず。
衣服も燃え盛っていたし、ツノだって大きく巻いていて、とてつもない威圧感を放っていた。
「お前の父の魔力が落ち着いたためだな。今は眠りに落ちているようだが、徐々に悪意も浄化されつつある。そのお陰か、見ての通り我も調子が良いのだ」
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「ヒューゴ、お前も落ち着いたようだな。父の心に触れたか? その痛みを垣間見たのだろう?」
「……はい」
ヒューゴはさっぱりとした表情で、ジンに返答する。
以前彼が見せた、瞳の奥の昏い炎は、綺麗さっぱり消えてしまったようだ。
眠っている間に、彼が何を見て何を感じたのか――また、国王からの手紙に何が記されていたのか、私には知る由もないが、ひとつ憑き物が落ちたようだ。
「さて、虹の巫女。空の神子。記憶を返そう。待たせたな」
ジンがその手で印を結ぶと、空中に小さな赤い炎が現れた。
私とセオは、炎に触れる勇気が出ず、思わずたじろいでしまう。
「熱くないから心配するな。さあ、触れるが良い」
私たちは顔を見合わせて頷くと、同時に炎に手を伸ばす。
赤い炎は一瞬で私たちを包み込み、見知らぬ世界へと私たちを誘っていった――
***
ごーん、ごーん。
鐘の音が響き渡る。
ここは、聖王都にある大神殿のチャペルだ。
『私』は、お父様の腕を取り、ヴァージンロードを進んでゆく。
一歩一歩が、『私』の人生。
真っ直ぐに敷かれたカーペットの向こう側。
『私』を待つ彼は、真っ白なタキシードを身に纏い、柔らかな笑顔を浮かべている。
普段はふわりと揺れる空色の髪は、きっちりと固められ、秀麗な顔立ちを引き立てていた。
彼は、『私』に手を差し出した――。
◇◆◇
「おぎゃあ、おぎゃあ」
生まれてきた小さな命は、愛しい彼にそっくりだった。
彼よりも淡い水色の髪。
瞼から覗く瞳は、澄んだ金色。
天からの贈り物、愛しい愛しい『私』の息子。
「生まれてきてくれてありがとう。あなたの名前は、セオドアよ――」
◇◆◇
ぴしゃあん、ゴロゴロゴロ……
雷鳴が轟き、ロイド家別荘の窓を雨が打ちつけている。
雷精《トール》も心配しているようだ。
このままでは、親友も、親友の赤ちゃんも、命を落としてしまう。
「大精霊よ、力をお貸しください」
『私』は祈った。
久しぶりに使う、『神子』としての力だ。
「どうか二人を救って――アリサと、生まれてくる命を」
しかし運命は、二人の命を繋ぐのを躊躇っているようだ。
『私』は、『神子』の力に『巫女』の力を上乗せして、混ぜ合わせていく。
「私の力を削ってもいい。私の命を削ってもいい。お願い、救って――アリサと、『パステル』を!」
あたりに光が満ちる。
祈りを込めて、魔力を込めて、生まれてくる赤子に名前を贈った。
運命のキャンバスに、『パステル』の命が吹き込まれていく――
◇◆◇
目の前に広がっている書類の数々に、『私』は確信を持った。
デイビッドさんが調合した解毒薬の種類、それを卸した時期。
オリヴァーと『私』が調べた、ジェイコブ陛下の情報。
アリサが入手した、ここ十数年のファブロ王国王家の動向。
――ファブロ王国には、ジェイコブ陛下の愛妾の子、『毒の精霊の加護を得た娘』がいる。
陛下の娘、ヴァイオレットは王国の深い所まで入り込んでいたが、力を使いすぎて精霊を魔物化させてしまった。
そして、『私』たちが毒の精霊を鎮めてしまったことで、ヴァイオレットは眠りにつき、国王は狂い始めた。
『私』は急ぎ手紙を認めた。
アリサの家に隠してもらうつもりだ。
もう少ししたら、ジェイコブ陛下が動くかもしれない。
そうなったら、ロイド家の別荘にでも集まって、今後のことを話し合わないといけないだろう。
その時にはセオとパステルちゃんも連れて――魔力の繋がりを築いておく必要がある。
このまま何も起きなければいいが、少し、嫌な予感がした。
◇◆◇
『私』が学園に通いはじめる少し前。
虹の巫女だった祖母は、『私』に力を引き継いだ。
「ソフィア、あなたの力は隠さなくてはなりません。あなたの『神子』としての力は、いざという時に取っておきなさい。今後は私から引き継いだ『巫女』の力を使うのですよ」
「はい、お祖母様」
『私』はパステルちゃんに『神子』の力を使いながら、そんな事を思い出していた。
パステルちゃんの中に仕込んだ種。
それに、『巫女』としての力を被せていく。
あと少しで、『私』の身体は消えてしまう。
オリヴァーも、アリサも、デイビッドさんも、一足先に行ってしまった。
けれど、パステルちゃんはエレナさんが、セオはカイとハルモニアさんが守ってくれるはず。
二人は良き友人として、それぞれの場所で役割を果たしてもらうはずだったし、お父様に遺した手紙にもあんなことを書いた。
――ああ、撤回する時間もないのが悔やまれる。
けれど、二人がまた巡り合って、想いが通じ合ったとしたら――きっとハルモニアさんも、お父様も、二人のために頑張ってくれるだろう。
『私』は最期の力を振り絞る。
パステルちゃんの色が、記憶が消えていく。
セオの感情が消えていく。
『私』の虹の力が、消えていく。
――二人とも、重いものを背負わせてごめんね。
さようなら、愛しい子たち――
***
私とセオは、火の神殿へと戻ってきた。
「今の記憶は……?」
今回の記憶は、これまでとは様相が違った。
これは、私自身の記憶ではない。
「――母上の、記憶?」
そう。
今見た記憶は、セオの母、ソフィアの記憶だ。
「どうして……? なぜ、ソフィア様の記憶が、心が、流れ込んできたのですか?」
「――お前は――」
火の精霊ジンは、すっと私に指を向けた。
「虹の巫女であることを知らなかったにも関わらず、何故、虹の力の使い方を憶えていたのだと思う?」
「――え?」
「何処からか、視線を感じたことはなかったか? 時が来るまで、自分の敷地から出ない方がいいと、押し留める何かを感じなかったか?」
私はふと思い出した。
ロイド子爵家のタウンハウスで、義父にセオを紹介した時――誰かの寂しげな視線を感じた事を。
ジンは、私の動揺に構わず、言葉を続ける。
「それなのに空の神子に、風の精霊に、すぐに心を開いたのは何故だ? 旅に出るのを後押しする存在を、感じなかったか?」
私の心に、誰かの気配がちらつく。
嫌な気配ではない、あたたかくて愛に満ちたもの――
「――答えは、そこに居る。そなたの中に」
――ああ、そうだ。
私、気付いてた。
私は、ジンと目を合わせる。
ジンは、口元に弧を描きながら、首肯した。
――セオは、息を呑み、目を見開いて固まっていたのだった。
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