三二・七六八の響き

浅黄幻影

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ぼくらが交わした約束

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 最近、ぼくは毎週帰るようにしている。美衣子は近くの病院で痛みを和らげる治療を受けている。他の薬は飲んでいないと話した。まだよくなっていないじゃないか、とぼくは少し声を張ったが、もう痛み止めしか飲むものがないのだと彼女は答えた。古いタイプの治療薬はあまりに副作用が強すぎて耐えられず、時が来るのを待つことにした、と。
 美衣子はどんどん遠くへいっている。美衣子の目は虚ろで、いつも苦しみに耐え、多くの不安に襲われている。彼女の意識はすでに現世からただ痛みと苦しみしかない世界に移っていって、となりにいるぼくのことに気をかける余裕なんて、ほとんどない。そしてぼくも、美衣子にしてやれることは何もない。

 それでも、美衣子はベッド脇のテーブルにいつもペアウォッチを置いてくれている。彼女はときどきそれを手に取って、ぼくのペアウォッチと見比べたり、耳に当てて小さく秒針の動く音を聞いていた。その音は彼女のこころをとても静かにするのだと言った。
「これの音を聞くと、きみと一緒にいる気がするんだよね。お店であれだけカチコチになって買ってくれた時計だからね、気持ちがこもってる。プレゼントしてもらったなかでも、一番のお気に入り。だから、ちょっとくらい遠くにいたって守ってもらっている気がする。死ぬのは怖いけど、でも、きみに見守られているから大丈夫」
 ぼくは何も言えずにいた。ときどき苦痛が和らいだときに見る彼女の強がりだった。その姿にぼくが送れるものは、慰めも元気づけもひとつとしてなかった。
 美衣子は両手に、彼女とぼくの時計両方を手にして眺めた。その手の上にぼくも手を乗せて彼女の白く冷たい肌と時計のわずかな秒針の振動を感じた。ぼくらはしばらく黙ってそうしていた。動き続ける時計は動き続けることの美しさを教えてくれた。止まってはいけない、すべては動き続け、生き続けなければならない、と。

 少しして、約束を覚えているかと彼女は聞いた。
「約束……何の約束?」
「一生、付き合うってこと。忘れてないよね?」
「もちろん、忘れてないさ」
「じゃあ、私の約束は守れたね。一生をきみと一緒に過ごせた。きみは新しい約束を誰かとするといいよ」
 やめろよ、とぼくは叫んでしまった。彼女は苦しそうな顔をして、でも微笑みは絶やさずに静かに話した。
「今のはね、きみに約束をずっと守れとか破ってもいいとか、そういうことを言ってるんじゃないの。もうすぐ、約束は達成されて、完了する。だから、きみは誰か別の人と新しい約束をするといいってこと。そう……、勘違いしないで、ふたりの時間はものすごく大切なものだから、終わるとか、なくすとか、忘れてとか、そういうことじゃないの。そんなこと、思うわけないじゃない。私は最期まできみと付き合っていたんだから、満足だよ」
 そんなことを言われると、ぼくは彼女のことばをもう否定することはできなかった。彼女の思いはぼくには十分に伝わっていた。美衣子の細く壊れそうな身体を抱きしめてぼくは泣いた。

 夜、ぼくはまた深夜バスに乗って町を去った。カーテンを閉めた窓際の席で、袖をまくって何度も腕時計を眺めた。
 文字盤の上を動いていく秒針は、ぼくに多くの時間を思い出させてくれる。テニスコートで釘付けになった胸の揺れ、初めてのカレー臭いキス、そしてたくさんの夜に聞いた変則的で次第に高まっていく彼女の鼓動。どれだって、いつでもぼくのこころに蘇る。
 思い出から聞こえてくるふたりの三二・七六八キロヘルツが止まらないよう、時計の針に願いを込める。
「時よ止まるな、停止は終わりしか意味しない。動き続けるからこそすべては美しい」
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