三二・七六八の響き

浅黄幻影

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カレーの終わり

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 熱海にいった旅行気分は数日、冷めなかった。端末に保存した写真を眺めたり記憶に留まっている風景やあの日の美衣子を思い返しては、ひとり密かに笑っていた。いつか別の連休なれば、またどこか他の観光地にもいけるだろうと楽しみになった。

 彼女の笑顔が美しかったのはもちろんだけれど、とても具合がよさそうに思えたからだ。手術は上手くいっていた、きっとナーバスになっていただけなんだとここしばらくの美衣子を見てそう考えた。旅行にもいけるし、ホテルの豪華で品数も多い料理もきちんと食べられる、快復して本当によかった、ともう疑うことはなかった。

 次に会う約束をした土曜日、ぼくは美衣子に頼み事をされた。何か料理を作って欲しいというのだった。
「無理して難しいのは作らなくていいから、普段きみが作っているやつで美味しいのを頼むよ」
 彼女はそう端末にメッセージを入れていた。

 正直なところ、ぼくはあまりいい食生活を送っていなかった。これまでに美衣子が来たときにはほとんど外食で済ませていたし、たまに食べる機会があっても美衣子が買ってきて料理するばかりで、ぼくが作ったことはなかった。スーパーで買った惣菜と白米で食べることが多く、野菜が必要だと思えば玉ねぎと大根をスライスしてドレッシングをかけるくらいで、たまに緑黄色野菜が必要ならさらににんじんを刻む、あるいは安い肉を適当に焼くくらいだった。
 困ったな、と思った。何とか思いついたのがそれなりにできるかという豚肉の生姜焼きだった。醤油と味醂と生姜の摺り下ろしで、食べさせるものとしての難易度にしても材料の値にしてもちょうどよいだろうと計算した。
 そういうことで、ぼくは自分がこれだと思う適当さで、豚肉と添える野菜、下に敷く玉ねぎを買いそろえた。いつもは入れないけれどニンニクもいいかなと考えたけれど蛇足はいけないと考えるのをやめ、冒険しないように気をつけた。美衣子に試作品を食べさせるのはよくないだろうと思ったのだ。

 部屋につき、台所を借りた。前もってご飯は炊いておくように言っていたので、部屋には炊き上がりのいい香りが漂っていた。
「何を作ってくれるのかな」
 そう言ってぼくを見ていたけれど、広げた材料から答えは丸わかりだったと思う。もちろん、わかるだろう。けれど問題は答えではなく、ぼくがどうやるのかが問われているのだ。
 ぼくは彼女のいたずらな視線を楽しんで料理をした。料理中のぼくにそれ以上のいたずらを仕掛けてこなかったのは残念だったけれど、期待するうちに生姜のタレが焼ける匂いが広がり、フライパンの上の動きに満足していった。
 大皿に盛った香り薫る豚肉とご飯と味噌汁を前にして、ぼくらはいただきますをした。箸を伸ばして口に運ぶと、思った通りいい味に仕上がっていた。
「どう? 美味しい?」
 ぼくは美衣子に味を認めてもらいたい一心でそう聞いた。彼女は一口、肉を口にして味噌汁を口に運ぶと
「すごくいいね」
 と、笑った。けれど、それ以上箸は進まなかった。ぼくも箸を止めた。
「ごめん、何か苦手なものとか入っていたかな。味は悪くないと思ったんだけど。しょっぱかったとか? 男は味がしょっぱくなりすぎるのかも」
 美衣子は小さく首を振った。
「違うの……本当はここしばらく、食欲がなくて。一週間くらいかな、あんまり食べたくないの。でも、そういうのはよくないなって。きみの料理なら食べられるかなって期待したんだけど、そういう問題じゃなかったみたい。ごめんね」
 ぼくは謝らなくていいと慌てていった。具合が悪かったならそう言えばよかったのに、と。むしろ、いくら食欲がなくても無理矢理に食べる必要はないだろうとも言った。それでも美衣子はまた、ごめんねを繰り返した。ぼくは病気は治っていない可能性が頭によぎっていた。
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