夜影の蛍火

黒野ユウマ

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第六章

第十一話 エゴイスティック(※)

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「……あの。影人さん」
「何?」

 影人さんに言われるままカラオケボックスに入り、部屋を取って約二十分。二人、ソファに隣り合って座ったまま時間だけが過ぎていた。
マイクを持つ気配もなければ、リモコンで数字を打ち込む気配もない。もっと言うなら、座ったまま特に大きな動きもない。

「……あの、練習は?」
「ああ……なんか恥ずかしくなったから今日はいいや」
「えぇ……」

 言い出しっぺのくせに、何のために寄り道したんだ。影人さんの気まぐれは今に始まったことではないが、もう少しくらいやる気を見せてもいいんじゃないかと思う。
いつライブで歌うのかは知らないが、こんな不真面目でいいのだろうか……思わずため息をついた。

「蛍歌っていいよ」
「いや、ボクもいいです……歌は得意ではないので」
「そう」

 ──そんな簡単な会話を最後に、また無言が続く。

(……)

 なんとなく、そわそわして落ち着かない。影人さんと二人きり、という心地良いはずの空間に身を置いているというのに。
そわそわ、というより「うずうず」といった方が近いかもしれない。ボクの手が、無意識に影人さんのもとへと伸びようとしている。

 ……ベッド上に寝転ぶ女子と影人さんの写真。そして、他の男とキスしてる(ように見えた)あの現場。
影人さんは確かにボクだけを好きでいてくれると確信していたはずなのに、未だにその二つが脳裏をちらついて離れない。

「……影人さん」

 ソファに置かれていた影人さんの右手に、そっと手を重ねる。ボクより少し冷たい温度に、心臓がとくんと鳴った。

「どうしたの、蛍」

 影人さんは特に驚いた様子もなく平然としている。緊張しているのは、きっとボクだけなのかもしれない。
それが悔しくてたまらない。

「……あのっ…」

 重ねたままの手に力を込めて、ゆっくりと指を絡めていく。恋人繋ぎのように、ぎゅっと強く握ってみる。
眉一つ動かさず、影人さんはじっとボクの顔を見るだけだ。見透かすようにじっと向けられた紅い双眸に、心臓を余計に突かれてしまう。

「何?」
「……キス、してもいいですか……?」

 絞り出すような声で呟く。キスなんて影人さんとは何度もしたはずなのに、今日は異様に緊張してしまう。
今までは、ほとんど影人さんからしてもらっていたからだろうか。そんなことも相まって、恥ずかしさが余計に募ってしまう。

「……いいよ」

 そんなボクの心境を知ってか知らずか、マスクを外し目を閉じる。何でもないことのように、しれっと受け入れるの姿に余裕を感じて仕方がない。

『金ヅルとしてしか見てない女共に俺からはしないし、するならその分金額盛る』

 ……去年聞いたそんなセリフを、ふと思い出す。
影人さんからしたら、キスなんてもう慣れきったことなのかもしれない。なんだか、それが悔しいと同時に悲しいと思ってしまう自分がいた。

 影人さんの頬に手を添え、そっと口付ける。
心臓を高鳴らせたまま、何度も軽く触れるだけのキスを繰り返す。

(影人さん……)

 唇を離せば、再び視線が交じり合う。吸い込まれそうなほど綺麗な赤い瞳が、まっすぐにボクを見据えていた。


(影人さんが好きだ)

(誰にも触れられたくない)

 言葉にする代わりにもう一度、今度は先程よりも長く深く唇を重ねた。ボクが舌を伸ばすと、何も言わずに影人さんは受け入れてくれた。

「んっ……」

 ぴちゃぴちゃとした音を立てながら、互いの舌が絡み合い始める。カラオケルームに響く音が、自分の声によるものなのかそれとも相手のものかも分からない。
ただひたすらに気持ちが良くてたまらなかった。息をする暇すらも惜しいと思えてくる。それほどまでに夢中になっていた。

「蛍……?」

 名残惜しくも唇を離すと、影人さんが潤んだ瞳でこちらを見る。吐息混じりの、どこか艶っぽい響きを帯びた声が耳元を掠めた。
 どくん、と大きく鼓動が脈打つ。気づいた時には再び唇を重ね、その体をソファに押し倒していた。

 口内を蹂躙しながら、服の中に右手を差し入れる。そっと胸元を撫でてやれば、びくりとその体が震えた。
首筋や脇腹など、体の至る所に軽い愛撫を与えていく。一つ一つの行為に対して敏感に反応しているようで、たまらないほど気分が高まってしょうがなかった。

 いつもは眉を動かすこともしない影人さんの顔が、少しずつ朱を帯び始めていた。薄く開いた瞼の隙間から覗く、とろんとした目がひどく扇情的で理性が揺らいでいく。

 今まで付き合いのあった人達に、彼はこんな姿を見せたこともあったのだろうか。
心の奥底までぎゅっと掴んで離さない、誰でも魅了してしまいそうなこの乱れた姿を──。

(……そんなの、嫌だな)

 不安にも似た想いが湧き上がった途端、加速していく。影人さんに対する独占欲、劣情──感情が感情を呼び、止めどなく溢れていく。
何もかも忘れるくらい、ぐちゃぐちゃにしてやりたい。今まで触れた人のことなんて消し去ってやれるくらい、ボクのことをこの身体に刻み付けてやりたい。
この人は、ボクだけの影人さんだ。誰も否定しようがないくらい、ボクの手で染め上げてやりたい。

 次から次へと沸き立つ激情のまま、ボクは影人さんのシャツに手をかけた。



(…………あ…………)

 ──すぅ、と理性が戻る。一気に頭が冷えていく。
晒された白い素肌に残る数々の傷跡が、視界に飛び込んでくる。
胸元に打撲跡や火傷の痕、脇腹から背にかけて残された切り傷の跡……影人さんが過去に受けた暴力の名残だ。

 父親からは容赦なく痛めつけられて、母親からは──……


(……あぁ、そうだ)

 目頭がじんわりと熱くなる。ボクはこの人の過去を知っていて、その辺の人よりも彼を理解しているはずだった。

 傷つけたくない。誰よりも大切にしたい。ボクが幸せにしたい。
ボクにとって彼は、そんな人だったはずだ。たくさん苦しい思いをしてきた彼を、今度は心の底から笑えるくらい幸せにしたいと思っていたはずなのに。


(本当に最低だ……感情に任せてこんなことをするなんて)

(ボクだって、彼の両親と変わらないじゃないか)


 ボクと彼は確かに「恋人」で、お互いに好きな気持ちを伝え合った仲だ。
けれど、彼の同意も得ずこんな一方的に──こんなの、ただの暴力。影人さんを苦しめてきた人と、なに一つ変わらない。
そう考えれば考えるほど、今自分がやろうとしたこと、自分の頭にあった思考回路全てが恐ろしく思えた。

「……蛍?」

 ぽた、ぽた。影人さんの肌を、透明な雫が伝っていく。気がつけば、ボクの目からは涙が流れていた。
止まることなく、次々と頬を濡らしていく。自分の意志とは無関係に流れるそれは、今更どう足掻いても止めることが出来なかった。

「……ごめん、なさい」

「ボク……影人さんに、こんな……乱暴なこと……」

 これ以上はいけない。いくらお互い好き同士とはいえ、何でもやっていいわけがないのだ。
影人さんだって、こんなところでいきなり……なんて、望んでもいないだろう。このまま事を進めてしまえば、影人さんを傷つけてしまう。
怒り、嫉妬、不安、欲望……そんな感情を真正面からぶつけられることを、影人さんはきっと良しとはしないだろう。

 理性が戻ってきたうちに、終わりにしよう。肌蹴させたシャツを元に戻そうと、ボタンをかけていく。
このままカラオケボックスを出て帰れば、影人さんのこともこれ以上傷つけなくて済む――



「……なんで止めるの?」

 ボタンを戻すボクの手を掴み、影人さんが小さく口を開く。普段通り淡々とした、しかし少し不機嫌さの混じった声色だった。
怒っているのか、それとも別の感情か……判断しかねる声音で言葉を紡ぐ。

「なんで、って……」
「別に俺、嫌だとか言ってないけど」
「だ、だって……ボク、アナタのこと乱暴にしようとしたんですよ!? アナタの意志を確認しないまま、こんなところでいきなりアナタを襲うようなことを――」

 そう言いかけたところで、言葉を止められた。ぐいっと引き寄せられた体が前へと倒れ、ソファの上の影人さんと重なる。
ふわり、鼻孔をくすぐる仄かな煙草の匂い。唇には柔らかい感触が押しつけられ、何が起こったのか理解する前にすぐ離された。

「……蛍ってさ、こういう時の俺のこと、全然分かってないよね」
「え、……どういうこと、ですか」
「今の、結構期待してたんだよ、俺」

 そう言って目を細めながら、ボクの手を下へと動かす。影人さんの中心部へと移動させられた手に伝わったのは、ほんの少し膨らんだ彼自身の感触。
それは、影人さんと行為をするようになってから知ったもの。言葉よりもずっと説得力のある影人さん自身の状態で、ボク自身も体を重ねるたびに理解していった生理現象だ。
……これを前向きに捉えていいなら、彼自身も「悪くない」と思ってくれていた……のかもしれない、けれど。

「人に抱かれる側って、なったことないし……何より、今まで蛍がこうやってがっついてくることもなかったしさ」
「え……初めて、なんですか」
「うん。金蔓おんなどもに主導権なんて死んでも握らせなかったし……ね」

 それに、と影人さんが続ける。

「俺は蛍が好きだよ。……蛍も、俺が好きでしょ?」
「っ、……はい……でも、」
「なら、それでいいじゃん。俺と蛍は愛し合ってるんだから、全然一方的じゃない」

 ゆっくりと影人さんの手が伸びて、人差し指を目元に滑らせる。影人さんの指が涙を救うように動いて、それが彼の唇の中へ吸い込まれた。

「……続き、シようよ。蛍にならめいっぱい抱かれてみたい」

 ――どくん、と鼓動が鳴る。いつもより色香を纏った瞳がじっとこちらを見つめてきて、その奥にある情欲に思わず身震いしそうになった。
あぁ、やっと理性が戻ったと思ったのに。誘うように見つめてくる赤い瞳が、じわじわとボクの体に熱を灯す。

「……本当に、いいんですね?」
「いいよ。なんなら、めちゃくちゃにしてくれたっていい」
「……。……後で愚痴を垂れても、一切聞きませんからね」

 いつからボクはこんな強気な言葉を吐けるようになったのだろうか。それほど、今のボクは彼に対して強い欲望を抱いているということになるのだろうけど。
影人さんが欲しいという感情に、突き動かされていると言ってもいいかもしれない。…………ここまでくれば、あとはもう進むしかない。

 リップ音と共に重なる唇の感触に、鎮まったはずの火が再び激しく燃え始めたような気がした。
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