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第五章
番外編 開かれた扉
しおりを挟む影人が三栗谷 平司のマンションに越してから数日──
「影人、どうじゃ。不自由はしておらぬか?」
「……別に」
尋ねる三栗谷に、スマホをぽちぽちいじりながら答える影人。目も合わせず、片手間に返事をする甥っ子に三栗谷は苦笑を浮かべるほかなかった。
彼の母親──影都の兄である三栗谷にとって、影人は大事な妹の子。産まれてきた経緯はどうあれ、自分の妹が愛した存在だ。
三栗谷にとっても、それは自分の子のように可愛い子だった。
……しかし、影人は自身の身内を酷く嫌っている。
その理由の全ては、自身を産んだ両親に収束されていた。
『ごめんなさい、パパ、ゆるして、いたい……!!』
『やだぁっ! ママ、やめ、っあ……!』
日常的に暴力を振った父親、息子に夫を重ねて性的虐待をした母親。
幼い頃、彼らにつけられた傷は、未だ影人の中に大きく残っている。
体中に残った傷跡、自分より大きな男性に触れられることに恐怖する心理。そして、誰かと肉体的に交わることへの歪んだ価値観。
健やかに育つべきだった幼い影人が歪んだのは、紛れもない両親の手によるものだ。
(……わしや影都にそっくりな見た目も、きっと嫌なのだろうな)
独身で子どものいない三栗谷にとって、影人は自分の血も引いている大切な子。そして、狂ってしまった妹やあの男に傷つけられた、幼き被害者。
三栗谷は彼への純粋な愛情だけでなく、彼の境遇に対する憐憫の情も抱いていた。
「……何じろじろ見てんの」
「あぁ、何でもない。すまぬな、影人」
「……」
ただ、三栗谷がどれだけ大切に想おうと──母親の身内である自分を、影人は良く思わない。
こうして一緒に住むことになったのも、彼の次の家が見つかるまでの間だ。期間限定の同居生活に、彼からの情はない。
あの男が、もっと真っ当な男であったなら。
妹が、あの男にあれほど狂わされなければ。
きっと、彼はもっとまっすぐに人を信じられる子になっていたかもしれない。
(そうしたら……少しくらい、親子の如く仲良くなれたかもしれぬがなぁ)
そんな"もしも"を想像しては、心の中でため息がこぼれる。
叶うことのない夢を、いつまでも見続けても虚しいだけ。分かってはいても、つい想像してしまう。
ないものねだりとはこういうことか、とそのたびに三栗谷は自身を嘲っていた。
「……」
「……どうした? 影人」
突然スマホの画面を閉じ、その場に伏せる。
自分の前で彼がスマホを手放すなんて、珍しい──何か違うと思った三栗谷は、じっと影人の動きを待った。
「……。……あのさ」
「何じゃ?」
「お前のことは、別に……嫌い、ってわけじゃないんだけど……」
下を向いたまま目を合わさず、マスクも外さない。三栗谷との間に壁を作った状態は保ちつつ、影人がぽつぽつと語る。
「別に嫌いってわけじゃない」──思わぬ言葉に、三栗谷の目が少しだけ開かれた。
「お前は別に、俺に危害とか加えてないし……むしろ、こうして俺を助けようとしてくれる。お前が悪い奴じゃないのは、頭じゃ分かってる。……けど……
──関わるのが、怖かった」
可愛い甥っ子からゆっくりと紡がれる想いに、三栗谷はただ耳を傾けた。
どんな言葉が出ようとも笑わず、憐れみも見せず。言葉をそのまま、フラットに受け入れる。
「お前は、あのクソババアの兄貴だ。俺が知ってる中じゃ、クソジジイの次にあいつに近い存在で……」
「……うむ」
「……お前と関わってるうちに、いつか……いつか、クソババアが俺のところに来るんじゃないかって」
……自分と似た紅い瞳が、僅かに震える。
弱みを見せたくないのか、顔は相変わらず背けている。けれど、一日に何人もの生徒を相手にしている養護教諭は、その小さな変化も見逃さなかった。
そして、彼が自分を嫌い避けていた理由を理解する。
実際、両親が「最低な落ちこぼれ」と嘲り落とした妹を、自分は今も見捨てていない。それどころか面会を何度かしており、兄妹の繋がりを未だ断ち切らずにいる。
いつか影都が来るんじゃないか──そう思われるのも、無理はない。実際、影都は影人に再び近付いたのだ。
どうやって影人の住所を当てたかは定かでないにしろ、影都を止められなかったのは兄である自分のせいでもある。
(……そもそも、影都がああなる前にもっと早く手を打てば良かったのだ……)
三栗谷の後悔は、学生時代までに遡るほど積みに積まれている。
そもそも妹が狂ってしまった原因は、夫である彰人──そして、彼に依存する要因を作った両親だ。
勉強が苦手で、いつも両親から罵られていた妹。その姿を、自分は一番近くで見ていたはずだった。
そして、心の中で誓い──彼女自身にも、自ら宣言していたのだ。
『僕が立派な医者になったら、きっと影都のことも助けてあげられる。だから、頑張るよ』
立派な医者になって独り立ちできたら、彼女を両親から離す。彼女の手を引いて、兄妹水入らずで暮らし……そうして、のびのびと自分らしく生きてもらおうと思っていた。
けれど、それでは遅かったのだ。自分が勉強や研修に明け暮れる日々の中、影都は壊れてしまった。
あともう少し、あともう少しだから──自分が立派な医者になるまで、と勝手な自己都合で彼女から目を離してしまっていた。
──日に日に壊れていく彼女の姿に、薄々感づいてはいたのに。
自身が医者になった頃には、もう影都は手遅れだった。
なかなか家に帰らず、加えて自らに暴力を振るう夫。それでも愛した彼を焦がれるあまり、その心は疲弊して。
そして、成長した息子に夫の姿を見てしまい──日毎、罪を重ねていった。
「主に今まで怖い思いをさせたのは、わしの責任でもある。わしは、主の母親……影都を守れなかった、不甲斐ない兄だ」
「………」
妹一人守れずして、何が立派な医者だろうか。壊れた妹を「落ちこぼれ」と蔑む両親を見下げ果てた三栗谷は、医者の道を退き現在の養護教諭となった。
そうして影人と再会し、今に至る。今度は、妹が産んだ大切な子が自分の目の前にいるのだ。
「……今度こそ、わしは家族を守ると決めた。主にとっては余計なお世話かもしれぬが……立派な大人になるまで、主にできることは何でもするつもりだ」
「……。……俺を、母親の代わりにでもしてるつもり?」
「いいや、それも違う」
影人からの問いに、三栗谷が首を振る。
「……二人とも、わしにとっては大事な存在じゃ。互いが代わりになることなどない」
「……」
「主が一人で歩けるようになるまで、わしは主を見守るつもりでいる。……その一方で、影都のことも助けていくつもりじゃ」
たとえ何十年かかろうと、昔のように兄妹仲良く暮らしたい──傍らに置いていたコーヒーを一口含み、三栗谷が笑む。
影人が強く覚えているのは、恐らく夫への愛に狂った母親の姿だ。
三栗谷すら映さない紅い瞳には、母への情など微塵もない。彼女がまともになるなど、彼には想像できないだろう。
両親ですら見捨てている彼女に期待を抱いている者など、恐らくこの世で自分だけかもしれない。
そう思いつつも、三栗谷は妹を支えていくと決めていた。
「……もちろん元の影都に戻ったとて、主と関わらせる気はない。そこは安心してくれると嬉しい」
「…………」
「主は主で、自身の幸せを見つけておくれ。……わしの手が届かぬほど遠くでも、構わぬ」
自分と目を合わせない甥っ子に、三栗谷は微笑み続ける。今のこの状況は、自分と甥っ子を表す縮図のようなものだ。
そして、それは恐らく妹も一緒で。妹の目に映っているのも兄である自分ではなく、まだあの男なのだろう。
どちらに対しても、未だ自分は一方通行だ。けれど、いつか二人が最後には幸せに笑ってくれれば、それでいい。
いつ何時も、三栗谷が願うのは大切な家族の幸せだけだった。
「……俺の心配はいいんだけどさ、自分は? まだ独身なんでしょ」
「ははは、なんとも手厳しいのう主は」
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