夜影の蛍火

黒野ユウマ

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第四章

第十五話 昔話・其の四①

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 ── これは、胸の奥底で露と消えた愛情の話。







 今から十二年くらい前──大体、ボクが幼稚園の年長で兄さんが小学校一年生くらいの頃。

「にーちゃん! はやくはやく!! はやくいこうよ!!」
「ほたるはせっかちだなぁ、にーちゃん追いかけるのがたいへんだぞ~?」」

 父親、母親、年子の兄、そしてボク。
この時は隣町で家族四人、庭付きの小さな一戸建てに暮らしていた。

 特別な血筋もない、大してお金持ちというわけでもない。
人から特別視されるような要素は何一つない──本当に、平々凡々な家庭。
それでも、ボクは十分なくらい幸せだった。

「ふふっ、二人とも元気ねぇ」
「白夜に蛍、転ばないように気をつけるんだぞ? あと、知らない人に声かけられても……」
「ついていくな、だろ? ほたるは俺がまもるから、だいじょうぶ!」
「頼もしいお兄ちゃんね。気をつけて行ってらっしゃい」

 愛情を注いでくれる両親に、頼もしく優しい兄さん。特に兄さんは、いつだってボクのことを気にかけてくれる。

 ボクが何かを成し遂げれば「すごいぞ」と頭を撫で、悲しいことがあれば一生懸命慰めて、一緒に遊んでいる時は全力で楽しんでくれる。
まだ5つにも満たない頃からボクのことを「大事、大事」とずっと言っていたらしく……その言葉通り、兄さんはボクをとても大事にしてくれた。

 兄さんとその友達に混じって遊ぶこともたまにはあったけれど、その友達もいい人ばかりで。
幼いながら、ボクにとって兄さんは何より自慢だった。


「ついたー!」

 二人で向かったのは、家から徒歩5分もかからない小さな公園。ボクら兄弟や兄さんの友達は、暇な時は決まってここで一緒に遊んでいた。
滑り台、回るジャングルジム、ブランコ、シーソー……どれも飽きるほど遊び倒したけれど、兄さん達と一緒なら何だって楽しい。

 そんな楽しい思いでの詰まった公園に、兄弟二人で訪れている。
この日は誰もおらず、まさに貸し切り状態の公園に胸を躍らせていた。

「ねぇにーちゃん、これどこにうめよっか」
「そうだな~。俺たちだけのヒミツだし、だれにも見つからないばしょがいいな」

 公園内をキョロキョロと見渡しながら、"だれにも見つからないばしょ"を探す。
近所の人であれば誰もが立ち寄り、子どもたちもあちこちで遊び回ってそうなこの公園で、誰も触れないような場所というのが果たしてあるのだろうか……。
幼いボクらはそんなことを考えることなく、夢中で「あっちじゃない、こっちでもない」と公園中を探し回っていた。


「ほたる! ここならどうかな?」

 探すこと、約五分。兄さんが指さしたのは、公園の端に立っている木の下だった。
公園を囲うフェンスと、その傍に立つ木の間──ここならば、確かに誰かが足を踏み入れることも少ないだろう。隠れん坊でもしない限りは。

「うん! ボクも、ここがいい! ここなら、きっとだれもこないとおもう!」
「だよな! じゃあ、ここにうめようぜ!」

 場所を決めたところで、兄さんが抱えていたプラスチックの小箱を置く。その隣で、ボクはカバンに詰めていた物を箱に詰め込んだ。
お祭りで取ったスーパーボール、二人で一緒に遊んだゲームのパッケージ、新聞紙、兄弟二人で撮った写真、そして──

「……にーちゃん、うめる前にもう一回よんでいい?」
「うん、いいぞ! 今日でそれを見るのもさいごだからな!」
「わかった! ちゃんときいててね、にーちゃん!」

 箱に詰める前に、一枚の紙を広げる。質感も色味も特別なものではない、至って普通のコピー用紙。

 そこにあるのは、兄さんに字を教わりながら書いた未来のボクらへの手紙だ。
形を真似ただけの字はあまりに汚くて、今となっては読めたものではないだろう。


【おとなになった みらいのにーちゃんとぼくへ

 いま、なんさいになってますか。なにをしていますか
 おとなになっても、ぼくとにーちゃんは、なかよしでいますか
 おとなになったぼくとにーちゃんも、いまのぼくたちみたいになかよしだといいな
 にーちゃんとぼくがだれかとけっこんしても、なかよしでいてね

 5さいのほたるより】


「じゃあ、おれもよむ! ほたる、よくきいてな!」
「うん!」

 ボクが手紙を読み終えると、兄さんも同じように紙を広げて読み上げる。
形を真似ただけの拙い字と違い、書き方もしっかり守られている──子どもの字にしては形の整った、丁寧な字だ。


【おとなになった みらいのおれとほたるへ

 おとなになったおれたちは、どんなことをしていますか?
 おれもほたるもたくさんべんきょうして、りっぱなおとなになっていますか?
 
 もしかなうなら、おれとほたるのきょうだいふたりで、いっしょのしごとをがんばっているといいな。
 だいすきなほたると、おとなになってもなかよしでいてください。

 6さいのびゃくやより】


 書き方は違えども、兄弟揃って願い事は同じだった。

 いつまでも、兄弟仲良しでいること。
それぞれの道が分かれる時が来ようと、強い絆で結ばれていること。

 まだ見ぬ遠い未来のボクらへそんな期待を抱きながら、タイムカプセルを木の下に埋める。

「めじるしはこの木だ! おとなになったら、ほりおこしにこような!」
「うん、やくそくだよ! にーちゃん!」

 希望に満ちあふれた明るい笑顔を浮かべて、小指を絡める。幼い子どもが約束ごとをする時の、定番の仕草だ。
 子どものボクらは何より純粋で、これからの未来を明るいものと信じて疑わなかった。



 人の心も、未来も、どうにでも変わってしまうと知らずに。



◇ ◇ ◇



「……数学……47点、ね」

 時は流れ、ボクが中学生になった頃。
「不破 蛍」と書かれた答案用紙を呆れたように見つめるのは、あの優しかった母親だ。

「お兄ちゃんの弟なんだから、もうちょっと良い点取れても良かったじゃない。白夜がいない時もちゃんと勉強してたの?」
「……してましたよ」
「そう。でもきっちり結果に出てないんじゃ、してないのと同じよ。白夜がせっかくあれだけ面倒見てくれてるのに、可哀想」

 分かりやすいくらいに不機嫌なため息に、体中が冷たくなる。
出来の悪い次男ボクに失望している──その感情を包み隠さず表出する母親の目が、幼いボクには恐怖でしかなかった。

 「母親」というものに、「子」はこんなにも弱いのだろうか。
母親に失望された数だけ、この家にいる価値もどんどん無くなっていく──そんな気がして。

「母さん、それはないだろ! 蛍だって一生懸命頑張ったんだから!」
「あのねぇ、白夜。いくら頑張っても結果が悪いんじゃ、社会に出ても良い評価なんてもらえないのよ。私たちが何故こうして食べていけるか分かる? お父さんが会社で「頑張る」だけじゃなく、「ちゃんと功績を残しているから」なのよ。ねぇ、アナタ」
「あ、……まぁ……」

 ボクを庇うように出た兄さんに、先程とは真逆の優しい声色で返す。
「ねぇ」と同意を求められた父親は、小さく曖昧な返事をするだけだった。

「白夜だってそう。先生からの評判が良いのは、学んだことをちゃんと結果に残せているからなの。そうじゃなかったら、今頃母さんみたいに呆れられているわ」
「そんなこと……きっと、先生だってちゃんと蛍のこと分かって」
「とにかく、蛍はお兄ちゃんを見習ってもっと頑張ってちょうだい。……どうして兄弟なのにこうも違うのかしら」

 "兄弟なのに"──その言葉が、ボクの胸を深く抉る。
ボクにも向けてくれていたあの優しい眼差しは、もう遠い彼方へ消えていた。


 ボクら兄弟が「幼稚園生」から「学生」へシフトしてからというもの……学校で勉強やスポーツを学び、その能力を「テスト」という形で試される。
本人の能力が数値で可視化され、優劣が付けやすくなってしまう時代が来てしまったのだ。

『お兄ちゃんの弟なんだから、もうちょっと良い点取れても良かったじゃない』

 当然ボクら兄弟間でも、それは適応される。
兄が一足先に残した成績とボクの成績を比べるようになってから、母は「優しいお母さん」から「冷徹で怖いお母さん」へと変遷した。
「お兄ちゃんはあんなに優秀なのに」、そんな意を含めた言葉を吐いてはボクを見下ろしてばかりだ。

「大丈夫だ、蛍。母さんはああ言ってるけど、俺は蛍の頑張ってる姿をちゃんと知ってるし」
「……うん」
「蛍は蛍で頑張ればいい、お前は俺の苦手な漢文とか化学式で全問正解してたじゃないか! 母さんは自分の子のそういう違いが分かってないだけだ、蛍だって凄いんだぞ! 俺にとってはいつまでも可愛い弟だ!」
「ちょ、ちょっと! やめてくださいよ兄さん! ボクもう小さい子どもじゃないんですから!」

 わしゃわしゃ、と頭を撫でる兄さん。昔と変わらない優しい眼差しを向けてくれるのは、兄さんだけ。
母親がどれだけボクを蔑もうと、父親がどれだけ見て見ぬ振りを決め込もうと……兄さんだけはいつもボクの味方でいてくれた。

 どんな時も愛してくれる兄さん。笑顔で、ボクの全てを包み込んでくれる優しい兄さん。
何があってもボクを見捨てないでいてくれる、そんな兄さんが何よりの自慢で、大切で、大好きだ。





 ── 大好きだった。
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