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第十三章 自覚
三節 徽章
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双子がせっせと刺繍を施している頃、ルシフェルは当日の打ち合わせ会議と言う名の顔合わせ親睦会に参加していた。
「はぁ」
ルシフェルは小さく溜息を付いた。
「子供たちが心配ですか?」
ルシフェルの溜息を見逃さなかった第一聖女のリリアーヌが声をかけてきた。
「恐らくそうなのでしょうね」
転移を行えばいつでも会える。それは逆に転移を行わない限り会うことができないということでもある。そうしてわかる親の子離れの苦悩、いつ死ぬか分からなかった時に思っていたラジエラの事とは一切違う。
「ふふふ、ユンカース様も相当な子煩悩なのでしょう。良きことではありませんか」
「放置されるよりははるかにましですね」
自身がそうであったからこそ、ラジエラにも、双子にも、クシェルにもそんな思いをさせるつもりはなかった。だからこそ、今になって初めて、転移以外の方法ではしばらく会えない時間ができてしまった。
傍にいることを当たり前にしすぎた。その結果、来年の別れが怖いと感じてしまう。
「失敗しましたか?」
「いいえ、良い子に育っているので、明らかな失敗ではありません」
「では良いではありませんか」
違いない、そう思わされる言葉だった。
「第一聖女リリアーヌ・ヴィオネ様、お手を拝借できませんか」
「構いませんよ」
そうして差し出された手に何かを握らせた。
「これは・・・」
「私の心を軽くしていただいたお礼です」
その手に握らせたのは三対の刺繍が施された布で覆われた、四ゼンヤーツ|(約三センチメートル)の徽章だ。
「旅団の徽章ですね」
「いいえ、本来の私の徽章です」
リリアーヌの顔は驚愕に染まった。
黒く染められた布に銀色の刺繍糸、白金級傭兵ユンカースを示す徽章であり、ルシフェルを示す徽章でもある。
傭兵から自身を示す徽章を贈る意味、それは、送った人の依頼ならいつでも無料で受けますと言うものだ。その意味が礼となるのは銀級以上の話なのだが。
はたから見る分にはこの意味で捉えられるので問題はない。
ただ、今回の場合は、本来の私、即ちルシフェルとして下賜した形になる。
この場合は話が違い、送った人を自分の巫に連なる人として認めるということになる。人族ではこれを『天使の腹心』と言う。位置としては『天使の巫』の一つ下になる。
「今後の為の安全策です」
「ありがたくいただきます」
リリアーヌはさっそくこの徽章を付けた。こちらの意図を組んで遜ろうとしないのはさすがと言えるだろう。
因みに、リリアーヌとイネスが並び立った時、どちらが巫であるかはすぐにわかる。なぜならイネスが付ける徽章は、光魔法が埋め込まれており、淡く光るからだ。
「ということは、イネスはやはり」
「ええ」
リリアーヌは哀愁深い顔をした。下手をするともう二度とイネスとは会えないと宣言されたようなものだからだ。
天使の伴侶となり、子供までできた以上、イネスは天で暮らすことが確定したようなもので、よっぽどの理由がない限りは地上に戻ってくることはない。
可能性があるのは、地上の勉強の為にクシェルが降臨する際についてくるぐらいだ。ただ、年の近いルムエルとルマエラがいるので、その二人と同時降臨となる可能性が高く、イネスが同行する可能性は極めて低い。
「寂しいですね」
「メルノカ島に着いてからは、少しでもお時間はございますか?」
「ありますが、会ってもよろしいのですか?」
「もちろんです。時間はいくらでも作れます」
リリアーヌから悲しい表情が抜け、どこかほっとしたように微笑みを浮かべた。
「私以外の聖女も一緒によろしいですか?」
「イネス様の為にもお願いしようと思っておりましたから大丈夫ですよ」
「ではよろしくお願いいたします」
軽い会釈をし、リリアーヌは感謝を示した。
気付いているかもしれないが、ここにいるマクシムとファブリスは、ユンカースがルシフェルその人であることは知らない。知らない者が要る以上、正体を隠しているのだから下手な言動と行動はできないのである。
嬉しそうな顔をして、リリアーヌは他の聖女の元に戻った。
重要な話は終わっているので全員酒を呑んでいるのだが、見事に呑まれてしまっているファブリスが、ルシフェルの首に腕を回しで「やるなぁ」と絡んできた。
正体を知っている周りはその行為に狼狽えて、アルコールが飛んでしまっている。
「ファブリス、弱い癖に飲み過ぎだぞ?なったばかりとは言え、相手は白金級だぞ」
そんなファブリスの行為を咎めるのはマクシムで、だいぶ呑んでいるはずなのに顔すら酔っていないところを見ると、冷めたと言うよりも笊だ。
「あー?いいじゃねーか、あの、第一聖女があんな態度なんだ、悪い奴じゃねーよ」
「あの態度を取るほどの方、だろうが」
マクシムの言うように普通はそう判断するはずだ。
「構いませんよ。この程度で怒りはしません。明日に響かなければ、の話ですが」
「なーんだよ、かったいなー、明日には抜けてるから大丈夫だ」
酔っ払いの言う大丈夫程信用にならない言葉はない。
そのままではむさ苦しいので、ファブリスの腕を振り払ったルシフェルは眼鏡を正し、手持ちのグラスでファブリスのグラスを鳴らした。
「ファブリス様、護衛対象をもう一度考えてください?彼女らに何かあった時、どう責任を取るおつもりなのですか?まさか私たちの首も差し出せと言うのではないでしょうね?」
そう言いながらルシフェルは、ファブリスに通信魔法を応用し、強烈なイメージを焼き付けた。自身のルシフェルとしての姿を、である。
ファブリスがグラスを落とさないよう、その手を支えてやると案の定力が抜けている。
口をぱくぱくさせるファブリスはマクシムに連行されて帰ることになったのだった。
翌日、すっかり酔いの抜けたファブリスが何か言おうとしてきたのに対し、ルシフェルは口元を人差し指でなぞって見せた。
これは傭兵の風習で、この前のことは不問にするから黙っていろ、と言うサインである。
打ち合わせ通りに配置が済むと、リアムの一声で飛び立った。
一方その頃
「「できたー!」」
双子が挙げた声に対してクシェルが驚いてしまったが、刺繍を見せられて喜んでいる。
最後に、ラジエラの手によって縁が縫われ手拭いとして完成した。そのまま渡すと芸がないので、予め作っておいた紙箱に収めて蓋をした。
ようやくできるようになった空間魔法で亜空間に仕舞った。
そして今度は手作りケーキの材料を集め、調理場を貸してもらう為、モニクに会いに行く。約束の時間が押しているので、急ぎ足の移動となり、イネスとクシェルはお留守番だ。
モニクは落成式の代理出席の為、数日前からメルノカ島にいる。
「お、時間通りだな。ん?その顔は一つ目が出来上がっているんだな?」
「「そうだよ」」
約束する時に伝えているのでモニクも双子が何をするのか知っている。そもそも、青銀色の糸も赤銅色の糸も、モニクから仕入れたもので、モニクでないと仕入れられなかった糸である。流通王ギャロワ商会も伊達ではない。
「そりゃよかった。お兄さんが帰ってくると作るの大変だもんな」
「「うん」」
しっかりと頷く双子の顔は嬉しさに染まっている。
「で、クーヘン|(ケーキ)の材料と試作だったな。高脂肪のミルヒクー|(家畜化した牛の獣魔)の乳はやっぱり無理だった」
「生乳はあるんですよね?」
「もちろんさ」
それだけ確認したラジエラは大丈夫だと言って、厨房への移動を促した。
高脂肪のミルヒクーの乳、即ち生クリームは安定して量を作れる工場が存在せず、お菓子を専門とする店が独自で作っている。貴族や皇族、王族御用達となれるかどうかは、生クリームの製法を知っているかどうかが大きな鍵であるほど広くは知られていない。
牛酪、即ちバターは生乳から簡単に作れるので、脱脂乳と共に広く流通している。
今回、そして当日借りる厨房は宿の厨房なので、数人の料理人が何を作るのか興味津々になっている。
厨房に立ってみると、結局二ヤーツ(百五十二センチメートル)に届かない双子では、設置してある調理台が少し高い。鳩尾より上が出ており、今回は魔法を使って調理するので問題はない。
金属製のボールをセレが冷やして、イムが丁寧に卵の白身を撹拌している傍で、ラジエラは五リットルの生乳を魔法で浮かせて恒温遠心分離を始めた。
その様子を見ている料理人の男一人が頭を抱えた。理由は、ラジエラがかなりの数の魔法を同時起動した上で、双子の作業に口を出しているからだ。
双子がやっているのはメレンゲを作るだけの事なので、その程度ならその男でも容易にできる。一方のラジエラがやっていることは、師匠でもできなかったことであり、師匠に追いつけていないので到底真似できないことだ。
「何をしているのか気になるのなら、解析魔法で解析してみて?」
更には料理人たちにまで声をかけてきた。
それでも、料理人たちはホッとした。確かに同時起動している魔法は多いが、消費する魔力は案外少なかったからだ。だったら、料理人たちでも訓練したらできるようになる。
ただ、他人の作業に口を出しながらこの作業はさすがに無理だ。解析魔法でよくわかったラジエラの並行作業力に驚くほかなかった。
「少ないけど、しょうがないか」
ラジエラによって約四百ミリリットルの生クリームが出来上がる頃、双子は型に流したケーキの生地をオーブンに入れていた。ラジエラはイムをそのままオーブンの温度管理に残して、セレを近くに呼んだ。
セレに手伝いをさせて、生クリームを処理したのだが問題が起こる。それは低温保管による熟成の時間がないことだ。
ラジエラは熟成を早める魔法の理論を知らないのでどうやっても使えない。たとえ知っていたとしても、料理人たちでは魔力が足りない。
しかし、セレが驚くべきことを口にした。
「汎用ならたぶん使える」
セレの言う汎用とは、用途によって違う促進魔法の大方をカバーできる時間魔法のことだ。
「あと、イムちゃんもたぶん使えるよ。ねー?」
「うん。たぶん」
こっちを向きもしないイムだが、話は聞いていたようで、ちゃんと返事をしてきた。
時間魔法は空間魔法の応用であり、空間魔法は時間魔法の応用でもある。双子の場合、空間魔法を使う為に時空間一体論をルシフェルによって教え込まれている。その為、空間魔法が使えるようになったことで、時間魔法も使えるようになっているのだ。
ラジエラは時空間一体論を習ってから相当な時間が経っているので、時間魔法を使えないのである。一般人には空間魔法の方が直接的な利便性を持っており、緊急性がないと時間魔法の利便性が少なく、必要な魔力量も多いので習得者は少ないのだ。
あくまでも一般人だったことで、ラジエラは意外と損をしている。
そう言うのなら、とラジエラは生クリームを半分に分けてセレに時間魔法を使わせた。
そうして出来上がった生クリームに砂糖を足しながら攪拌させると見事にホイップクリームが出来上がった。
「完璧だよ、同じことこっちにもやって」
「分かった」
そうして出来上がった二つの生クリーム、味見をする料理人たちは相当感動している。
果物をカットしているうちにスポンジケーキが焼き上がり、今度はイムが時間魔法で冷まし、当日に作るであろう誕生日ケーキが完成した。
この場にいる人数と、いないイネスとクシェルの分をカットして試食をする。酸味の強い果物は砂糖水に浸ける等の改善が出たが、それでも成功であった。
生クリームとホイップクリームの製法が宿に知られたので、二つのレシピとしてその場で契約を行い、更なる収入源となった。
「誕生日とかの特別な日に食べる、か。確かに、それだったら時間を掛ければ一般人にも広がるし、毎日作ってもいいかもしれないな」
誕生日の概念はちゃんとあり、いつもより豪華な物で祝うのはどこも同じだ。そこに、今回のケーキを加えるだけなので、そういう意味ではギャロワ商会としてもある程度採算が取れると踏んでいる。
一度で広い範囲に宣伝できるので、ギャロワ商会の方が早く資金回収できるだろう。
貴族向けには更に華やかに、一般には特別な日に貴族と同じ物を、と言う宣伝のヒントを与えた。
また、新しい契約のお礼として、当日は夕食代を無料にした上で、少し豪華にしてもらえることになった。
こうして、刻一刻とルシフェルを驚かせる為の準備が整っていった。
「はぁ」
ルシフェルは小さく溜息を付いた。
「子供たちが心配ですか?」
ルシフェルの溜息を見逃さなかった第一聖女のリリアーヌが声をかけてきた。
「恐らくそうなのでしょうね」
転移を行えばいつでも会える。それは逆に転移を行わない限り会うことができないということでもある。そうしてわかる親の子離れの苦悩、いつ死ぬか分からなかった時に思っていたラジエラの事とは一切違う。
「ふふふ、ユンカース様も相当な子煩悩なのでしょう。良きことではありませんか」
「放置されるよりははるかにましですね」
自身がそうであったからこそ、ラジエラにも、双子にも、クシェルにもそんな思いをさせるつもりはなかった。だからこそ、今になって初めて、転移以外の方法ではしばらく会えない時間ができてしまった。
傍にいることを当たり前にしすぎた。その結果、来年の別れが怖いと感じてしまう。
「失敗しましたか?」
「いいえ、良い子に育っているので、明らかな失敗ではありません」
「では良いではありませんか」
違いない、そう思わされる言葉だった。
「第一聖女リリアーヌ・ヴィオネ様、お手を拝借できませんか」
「構いませんよ」
そうして差し出された手に何かを握らせた。
「これは・・・」
「私の心を軽くしていただいたお礼です」
その手に握らせたのは三対の刺繍が施された布で覆われた、四ゼンヤーツ|(約三センチメートル)の徽章だ。
「旅団の徽章ですね」
「いいえ、本来の私の徽章です」
リリアーヌの顔は驚愕に染まった。
黒く染められた布に銀色の刺繍糸、白金級傭兵ユンカースを示す徽章であり、ルシフェルを示す徽章でもある。
傭兵から自身を示す徽章を贈る意味、それは、送った人の依頼ならいつでも無料で受けますと言うものだ。その意味が礼となるのは銀級以上の話なのだが。
はたから見る分にはこの意味で捉えられるので問題はない。
ただ、今回の場合は、本来の私、即ちルシフェルとして下賜した形になる。
この場合は話が違い、送った人を自分の巫に連なる人として認めるということになる。人族ではこれを『天使の腹心』と言う。位置としては『天使の巫』の一つ下になる。
「今後の為の安全策です」
「ありがたくいただきます」
リリアーヌはさっそくこの徽章を付けた。こちらの意図を組んで遜ろうとしないのはさすがと言えるだろう。
因みに、リリアーヌとイネスが並び立った時、どちらが巫であるかはすぐにわかる。なぜならイネスが付ける徽章は、光魔法が埋め込まれており、淡く光るからだ。
「ということは、イネスはやはり」
「ええ」
リリアーヌは哀愁深い顔をした。下手をするともう二度とイネスとは会えないと宣言されたようなものだからだ。
天使の伴侶となり、子供までできた以上、イネスは天で暮らすことが確定したようなもので、よっぽどの理由がない限りは地上に戻ってくることはない。
可能性があるのは、地上の勉強の為にクシェルが降臨する際についてくるぐらいだ。ただ、年の近いルムエルとルマエラがいるので、その二人と同時降臨となる可能性が高く、イネスが同行する可能性は極めて低い。
「寂しいですね」
「メルノカ島に着いてからは、少しでもお時間はございますか?」
「ありますが、会ってもよろしいのですか?」
「もちろんです。時間はいくらでも作れます」
リリアーヌから悲しい表情が抜け、どこかほっとしたように微笑みを浮かべた。
「私以外の聖女も一緒によろしいですか?」
「イネス様の為にもお願いしようと思っておりましたから大丈夫ですよ」
「ではよろしくお願いいたします」
軽い会釈をし、リリアーヌは感謝を示した。
気付いているかもしれないが、ここにいるマクシムとファブリスは、ユンカースがルシフェルその人であることは知らない。知らない者が要る以上、正体を隠しているのだから下手な言動と行動はできないのである。
嬉しそうな顔をして、リリアーヌは他の聖女の元に戻った。
重要な話は終わっているので全員酒を呑んでいるのだが、見事に呑まれてしまっているファブリスが、ルシフェルの首に腕を回しで「やるなぁ」と絡んできた。
正体を知っている周りはその行為に狼狽えて、アルコールが飛んでしまっている。
「ファブリス、弱い癖に飲み過ぎだぞ?なったばかりとは言え、相手は白金級だぞ」
そんなファブリスの行為を咎めるのはマクシムで、だいぶ呑んでいるはずなのに顔すら酔っていないところを見ると、冷めたと言うよりも笊だ。
「あー?いいじゃねーか、あの、第一聖女があんな態度なんだ、悪い奴じゃねーよ」
「あの態度を取るほどの方、だろうが」
マクシムの言うように普通はそう判断するはずだ。
「構いませんよ。この程度で怒りはしません。明日に響かなければ、の話ですが」
「なーんだよ、かったいなー、明日には抜けてるから大丈夫だ」
酔っ払いの言う大丈夫程信用にならない言葉はない。
そのままではむさ苦しいので、ファブリスの腕を振り払ったルシフェルは眼鏡を正し、手持ちのグラスでファブリスのグラスを鳴らした。
「ファブリス様、護衛対象をもう一度考えてください?彼女らに何かあった時、どう責任を取るおつもりなのですか?まさか私たちの首も差し出せと言うのではないでしょうね?」
そう言いながらルシフェルは、ファブリスに通信魔法を応用し、強烈なイメージを焼き付けた。自身のルシフェルとしての姿を、である。
ファブリスがグラスを落とさないよう、その手を支えてやると案の定力が抜けている。
口をぱくぱくさせるファブリスはマクシムに連行されて帰ることになったのだった。
翌日、すっかり酔いの抜けたファブリスが何か言おうとしてきたのに対し、ルシフェルは口元を人差し指でなぞって見せた。
これは傭兵の風習で、この前のことは不問にするから黙っていろ、と言うサインである。
打ち合わせ通りに配置が済むと、リアムの一声で飛び立った。
一方その頃
「「できたー!」」
双子が挙げた声に対してクシェルが驚いてしまったが、刺繍を見せられて喜んでいる。
最後に、ラジエラの手によって縁が縫われ手拭いとして完成した。そのまま渡すと芸がないので、予め作っておいた紙箱に収めて蓋をした。
ようやくできるようになった空間魔法で亜空間に仕舞った。
そして今度は手作りケーキの材料を集め、調理場を貸してもらう為、モニクに会いに行く。約束の時間が押しているので、急ぎ足の移動となり、イネスとクシェルはお留守番だ。
モニクは落成式の代理出席の為、数日前からメルノカ島にいる。
「お、時間通りだな。ん?その顔は一つ目が出来上がっているんだな?」
「「そうだよ」」
約束する時に伝えているのでモニクも双子が何をするのか知っている。そもそも、青銀色の糸も赤銅色の糸も、モニクから仕入れたもので、モニクでないと仕入れられなかった糸である。流通王ギャロワ商会も伊達ではない。
「そりゃよかった。お兄さんが帰ってくると作るの大変だもんな」
「「うん」」
しっかりと頷く双子の顔は嬉しさに染まっている。
「で、クーヘン|(ケーキ)の材料と試作だったな。高脂肪のミルヒクー|(家畜化した牛の獣魔)の乳はやっぱり無理だった」
「生乳はあるんですよね?」
「もちろんさ」
それだけ確認したラジエラは大丈夫だと言って、厨房への移動を促した。
高脂肪のミルヒクーの乳、即ち生クリームは安定して量を作れる工場が存在せず、お菓子を専門とする店が独自で作っている。貴族や皇族、王族御用達となれるかどうかは、生クリームの製法を知っているかどうかが大きな鍵であるほど広くは知られていない。
牛酪、即ちバターは生乳から簡単に作れるので、脱脂乳と共に広く流通している。
今回、そして当日借りる厨房は宿の厨房なので、数人の料理人が何を作るのか興味津々になっている。
厨房に立ってみると、結局二ヤーツ(百五十二センチメートル)に届かない双子では、設置してある調理台が少し高い。鳩尾より上が出ており、今回は魔法を使って調理するので問題はない。
金属製のボールをセレが冷やして、イムが丁寧に卵の白身を撹拌している傍で、ラジエラは五リットルの生乳を魔法で浮かせて恒温遠心分離を始めた。
その様子を見ている料理人の男一人が頭を抱えた。理由は、ラジエラがかなりの数の魔法を同時起動した上で、双子の作業に口を出しているからだ。
双子がやっているのはメレンゲを作るだけの事なので、その程度ならその男でも容易にできる。一方のラジエラがやっていることは、師匠でもできなかったことであり、師匠に追いつけていないので到底真似できないことだ。
「何をしているのか気になるのなら、解析魔法で解析してみて?」
更には料理人たちにまで声をかけてきた。
それでも、料理人たちはホッとした。確かに同時起動している魔法は多いが、消費する魔力は案外少なかったからだ。だったら、料理人たちでも訓練したらできるようになる。
ただ、他人の作業に口を出しながらこの作業はさすがに無理だ。解析魔法でよくわかったラジエラの並行作業力に驚くほかなかった。
「少ないけど、しょうがないか」
ラジエラによって約四百ミリリットルの生クリームが出来上がる頃、双子は型に流したケーキの生地をオーブンに入れていた。ラジエラはイムをそのままオーブンの温度管理に残して、セレを近くに呼んだ。
セレに手伝いをさせて、生クリームを処理したのだが問題が起こる。それは低温保管による熟成の時間がないことだ。
ラジエラは熟成を早める魔法の理論を知らないのでどうやっても使えない。たとえ知っていたとしても、料理人たちでは魔力が足りない。
しかし、セレが驚くべきことを口にした。
「汎用ならたぶん使える」
セレの言う汎用とは、用途によって違う促進魔法の大方をカバーできる時間魔法のことだ。
「あと、イムちゃんもたぶん使えるよ。ねー?」
「うん。たぶん」
こっちを向きもしないイムだが、話は聞いていたようで、ちゃんと返事をしてきた。
時間魔法は空間魔法の応用であり、空間魔法は時間魔法の応用でもある。双子の場合、空間魔法を使う為に時空間一体論をルシフェルによって教え込まれている。その為、空間魔法が使えるようになったことで、時間魔法も使えるようになっているのだ。
ラジエラは時空間一体論を習ってから相当な時間が経っているので、時間魔法を使えないのである。一般人には空間魔法の方が直接的な利便性を持っており、緊急性がないと時間魔法の利便性が少なく、必要な魔力量も多いので習得者は少ないのだ。
あくまでも一般人だったことで、ラジエラは意外と損をしている。
そう言うのなら、とラジエラは生クリームを半分に分けてセレに時間魔法を使わせた。
そうして出来上がった生クリームに砂糖を足しながら攪拌させると見事にホイップクリームが出来上がった。
「完璧だよ、同じことこっちにもやって」
「分かった」
そうして出来上がった二つの生クリーム、味見をする料理人たちは相当感動している。
果物をカットしているうちにスポンジケーキが焼き上がり、今度はイムが時間魔法で冷まし、当日に作るであろう誕生日ケーキが完成した。
この場にいる人数と、いないイネスとクシェルの分をカットして試食をする。酸味の強い果物は砂糖水に浸ける等の改善が出たが、それでも成功であった。
生クリームとホイップクリームの製法が宿に知られたので、二つのレシピとしてその場で契約を行い、更なる収入源となった。
「誕生日とかの特別な日に食べる、か。確かに、それだったら時間を掛ければ一般人にも広がるし、毎日作ってもいいかもしれないな」
誕生日の概念はちゃんとあり、いつもより豪華な物で祝うのはどこも同じだ。そこに、今回のケーキを加えるだけなので、そういう意味ではギャロワ商会としてもある程度採算が取れると踏んでいる。
一度で広い範囲に宣伝できるので、ギャロワ商会の方が早く資金回収できるだろう。
貴族向けには更に華やかに、一般には特別な日に貴族と同じ物を、と言う宣伝のヒントを与えた。
また、新しい契約のお礼として、当日は夕食代を無料にした上で、少し豪華にしてもらえることになった。
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