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51 置き土産の相対稽古

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「おはよー、看守長」

 場所は独房の棟。
 薄暗い通路だ。今まさに独房を開け放ってやろうと思っているところ。

「……」

 視線だけで振り返る。
 腑抜けた挨拶とは裏腹に、看守は俺の背後に立ち、銃口を向けていた。

 支給されているテーザーガンではなく、実弾が入った銃だ。


「……悪いな。俺はもうお前と仕事をする気はない」
「そーみたいだね。ウチ、看守長のこと大好きだったのに」

 残念だよ、と看守は言う。笑っている。心底楽しそうに。

「でもウチは、こうなることを望んでたよーな気がするんだよね」
「もっと早くに懲戒免職にしてほしかったのか?」
「アハハ! 看守チョーってば、ホントにサイコー!」

 俺は体を捩って銃口から逃れ、蹴りを放ちその手を狙う。
 しかし看守は銃口を逸らせて発砲し、それは俺の肩を貫いた。


「アハハハハ! そうそう! ウチはずぅぅうううっと、看守長のこと、ぶっ殺したかったんだよねぇ!!」

「……」

 この野郎……発狂している。
 いや、こういう奴でもないと、もうこの国に留まろうと思わないのだろう。


「……悪いが、俺は死なない。できれば、お前を殺したくはない」

「お預けなんてありえなーい、ちゃんと最後までシてくれなきゃ! 看守長が消えるなら、どーせ部下のウチらは皆殺しだって知ってるでしょー!!」

「……それもそうだな」


 俺が逃げるということは、部下である看守を全員見捨てて逃げることに他ならない。

 ここまで俺を信じてついて来てくれていた彼らを、俺は、裏切ることになる。

 殺したくなるのも無理はない。
 死んでやる予定はないが。

 こいつの場合、別の理由で殺したがってる気もするし。


「死にたいなら殺してやる。お前が望むならな」

 相手が銃を持っている以上、離れるのは愚策だ。頭を吹っ飛ばされても死にはしないが、行動は制限される。
 もちろん脊髄を吹っ飛ばされれば、三日は全身不随だ。

 その内に埋葬されたら、真っ暗な棺の中で全身を蛆虫に貪られる激痛で目を覚ますことになる。
 あんな思いは、できればもう二度としたくない。


 銀の弾丸を使う必要はない。

 俺は銃を抜き手袋を懐に突っ込んで一歩踏み出して僅かに姿勢を低くする。

 看守は元拷問官だが軍人ではないので、そのフェイントに簡単に引っかかり、銃口を下げた。
 俺は弾みをつけて跳び、ドアノブを踏んで上から手首を狙い、拳を握って叩きつけ、銃を叩き落とそうとする。

 弾丸は床に突き刺さる。
 看守は咄嗟に身を引いて二歩下がる。

「……アハッ」

 避けられたが姿勢は崩れた。
 俺はそのまま懐に入り、手首を掴もうとするがするりと抜けられて逃げられる。


「なんで銃、使わないの?」
「……」

 彼女の銃はリロードされる。狭い通路。避けることは望めない。だが彼女は脚を狙った。俺は再び地面を蹴りドアノブを使って跳び上がる。

 発射音はしない。彼女は笑っている。
 銃口が上を向く。

 発砲音。
 咄嗟に拳を握ってそれを受け止める。

 焼けるような痛み。この程度もう慣れた。
 銃弾を受けた中手骨は砕け、痺れて上手く指が曲がらない。

 それでも銃弾は手の中で逸れ、致命傷は避けた。


 俺は血塗れの手とは反対の手で熱された銃口を掴んで、もう片方の手で床に彼女の首を床に抑えつけ、馬乗りになって床に押し付けるようにして締める。

「うっ、あ」

 看守は身を捩って逃れようと暴れる。俺は首から一旦手を離し、拳を握って、その頭を思いっきり殴った。


 ぐわんとその瞳孔が揺れる。
 俺は深々と、もう一発を叩き込む。

 ミシッ、と嫌な音。
 鈍痛が走る。俺の拳と、彼女の頭が両方とも軋んだらしい。

 危なっかしく細い体が跳ね、看守は泡を吹いて気を失った。


「……」

 俺はふらつきながら彼女から離れる。
 頭部からは血を流し、白目を剥いて気を失っている。脳震盪だろう。

「……」

 俺は手袋を外し、手の傷を見た。ズキズキと痛む。
 しかし、このくらいならすぐに治る。問題ない。


「……」

 だってきっと、俺が殺しても、殺さなくても、恐らく彼女はそんなに長生きできる性格じゃない。

 彼女の言う通り、この監獄のトップである俺がここを裏切れば、部下の彼女らは魔女裁判で裁かれて、反逆者の部下であるというその一点において、処罰されることになるだろう。

 さすがに皆殺しはないが、愉快な処分が下されることはない。


「……」

 この監獄には、そこそこ思い入れもある。
 天界も魔界も含めて、俺が人生で唯一、比較的上手くやれた、居心地の良い場所だった。


 色々あったが、今も昔も、看守になることは紛れもなく俺の夢だ。
 俺は悪魔でもなく天使でもなく人間なのだと、錯覚できる場所だった。

 積極的に逃げ出したい場所ではなかった。

 俺は部下のことは好きだったし、できることなら、最後まで責任を持ちたかった。
 彼らにとって、俺はどんな存在だったのだろうか。


 そういえば、一度くらい、懇親会とやらを、やってみても良かったかもしれない。

 覚えられもしない名前だが、それでも自己紹介ってものを、一度くらいは聞いてみたかったかもしれない。


 今となってはもう、その機会は永遠に訪れない。


「……」

 いや、俺は選択したんだ。


 監獄じゃなく、594を、427を。
 あのクソ生意気なガキ共を。

 俺は失ったわけじゃない。
 新しく得るために、払ったんだ。必要な犠牲を。身勝手にも。


 何を思ってそうしたのか、そういえば思い出せない。

 ヴァンピール共なんて何の思い入れもない。
 594と一緒だったのはたったの一年、427に至ってはもっと短い。


 たったそれだけのために俺は、今まで築いてきた、何もかもを捨てるのか。


「……」


 俺は、独房の鍵を開けた。

「外に出ろ、3242番」

 俺が今から解放する目の前の死刑囚が、可愛い俺の部下に襲い掛かり、その武器を奪い取り、その頭を吹っ飛ばすかもしれない。


 大丈夫だ。知っている。
 俺は死なない。いつか必ず、俺の傷は癒える。

 背中の傷と同じだ。



 ……しかし、まだ知らないこともある。


「好きに暴れろ。お前自身の手で、自由を掴むがいい」


 この痛みは。
 この積み重ねられた激痛は。

 心の底に突き刺さった毒は。


 いつになったら、消えてなくなるのだろう。
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