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#2 スケッチブック
15 忘れていた記憶は
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……ルシファー様、私は母に捨てられたのですか?
幼い少年がいる。彼は仮面をしていて、表情は分からない。
目を細めて、定めるように私を見ている。そして溜息を吐く。
「つまらないことを、またお前は。それを聞いてどうする」
私には、何故母がいないのですか? 何故父がいないのですか?
「私たちにもいない」
でも私は、欲しいです。
お母さまにお会いしたいです。
「お前には私も、ジャックもいる。それ以上に何を望む? お前には十分な家族がいる」
涙が流れた。
ああ、そうだ。
私は忘れていた。
私の忘れていた記憶は、そう、「家族」の記憶だ。
明るい橙色の髪に、満面の笑顔。
兄のジャックは、誰にでも好かれる人間だった。
幼い私はそんな彼と、いつも比べられて育った。
「ようレビィ! なんだお前、また勉強か? 勉強なんてちゃっちゃと終わらせろよ、ほら、お兄ちゃんと遊びに行くぞ!」
ジャックは天才だった。
努力を知らない天才。
望む才能は何もかも生まれながらに持っていて、経験は楽しんでいる内に身に着け、上達し、賞賛される。
不死身の肉体を神から与えられ、傷を負ってもすぐさま全快する。
「……ごめんなさい」
ジャックはいつも、どこに行くにも私を連れて行った。
苦しくて堪らなかった。
どこに行っても、何をしても、ジャックは賞賛され、私は失望され、その繰り返し。
苦しくて苦しくて気が狂いそうで、それでも兄に逆らうことはできず、私は甘んじてその拷問を受けなくてはならなかった。
苦しい、苦しい、苦しい、誰もその苦しみを分かってくれない。
「偉大な兄を持って幸せ者だ」
「優秀な兄を持って幸運だ」
誰か助けて。その声はいつも重くて大きな蓋に潰されてしまう。
「どうして泣いているんだ?」
「お前は恵まれているのに」
「男だろ、泣くんじゃない」
「兄を見習え。強かで、賢い兄を」
誰でもいい。誰か助けて。お願い、誰か、誰か僕を認めて。
「何故できないんだ?」
「何故兄弟の中でお前だけが?」
「同じ血を引くお前だけが?」
「やはり卑しい娼婦から生まれたからに違いない」
「これだから妾の子は」
「努力しないと、何もできないのか」
涙なんて流すだけ、また罵声が、一つ増える。
慰めてほしい。
誰か、助けてほしい。
そんな思いは、すぐになくなった。
そんな思いは、抱くだけ無駄だと、分かってしまった。
ルシファーは偉大だ。
彼はジャックの双子の兄なのに、まるで似ていない。
冷静沈着、冷酷無情。
実の肉親さえも己に反逆した罪で捕え、処刑した。
人を超越した神の所業だと、誰もが賞賛する。
彼もまた不死身だ。
神を封じる魔紋を施した断頭台で処刑されても、十三年後には復活した。
その十三年間、神を殺した罰として、国は度重なる災いを被り、疲弊しきっていた。
しかし彼は、そんな国を癒し、導き、守っている。
周囲は私に言った。
「お前は、あの方にお仕えするために生まれてきたのだ」
「あの方の役に立てるような人間になれ」
「あの方の役に立てるような能力を身につけろ」
「あの方の役に立てるようなことを考えろ」
「あの方のために命を惜しんではならない」
「あの方のためなら全てを捧げなければならない」
「あの方に奉仕することが、お前の幸せだ」
「あの方に奉仕することだけが、お前の存在理由だ」
私は必死で努力した。
必死で努力し、努力し、努力して。
ルシファーは、私を褒めた。「よくやった」「それでこそ私の臣下だ」と褒めてくれた。
私はジャックにも同じようにした。
もちろん、一番はルシファーだが、ジャックが命じたことにも、忠実に応えた。
それもまた、賞賛された。ルシファーにも、ジャックにも。
「お前は兄の言うことを聞くいい子だ」と褒められた。
嬉しくて堪らなかった。
何一つ褒められたことがなかった私が、存在を認められた。
それが私の生きる意味になった。
周囲の大人も、ルシファーに同調した。
ルシファーが「よくやった」と言えば、周囲も私に賛辞を贈った。「素晴らしい」「もっと役に立つように精進せよ」と。
他のことでは何ら認められることのなかった私だが、ルシファーに対する忠誠心だけは認められた。
私は一層ルシファーに尽くし、仕え、従属した。
ルシファーが望むことならなんでもやった。
どんな大罪でも背負ったし、どんな苦痛も当然のように享受し、どんな恥辱も受け入れた。
ルシファーの望むことなら、どんなことでも耐えられた。
いや、耐える必要などなかった。
ルシファーの望みを叶えている、ただそれだけで満たされた。
それ以上何もいらなかったし、それ以外はどうでもよかった。
私にとって善とはルシファーに従うことで、悪とはルシファーに逆らうこと。
……それなのにある日からルシファーは、私を拒絶するようになった。
ルシファーは私がルシファーに従うことを否定するようになった。
どうすればいいのか分からなくなった。
ルシファーは、「従うな」と、私に命じた。
私に臣下としてではなく、弟として、家族としての役割を求めた。
私は、ルシファーを「ルシファー様」と呼ぶことすら禁止され、またそれはジャックに対しても同じだった。
私は仕方なくそれに従った。
何故ならそれが、ルシファーの意向だったから。
ルシファーには従わなくてはならない。
どんなに辛いことでも。
私はルシファーのために生き、そしてルシファーのために死ぬ。
そういう存在なのに、突き放された。
どうすればいいのか、分からなくなってしまった。
従うべき指標は崩れ、そして私の唯一の存在意義は失われてしまった。
周囲はまた私を責めた。
「あの方の役にすら立てないなんて、お前は情けない」
「あの方にすら見放されるなんて、お前は劣っている」
「あの方の邪魔にならないようになれ」
「あの方の偉業を妨げることは罪だ」
「あの方の荷物になるな」
「あの方の恥になるな」
「お前のようなものが、あの方の側にいる資格はない」
……そうして罵倒される内、どうすればいいのか、分かり始めた。
幼い少年がいる。彼は仮面をしていて、表情は分からない。
目を細めて、定めるように私を見ている。そして溜息を吐く。
「つまらないことを、またお前は。それを聞いてどうする」
私には、何故母がいないのですか? 何故父がいないのですか?
「私たちにもいない」
でも私は、欲しいです。
お母さまにお会いしたいです。
「お前には私も、ジャックもいる。それ以上に何を望む? お前には十分な家族がいる」
涙が流れた。
ああ、そうだ。
私は忘れていた。
私の忘れていた記憶は、そう、「家族」の記憶だ。
明るい橙色の髪に、満面の笑顔。
兄のジャックは、誰にでも好かれる人間だった。
幼い私はそんな彼と、いつも比べられて育った。
「ようレビィ! なんだお前、また勉強か? 勉強なんてちゃっちゃと終わらせろよ、ほら、お兄ちゃんと遊びに行くぞ!」
ジャックは天才だった。
努力を知らない天才。
望む才能は何もかも生まれながらに持っていて、経験は楽しんでいる内に身に着け、上達し、賞賛される。
不死身の肉体を神から与えられ、傷を負ってもすぐさま全快する。
「……ごめんなさい」
ジャックはいつも、どこに行くにも私を連れて行った。
苦しくて堪らなかった。
どこに行っても、何をしても、ジャックは賞賛され、私は失望され、その繰り返し。
苦しくて苦しくて気が狂いそうで、それでも兄に逆らうことはできず、私は甘んじてその拷問を受けなくてはならなかった。
苦しい、苦しい、苦しい、誰もその苦しみを分かってくれない。
「偉大な兄を持って幸せ者だ」
「優秀な兄を持って幸運だ」
誰か助けて。その声はいつも重くて大きな蓋に潰されてしまう。
「どうして泣いているんだ?」
「お前は恵まれているのに」
「男だろ、泣くんじゃない」
「兄を見習え。強かで、賢い兄を」
誰でもいい。誰か助けて。お願い、誰か、誰か僕を認めて。
「何故できないんだ?」
「何故兄弟の中でお前だけが?」
「同じ血を引くお前だけが?」
「やはり卑しい娼婦から生まれたからに違いない」
「これだから妾の子は」
「努力しないと、何もできないのか」
涙なんて流すだけ、また罵声が、一つ増える。
慰めてほしい。
誰か、助けてほしい。
そんな思いは、すぐになくなった。
そんな思いは、抱くだけ無駄だと、分かってしまった。
ルシファーは偉大だ。
彼はジャックの双子の兄なのに、まるで似ていない。
冷静沈着、冷酷無情。
実の肉親さえも己に反逆した罪で捕え、処刑した。
人を超越した神の所業だと、誰もが賞賛する。
彼もまた不死身だ。
神を封じる魔紋を施した断頭台で処刑されても、十三年後には復活した。
その十三年間、神を殺した罰として、国は度重なる災いを被り、疲弊しきっていた。
しかし彼は、そんな国を癒し、導き、守っている。
周囲は私に言った。
「お前は、あの方にお仕えするために生まれてきたのだ」
「あの方の役に立てるような人間になれ」
「あの方の役に立てるような能力を身につけろ」
「あの方の役に立てるようなことを考えろ」
「あの方のために命を惜しんではならない」
「あの方のためなら全てを捧げなければならない」
「あの方に奉仕することが、お前の幸せだ」
「あの方に奉仕することだけが、お前の存在理由だ」
私は必死で努力した。
必死で努力し、努力し、努力して。
ルシファーは、私を褒めた。「よくやった」「それでこそ私の臣下だ」と褒めてくれた。
私はジャックにも同じようにした。
もちろん、一番はルシファーだが、ジャックが命じたことにも、忠実に応えた。
それもまた、賞賛された。ルシファーにも、ジャックにも。
「お前は兄の言うことを聞くいい子だ」と褒められた。
嬉しくて堪らなかった。
何一つ褒められたことがなかった私が、存在を認められた。
それが私の生きる意味になった。
周囲の大人も、ルシファーに同調した。
ルシファーが「よくやった」と言えば、周囲も私に賛辞を贈った。「素晴らしい」「もっと役に立つように精進せよ」と。
他のことでは何ら認められることのなかった私だが、ルシファーに対する忠誠心だけは認められた。
私は一層ルシファーに尽くし、仕え、従属した。
ルシファーが望むことならなんでもやった。
どんな大罪でも背負ったし、どんな苦痛も当然のように享受し、どんな恥辱も受け入れた。
ルシファーの望むことなら、どんなことでも耐えられた。
いや、耐える必要などなかった。
ルシファーの望みを叶えている、ただそれだけで満たされた。
それ以上何もいらなかったし、それ以外はどうでもよかった。
私にとって善とはルシファーに従うことで、悪とはルシファーに逆らうこと。
……それなのにある日からルシファーは、私を拒絶するようになった。
ルシファーは私がルシファーに従うことを否定するようになった。
どうすればいいのか分からなくなった。
ルシファーは、「従うな」と、私に命じた。
私に臣下としてではなく、弟として、家族としての役割を求めた。
私は、ルシファーを「ルシファー様」と呼ぶことすら禁止され、またそれはジャックに対しても同じだった。
私は仕方なくそれに従った。
何故ならそれが、ルシファーの意向だったから。
ルシファーには従わなくてはならない。
どんなに辛いことでも。
私はルシファーのために生き、そしてルシファーのために死ぬ。
そういう存在なのに、突き放された。
どうすればいいのか、分からなくなってしまった。
従うべき指標は崩れ、そして私の唯一の存在意義は失われてしまった。
周囲はまた私を責めた。
「あの方の役にすら立てないなんて、お前は情けない」
「あの方にすら見放されるなんて、お前は劣っている」
「あの方の邪魔にならないようになれ」
「あの方の偉業を妨げることは罪だ」
「あの方の荷物になるな」
「あの方の恥になるな」
「お前のようなものが、あの方の側にいる資格はない」
……そうして罵倒される内、どうすればいいのか、分かり始めた。
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