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#2 スケッチブック

10 辛くないと言い張った

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 僕は色々なものを描いた。

 テーブルセット、カトラリー、部屋のベッドに、小屋そのもの。鳥、鹿、その他の動物魚、木、花、虫。


 やがて僕は風景を描くようになった。
 島の風景は、どこもかしこも小さくて、優しい場所ばかりだ。

 聖なる泉、緑の森、遠くの丘、小さく開けた草原に、花畑。たった一つ大きいのは、海岸から眺める地平線だけ。

 光を知らないアインは、風景というものをなかなか理解してくれなくて、説明するのに苦労した。
 けどその分、風景画にはすごく興味を持ってくれて、僕は何枚も何枚も、風景画を描いてみせた。


 けれど島の景色も一通り描いて、もう何も思いつかなくなった。
 だから僕は、また同じものを描いた。

 アインはそんな僕に付き合ってくれた。いつも側にいてくれた。


 記憶は時期も場所もてんでバラバラで、悲しい記憶や苦しい記憶がほとんどで、思わず叫んでしまうくらいに恐ろしい記憶もあった。

 ぽっかり穴があいたみたいな空虚な記憶もあった。

 何故だろう、僕はあまり幸せな人生を送ってきたわけではないようだ。


 友達も恋人も、僕にはいない。
 大抵、痛みと孤独のに囲まれている。

 僕は常に努力していて、いつだって頑張っている。
 ずっとずっとずっとずっと、頑張り続けている。

 記憶の中の僕は絵なんか描かない。
 そんな暇があるなら、勉強か仕事をして、銃を撃って、誰だか分からない敵を倒している。


 何故なのかは分からない。
 どうしても思い出せない。
 その部分だけが靄のかかったように思い出せない。

 それは確かに、僕の根幹を為す記憶なのだと思う。

 その記憶が蘇ったら、僕は、ほとんど完全に自分を取り戻せるに違いない。
 同時に、その記憶を取り戻さない内は、僕は永遠に今のままだ。


「ねえ、アイン」

 その記憶はまるで、僕のものではないようだった。

 今の僕とはかけ離れた記憶の中の僕、いや、僕じゃない。「私」。大人びた一人称。

 彼は自分に甘えを許さない。
 いつでも彼は自分が完璧であることを求め、それを満たせない自分を激しく嫌悪している。

 ううん、嫌悪どころじゃない。
 あの感情は、間違いなく憎悪だ。怨嗟だ。理不尽なまでに強い、恨み、憎しみ。


「アイン、僕は、俺が、あんなに大怪我を負った理由が、分かったよ」

 それは、僕が、自分を描いた時のこと。

 大陸の船から、アインは鏡を貰ってきてくれた。
 僕はすごく喜んだ。「これで僕のことが思い出せる!」って。


 自画像の制作には時間がかかった。
 僕の顔は僕が思っていたより大人びていて、この人が僕なのかとまるで他人事のように思った。

 エメラルドグリーンの長髪、同じ色の瞳はまるで蛇のように鋭い。
 輪郭はシャープで顔つきは精悍、日に焼けた、薄い小麦色の肌が少々アンバランス。

 薄い唇、気が付けば笑みを浮かべている。
 幼い僕には、悪魔みたいに見える。

 再び思う。これが僕の顔なのか。
 それでもどうにか、僕は自分の笑顔を描き上げた。


「自殺したんだ。崖から身を投げて」

 それは今まで「私」が受けてきた、どんな虐待よりも酷い苦痛を伴った。「私」は体全部を、切れないナイフでズタズタにして、そのまま崖から海に身を投げた。

 痛い、痛い、痛い、痛くて堪らない、それなのにやめられない。

 まるで今までの苦しみを全部ぶつけるかのような自傷、受けて来た痛みを、本当は誰かにぶつけてやりたかった行き場のない絶望を、自分自身で処理しようとするかのような拷問。

 辛くなかった。
 辛くないと「私」は呟いていた。

 「あの方」のために。思い出せない。


「アンタは自分の人生に嫌気がさしてたの?」

 違う。
 僕は、「私」は辛くなんてなかったんだ。

 本当は辛かった。
 死にたいくらい絶望していた。
 その痛みは「私」を救いようのない自滅へと追い込んだ。


 でもそれでも「私」は辛くないと言い張った。
 ならどうして死んだ?

 それはもちろん、「偏に忠誠を捧げるために」。


「忠誠を、捧げる、ために」
「誰に? 何の忠誠?」

「忠誠、そう、忠実であるべきなんだ。臣下は、そう、あの方は……」
「……」
「あの方は、ああ、偉大、なんだ。俺なんかには、到底、届かない、だから、この、この血肉を、この、命を捧げ、捧げて……」


 目を開く。目の前にアインがいる。

「大丈夫?」

 大丈夫か、レビィ。
 幾度となくそう呼ばれた。その度にこう答えていた。


「ああ、大丈夫だ」

 万事順調だ。
 万事抜かりなく、ああ、消えてみせよう。


 今までとは何かが違って見える。

 俺はアインの顔を正面から見つめた。
 その猫のような目を。

 そして自然と、どうすべきか分かった。


「アイン、お前を描かせてくれないか」
「……アタシを?」

「ああ、そうだ。最後に、アインを描きたい」

「アンタは、アタシのことについて何も忘れてないでしょ。だからアタシを描く意味なんてないんじゃない?」

「いや、ある。俺はアインを描けは、全てを思い出す。俺の根幹を為す全てを、余すことなく思い出す。思い出すべき全てを、思い出す」

「どうして?」
「俺にとってアインは、何よりも大切な存在だから。俺を支えてくれる、俺の根幹を為す、俺の支柱となる、俺を守ってくれる、俺の敬うべき存在」

「そう。それはどうも。なんだか喜ぶべきじゃなさそうだけど」
「だから描かせてくれ。俺は思い出さなきゃいけないんだ。俺の全てを」


 アインはいつものように無表情だった。

 返事をしないアインに、俺は黙ってスケッチブックのページを捲る。

「一旦、休憩したら? アンタ、ちょっと混乱してるみたいだけど」
「混乱? 俺がどうして混乱してるっていうんだ?」

「だから言ったのに。思い出さない方がいいって。ねえ、そうでしょ」
「何を言ってる?」
「……」

 アインはしばらく沈黙してから、ふぅと小さく溜息を吐いた。

「そうだね、アタシが責任取るって言ったし。いいよ、責任は取ってあげる」
「描かせてくれる?」
「まだ駄目」
「なんでだよ、俺は早く思い出さなきゃ……」

「まだ、を思い出せたわけじゃないでしょ。アンタの記憶が全部定着して、それでもアンタがアタシを描きたかったら、描けばいいよ」

「……」
「アンタが思い出すまでだよ。そんなに長くないでしょ?」


 そう言って、アインは俺の頭を撫でた。
 無性に恥ずかしくて、俺はその手を払いのけて言った。

「俺は、もう子供じゃないよ。アイン」
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