上 下
1 / 35
#1 幼い子供

01 知らない、分からない

しおりを挟む
 聞いたことのないような音と、嗅いだことのない香りがした。
 僕は半身を起こそうとして、それを止められた。

「動くな。傷が開く」

 うっすらと目を開けると、視界の端に暗い茶髪が見えた。 

 恐らく狩人だろう。声は低く淡々としていて、しかも顔の半分をスカーフで覆っていたので、男か女かすら分からない。

「よく生きてたよね」
「……ここは、どこ?」

 体を起こすには早すぎた。狩人は僕から手を離したはずなのに、全身に力が入らない。
 寝起きだからだろうか。随分長い間、眠っていたようだ。

 僕は仕方なく不自由な首を精一杯捻って、狩人の方を向く。

「先に名乗れ。それが礼儀」
「……」

 尋ねられて、初めて気が付いた。
 僕は何者なのか、僕は知らない。

「……思い、出せないんだ」
「ふぅん」

 狩人は興味なさそうにそう言って、鼻を鳴らした。
 僕はもう一度体を起こそうとして、無理矢理体を捻る。
 激痛に息が止まった。

「な、っ、な、なんで、僕、傷っ、」

 息を吐いて、僕は慌てて自分の体を見る。全身が包帯だらけで、所々血が滲んでいた。

「ね、ねえ、あなたが、僕を傷つけたの?」
「……」

 狩人は何も言わず、こちらに歩いて来る。
 僕は半ば無意識に狩人から離れようと不自由な体を捩らせたが、狩人はただ僕の顔を覗き込んだだけだった。

「アタシはアンタを助けただけ」
「……ごめんなさい」

 狩人は無表情だったが、僅かに眉を顰めるだけでその感情を表した。 

 どうやら、この狩人は僕を救ってくれたということらしい。
 狩人を信じるなら、だけど。

「つまらないことを喋る口があるなら、名前くらい言ってみてよ」
「本当に何も、思い出せないんだ。僕が何故こんな傷を負ったのか、知らないの?」

 狩人は目を細めて僕を見て、それからまたふぅんと言った。

「アタシはアイン。アンタは海で倒れてた。傷を負った理由は知らない」

 ぶっきらぼうな話し方だった。

 アイン。
 どうやら女の人みたいだ、と僕は思う。

「あの、アイン、さん」
「何?」
「……僕が誰か、知ってる?」
「知ってたら、わざわざ尋ねると思う?」

 アインは淡々と言った。

「僕はその、助けてくれたから、てっきりアインさんの知り合いの子なのかと……」
「半死半生の男が、海を漂ってた。だから助けた。それだけ」

 アインは、やはりぶっきらぼうに言う。
 僕に興味がないのか、それか、怒ってるのか。

 感情がよく分からない。

「……僕が、何かの役に立つの?」
「アンタって、本当に疑り深いんだね。まあ、そんな状態じゃ無理もないけど」
「そんな状態?」

 僕の体の傷のことを言っているのだろうか?
 むしろ傷だらけなんだから、「誰のことでも信じたくなる」っていうなら分かるけど。

 尋ね返すと、彼女は「本当に何も分からないんだね」と言った。


「アンタって、酷い人間不信でしょ」
「僕は人間不信なの?」
「アタシにはそう見えるよ」

 アインは、僕の何かを知っているようだった。
 僕は不安に駆られて、苦しくなった。

「……どうして、僕はここにいるの? どうしてこんな傷を負ったの? どうして、僕を知ってるの? 僕の何を知ってるの?」

 息が苦しかった。
 ドクドクと心臓が動いているのを感じたけど、それがなんか、正しくないみたいな風に感じる。


「アタシはアンタを知らない。でもここに鏡がない以上、アンタよりアタシの方がアンタを見るのに都合がいい。それだけの話」

「……」

 極めて冷静な彼女に、僕は何も言えなくなる。
 ただ息が苦しく、不安だった。

 自分が何者か分からず、そしてこの場所がどこかのかも分からない。縋るものが何もない苦しさ、僕は目を閉じた。


「……」

 体が痛い。体中が痛い。
 ここはどこで、僕は誰なんだ。


「ほら」

 促されて目を開けると、アインは、僕に何かを匙に乗せて差し出していた。

「飲んで。アンタはちょっと、考えるのをやめた方がいい」
「だけど、思い出さなくちゃ……」

「別に思い出さなくていい。失ったものを追いかけても、どうせ何も得られない。立ち止まって深呼吸すれば、少なくともこれ以上失わなくて済む」
「……立ち止まって?」

「まずは傷を治すこと。記憶はそれから。まあ、もしアンタの体が薬草を受け付けないっていうなら、今すぐに思い出した方がいいけどね」

 アインはそう言って、何か椀のようなものを手にした。

「元気なら、自分で飲んでくれる?」
「……何、それ?」
「薬」

 アインは椀を傾け、中の液体を僕に見せる。僕は首を振った。

「いらない」
「麻酔も入ってる。飲まないならもっと痛いよ」
「……いらない」
「アンタが眠ってる間にも飲ませた。害がないのは分かるでしょ?」
「いらない! 僕は考えなきゃいけないんだ!」

 それでも僕が拒否すると、アインは静かに首を振った。

「それならいいよ、好きにすれば。別に、アタシは困らない。でも耐えられなくなる前に、早めに飲んだ方がいいと思うよ。もう一度効くまで、半日かかるから」

 アインはそう言って、ベッドから離れて胡坐をかいて座った。

「何かあったら呼んで」

 そう言って、彼女はそのまま壁に体を預けて首を垂れた。
 僕は仰向けになって、目を閉じた。


 考えなければならなかった。
 とにかく、考えなきゃいけないことが、本当にたくさんあった。

 けど僕は、結局、知らないうちに眠ってしまった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

側室は…私に子ができない場合のみだったのでは?

ヘロディア
恋愛
王子の妻である主人公。夫を誰よりも深く愛していた。子供もできて円満な家庭だったが、ある日王子は側室を持ちたいと言い出し…

(完結)戦死したはずの愛しい婚約者が妻子を連れて戻って来ました。

青空一夏
恋愛
私は侯爵家の嫡男と婚約していた。でもこれは私が望んだことではなく、彼の方からの猛アタックだった。それでも私は彼と一緒にいるうちに彼を深く愛するようになった。 彼は戦地に赴きそこで戦死の通知が届き・・・・・・ これは死んだはずの婚約者が妻子を連れて戻って来たというお話。記憶喪失もの。ざまぁ、異世界中世ヨーロッパ風、ところどころ現代的表現ありのゆるふわ設定物語です。 おそらく5話程度のショートショートになる予定です。→すみません、短編に変更。5話で終われなさそうです。

愛してほしかった

こな
恋愛
「側室でもいいか」最愛の人にそう問われ、頷くしかなかった。  心はすり減り、期待を持つことを止めた。  ──なのに、今更どういうおつもりですか? ※設定ふんわり ※何でも大丈夫な方向け ※合わない方は即ブラウザバックしてください ※指示、暴言を含むコメント、読後の苦情などはお控えください

愛されていないはずの婚約者に「貴方に愛されることなど望んでいませんわ」と申し上げたら溺愛されました

海咲雪
恋愛
「セレア、もう一度言う。私はセレアを愛している」 「どうやら、私の愛は伝わっていなかったらしい。これからは思う存分セレアを愛でることにしよう」 「他の男を愛することは婚約者の私が一切認めない。君が愛を注いでいいのも愛を注がれていいのも私だけだ」 貴方が愛しているのはあの男爵令嬢でしょう・・・? 何故、私を愛するふりをするのですか? [登場人物] セレア・シャルロット・・・伯爵令嬢。ノア・ヴィアーズの婚約者。ノアのことを建前ではなく本当に愛している。  × ノア・ヴィアーズ・・・王族。セレア・シャルロットの婚約者。 リア・セルナード・・・男爵令嬢。ノア・ヴィアーズと恋仲であると噂が立っている。 アレン・シールベルト・・・伯爵家の一人息子。セレアとは幼い頃から仲が良い友達。実はセレアのことを・・・?

「わかれよう」そうおっしゃったのはあなたの方だったのに。

友坂 悠
恋愛
侯爵夫人のマリエルは、夫のジュリウスから一年後の離縁を提案される。 あと一年白い結婚を続ければ、世間体を気にせず離婚できるから、と。 ジュリウスにとっては亡き父が進めた政略結婚、侯爵位を継いだ今、それを解消したいと思っていたのだった。 「君にだってきっと本当に好きな人が現れるさ。私は元々こうした政略婚は嫌いだったんだ。父に逆らうことができず君を娶ってしまったことは本当に後悔している。だからさ、一年後には離婚をして、第二の人生をちゃんと歩んでいくべきだと思うんだよ。お互いにね」 「わかりました……」 「私は君を解放してあげたいんだ。君が幸せになるために」 そうおっしゃるジュリウスに、逆らうこともできず受け入れるマリエルだったけれど……。 勘違い、すれ違いな夫婦の恋。 前半はヒロイン、中盤はヒーロー視点でお贈りします。 四万字ほどの中編。お楽しみいただけたらうれしいです。

王妃そっちのけの王様は二人目の側室を娶る

家紋武範
恋愛
王妃は自分の人生を憂いていた。国王が王子の時代、彼が六歳、自分は五歳で婚約したものの、顔合わせする度に喧嘩。 しかし王妃はひそかに彼を愛していたのだ。 仲が最悪のまま二人は結婚し、結婚生活が始まるが当然国王は王妃の部屋に来ることはない。 そればかりか国王は側室を持ち、さらに二人目の側室を王宮に迎え入れたのだった。

【完】愛人に王妃の座を奪い取られました。

112
恋愛
クインツ国の王妃アンは、王レイナルドの命を受け廃妃となった。 愛人であったリディア嬢が新しい王妃となり、アンはその日のうちに王宮を出ていく。 実家の伯爵家の屋敷へ帰るが、継母のダーナによって身を寄せることも敵わない。 アンは動じることなく、継母に一つの提案をする。 「私に娼館を紹介してください」 娼婦になると思った継母は喜んでアンを娼館へと送り出して──

【完結】生贄になった婚約者と間に合わなかった王子

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
フィーは第二王子レイフの婚約者である。 しかし、仲が良かったのも今は昔。 レイフはフィーとのお茶会をすっぽかすようになり、夜会にエスコートしてくれたのはデビューの時だけだった。 いつしか、レイフはフィーに嫌われていると噂がながれるようになった。 それでも、フィーは信じていた。 レイフは魔法の研究に熱心なだけだと。 しかし、ある夜会で研究室の同僚をエスコートしている姿を見てこころが折れてしまう。 そして、フィーは国守樹の乙女になることを決意する。 国守樹の乙女、それは樹に喰らわれる生贄だった。

処理中です...