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『シシーが最近パパと言うようになってね』
 やに下がった顔で嬉しそうに吹聴するビルの話を、日本時間の午前二時に聞く自分の身にもなって欲しい。そう訴えてみたところで、彼の幸せトークは終わらない。
 物腰は柔らかいのに怖いと噂の上司をここまで破顔させるシシーとは、二歳を迎えたばかりの彼の愛娘だ。彼のパートナーによく似た切れ長の碧眼に、ビルと同じ綺麗な赤毛の愛らしい女の子。
 日本に居てよかった。部下から入るテキストには、ビルの惚気のためだけに彼のオフィスに呼ばれると苦情が来ていた。だから早く帰って来て欲しいとも。自分の仕事は、プログラミング開発と部下のマネージメントの他に、上司のマネージメントまで含まれているようだ。自分が本社に居る時はランチのついでに彼の話を聞いていた。ビルは案外パートナーとの幸せを誰彼構わず吹聴してしまうタイプなのだと知ったのは、ここ四年程だ。
「その内すぐに反抗期が来ますよ」
『いいね、反抗期のシシーなんてどうしようもなく可愛いんだろうな』
 目に入れても痛くないとはこういうことなのだろうなと、妙に納得した。
『マークとオリビアからテキストが届いているだろう?』
「ええ、あなたの苦情でしたよ。わざわざ期日前の最終調整期間に呼び出して、家族の話を一時間もするのはやめて下さい」
『……蒼慈郎、早く帰っておいで』
「特別手当を頂けるなら」
『ホームパーティーに招待しよう』
 良い案だろうとでも言いたそうな笑顔で、ビルが両手を広げ提案する愚案にきっぱりと拒否を突きつける。
『君はもしかして私のことが嫌いなのかも知れないなと、最近は特に思うよ』
「嫌いなわけないでしょう。思い通りにならないからと拗ねるのは止してください。部下に示しが付きませんから」
『何を馬鹿なことを。拗ねればどうにでもしてくれる君のせいでもあるんだぞ』
「そんなことをした覚えはありません。俺は仕事をしているだけですよ」
『蒼慈郎、あの輝く瞳をした若い君はどこに行ってしまったんだろう…』
 七年前、日本企業に勤めていた自分を見つけ出し、ヘッドハンティングしたのは彼だ。二十五歳で下っ端で、英語はおろかプログラミングも上々とは言えなかったのに、彼は何故か声を掛けてくれた。

 ビルが出張で来日し、当時偶然同時期に開催されていた展示会に訪れ、気になったブースの一つが蒼慈郎の居た企業だった。
 積極的に一般参加者を呼び込む営業課の同期の後ろで、蒼慈郎は開発室担当者として補佐をしていた。見学者が奥へ進めば詳しく説明するが、そうでもないのなら暇だ。その間に手遊びのようにしてコードを打つ。あの時打っていたのはどういった内容のものだったのか、最早覚えていない。
 熱中していたのか、はたまた彼が気配を消していたのか。気付けば背後にビルが立っており、カタカタとキーボードを鳴らす自分をじいっと見ていた。そして自己紹介をするでもなく、こちらの目を見て言った。
「一緒に働かないか」
 英語もろくすっぽ分からない自分は、苦笑いで少々お待ち下さいと言って営業の同期を呼び寄せる。こちらのお客様が何か用がある、そう説明し彼女に任せてしまった。その場を離れ、営業の代わりとしてブース先に立つ。すると呼び寄せたはずの同期に、後ろから勢いよく肩を掴まれた。
「ちょっと!遠田くん!」
 鼻息荒く自分を呼ぶ彼女に、自分の名前を知っていたのかと驚いたのを覚えている。
「何で私に任せたのよ!あの人、遠田くんをヘッドハンティングしたいって言ってるんだよ! 見てこれ、名刺!」
 彼女は端末からホログラフィックでビジネスカードを浮かび上がら焦ると、ズイッとこちらに押し付けるように渡してきた。
「おすすめの英会話ART紹介してあげるから!ほらッ今だけ通訳してあげるから一緒に話聞こう!」
 ヘッドハンティングされたのは自分なのに、彼女はまるで自分のことのように興奮していた。渋る自分に、彼女は何度も何度も行きなよ後悔するよ、駄目だったら戻っておいでよと説き伏せてくれた。
 名前も忘れてしまった彼女に、いつかお礼ができればいい。

 そうして急なことに脳がついていけないまま、気付けば七年間、彼の直属の部下として働いている。郷に入れば何事もどうとでもなるもので、英語も気付けば身についてしまった。
「あなたもすっかり丸くなりましたね」
『別に厳しかった訳じゃないだろう?』
「本気で言ってます?丸くなったと言っても、笑顔で脅迫する癖だけは直らないものですね」
『アレは意図的にやっているからね』
「だから怖いんですよ」
 二人して笑う。何だかんだで彼はとても良い上司なのだ。仕事は勿論のこと、人間性だって申し分ない。彼のもとで生き易いように生きることを許されている。ビルという加護に守られながら、彼の影の一つになることはとても心地が良かった。
『ともかく、君の負担を減らせるよう、ヨヒアムとサンを思い切り使ってくれて構わない。今後の講習会は録音音声に切り替えたんだろう?ならば早めにマシン製造業者の所へ行って打ち合わをしてくれないか』
「アポを取っておきます」
『ああ、だから早く帰っておいで。君が居ないと、君の部下が蒼慈郎宛てに投書が届くシステムを組みかねない』
「それで彼らの溜飲が下がるのならいいじゃないですか」
『私が寂しいのだよ』
「ハハ、シシーによろしく」
『早く君にも見せてあげたいよ、本当に可愛いんだ』
「おやすみなさいビル」
『ああ……君も通話を切ろうと言うんだね』
 寂しそうな顔の上司を無視し、笑いながら通話を切ってやった。
 ビルの口から拓睦に関しての質問は、来日初日から一度も出ていないのを鑑みるに、ヨヒアムもサンも彼に対して情報を渡していないのだろう。二人共、彼の幸せのお裾分けの被害者同盟の同朋だからだろうか。ささやかな仕返しのつもりなのか、ありがたい反面ビルにバレた時のことを考えると怖いものがある。
 ビルだってきっと、こんなことになっているだなんて思ってもみないのかも知れない。それに何と言っても彼は紳士な大人の男だ。恋人という関係性に発展すれば口を挟まないと散々豪語しているのだから、知っていたとしても口出しはできまい。
 パソコンをシャットダウンし、一度大きく伸びをする。肩首を鳴らし、欠伸を一つ。
 これで眠れる。いや、眠れるだろうか。
――今日は昼から彼の家に……
 拓睦から毎日届くテキストメッセージは、今日会えるか次はいつ会えるか、二人でどこへ行こうか何を食べようかの話題が尽きることはない。
 平日は駄目だと言えば、じゃあ金曜に会おうと言われ、金曜は夜遅くまで仕事があると言えば、じゃあ明日だと言われる。
 拓睦からの飽くなき挑戦は尽きない。
――もう二週間か
 幼さの目立つ彼と、恋人ごっこを始めて二週間が経過した。その内会えたのは先週の土日だけで、二人で焼き肉を食べに行き、日本の若者の間で流行っているというスイーツを食べ歩いたりもした。自分は存外に甘いものが好きな舌をしているのだが、発案者である拓睦自身甘味に関しては普通の舌らしく、全て食べ切れなくて残すことしばしばだった。
 じゃあなぜ誘ったのかと聞けば、話題の店に二人で食べに行きたかったと返ってくるではないか。都会に住む高校生は、こういう風にデートを重ねるのだなと思った。
 自分が拓睦と同じ頃合いは、田舎に住んでいたこともあり、当時付き合っていた彼女と少し遠出してショッピングモールや映画館に行く程度だった。あとは彼女の家で話し込んだり、配信サービスで動画を見たり。
「都会の子供は選択肢が多くていいな」
 砂浜や波止場、山沿いの自然公園に意味もなく二人でやって来て、他愛もない話をしたりしなかったり。そんな間の抜けた暇の潰し方を選択しなくても、いつでも新しいものに溢れ刺激的なことだろう。
 それなのになぜか彼の家に呼ばれるという不可解さだ。あんなに沢山デートプランを書いたテキストメッセージを送って来ていた癖に、今日は結局自宅で会う。
「選択肢はどうした、選択肢は」
 セミダブルのベッドに寝転びながらそう独り言ち瞼を閉じる。なぜか耳の奥で、酷く馴染む波の音が聞こえた。幼い頃散々聞いた、あの海の声。

 待ち合わせの駅で会うや否や、拓睦が胸から下げるタイプのカードホルダーを渡してきた。中には、自分がいつか送った名刺が印刷されたカードが入っている。
「これ…俺の…」
「これ下げてないと入れないから」
 身分証を携帯していないと入れないだなんて、一体どういう所に住んでいるのだろうか。住人である拓睦と一緒でも、コンシェルジュに止められてしまうような厳重なマンションを思い浮かべるが、良く分からない。
 彼に連れられ住宅街とは言い難い、繁華街とも違う一角を歩く。大きな公園を過ぎ、公共施設を多々横切り、大学のキャンパスの裏手を歩き、ここだと言われようやく足を止める。
「はい、身分証下げて下げて」
 尻ポケットから拓睦がホルダーを抜き、爪先で背伸びをしながら首から下げてくれる。
 先週知ったことだが、彼は最初の見立て通り年齢にしては未発達な身長をしていた。なぜ先週になるまで知らなかったかと言えば、彼と会うシチュエーションは大体座ったままだったからだ。拓睦自身も、蒼慈郎との身長差に驚いていた。聞けば十センチは違うと言う。百八十センチほどある蒼慈郎と、百七十センチもなさそうな拓睦。
「よし行こう」
 そんな彼に腕を引かれ、門戸の前に立つ。自動改札機のようなゲートに拓睦が腕のシリコンバンドをかざし開錠すると、ピッタリと後ろに付いてこいというように腕を強く引いた。
 全四階建ての、四角い建物。白い質素な外観で、窓が等間隔に並んでいる。マンションともアパートとも言い難い。公共施設と言った方がしっくりくる。
 短い前庭を抜け、エントランスホールに続くであろう自動ドアを潜る。するとどうだろう、下駄箱が両サイドの壁面にどっしりと立ててあるではないか。その広々とした土間の奥には簡素な受付。一瞬にして血の気が引く。だってここは…
――寮だ
 余りのことに足の筋肉が固まって動けない。そんな蒼慈郎を放って、靴を脱ぎ捨て受付に向かう拓睦が言う。
「南さんただいま」
「あれ、紺屋くん早いね」
「パソコンの人連れてきたから」
 そう言って蒼慈郎の方を指差した。受付のガラス戸の内側から、気の良さそうな壮年の女性が顔を覗かせこちらに向け笑顔を作った。
「あらぁ。お休みの日なのにすいません。どうぞお上がりになって下さい。紺屋くん、来客用のスリッパ出して」
「来客スリッパとかあんの? どこ?」
「こっちの下駄箱の一番右の段が全部そうよ。業者の方は申し訳ないですけど、身分証提示と来客名簿にサインをお願いしますね」
 嫌な汗が背中を伝って気持ちが悪い。深く考えるのは止め、拓睦の出したスリッパを履き、受付の女性に笑顔で会釈をする。
「私、ファンダンゴの遠田と申します」
 首から下げたカードを彼女に向け掲示すれば、女性はお礼を言いながら、簡単な書式の用紙が挟まったバインダーを差し出して来た。
「わざわざありがとうございます。私たちじゃあパソコンのことなんて全然分かんないでしょう?学校の先生をお呼びする訳にもいかなくって、紺屋くんが自分で呼んでくれたから安心したわあ。土曜日の出勤になってごめんなさいねえ」
 訪問時刻と名前を書くと、退館時刻の欄があることに気付く。
「いえ、お気になさらないでください。少々お時間いただくことになるかも知れません。こちらの寮は来客時刻は何時までとなってますでしょうか」
「原則十六時だけど、もし過ぎるようでしたらこちらまで一言頂ければ二十時までなら大丈夫、だったかしら……お客様なんて久しぶりで忘れちゃったわ」
 後でルールブック読み返しておかなくちゃ、そう付け足しながら女性は明るく笑った。
「そうだわ。もしよろしかったら晩ご飯、食べていかれません?」
「い、いえお客様にそのような…」
「いいのよぉ、今日は職員が一人早上がりすることになっちゃってね、急に一食空きが出てしまったの。時間があるなら是非どうぞ」
 ならば是非とも今すぐこの場を去りたい。全速力で走って去りたい。高校生の巣窟である学生寮に、自分は業者だと偽って入り込ませられているのだ。この横に立つ頼りないほど幼さの残る彼の、恋人ごっこの相手である自分が。
 決してやましいことをしたくて来たんじゃないと、脳内で自分が大声で言い訳を叫ぶ。
 まただ、また彼に、紺屋 拓睦に騙された。気付いたら酷く不安定で危険な橋の中程に連れてこられていた。でも今回は足が竦んで立ち止まっている暇はない。
「ありがとうございます。ではお部屋に行きましょうか」
「ああ、うん……」
 拓睦に向き直りこの場からの退却を促すと、なぜかポカンとしていた彼がハッと我に返り前を歩き出す。廊下で一人二人と入寮学生とすれ違うが、皆一様に一瞬驚いた後こんにちはと丁寧に挨拶をくれる。挨拶を返しながら気が気ではない。自分の笑顔は引き攣っていないだろうか、そればかりが心配だ。
「あ、のー……ここ…」
 ドア横にある端末に拓睦がまたシリコンバンドをかざすと、ガチャリと鍵が開く。
「失礼します」
 部屋主に続きドアを潜る。シングルサイズのベッドにパソコンデスクとチェア、観音開きの小さなクローゼットのある質素な四畳半ほどの小部屋だ。未だどの備品も真新しさが保たれている。
 そして背後でパタリと閉まった音がした瞬間、ドッと押し寄せる感情の波に耐えられず、蒼慈郎はドアに背を預け座り込んでしまった。少し息も上がってしまった。ハッハッと短く肩で呼吸を繰り返し、心臓の動悸にまた脳貧血の気配がする。
「き、君……なんて、ことを…」
「わわッ! ちょ、またァ!?」
 上半身を縦にしていられなくなりフローリングの床にしなだれると、当事者の少年が慌てて寄ってくる。
「大丈夫?ベッド上がれる?」
 支えて貰いながら、彼の寝間着が放り出してあるベッドに何とか横になった。スリッパを脱がせてくれた拓睦が、放り出されたままの足を重そうに上げてくれ、頭の下には枕を差し込んでくれる。
――甲斐甲斐しくしたって君のせいだ
 たったの一言でいい、自分に伝えてくれていれば。今日は家で会おう、家は高校の寮だよ。そう言ってくれさえすれば。自分には断る、別案を提案するという選択肢が生まれたというのに。こんな極度の緊張に晒されて、二度目の脳貧血の姿を晒さずに済んだのに。
――一体何を思ってこんなことを…
 グラグラ回る脳で考えても、詮無いことだ。もう少し落ち着いて理論的に注意できるまでに回復しないことには、悪態でしかない。
 自分はこんなにストレスに弱かっただろうか。蒼慈郎は何とか自分を落ち着けようと、怒りの矛先を別に向けようと考える。
 人前に立って話をすることも平気であるし、初対面の人間ともそれなりのフレンドリーさで接することもできる。何が苦手ということもない。渡米してすぐの頃、こちらを侮る態度で絡んできたティーンエイジャーに出会っても、こうはならなかった。警察の番号を打ち込んだモバイル端末の画面を見せれば、彼らはたちどころに去って行ったのだし。
――急性のストレスが駄目なのかもな
 突然何の予告もなく、渦中に突き落とされるのは脳が対処し切れないのかも知れない。
 それはそうと息が酷く苦しい。もしかしなくても過呼吸になっているのだろうか。こんなに引き攣った呼吸なんて、小さな頃しゃくり上げながら泣いて以来じゃないのか。
 蒼慈郎は体を丸め、深呼吸をしようと試みるも上手く行かない。
「い、息…ッ」
「え?なに?息できないの?」
 オロオロとしていた拓睦が蒼慈郎を横臥から仰向けに直し、横へ乗り上げると濃紺の開衿シャツのボタンを全て開けてくれ、ジーンズも同様にジッパーまで降ろしてくれた。
「この前も蒼慈郎さん倒れたじゃん。少し調べたんだけど… これでどう?ちょとは楽になった?」
 忙しなく上下する蒼慈郎の胸を、拓睦の手のひらがゆっくりと撫でる。落ち着けと言い聞かせるように、ゆったりと、上から下に、下から上に。素肌に触れる彼の手のひらが熱い。
 その時、ノックと同時にドアが開かれた。
「拓睦、帰って来てるなら雑誌かえ…ッ」
「おい今入ってくんなって!」
 知らない人間の声と一緒に、バタンと強くドアがしまる音がする。
「お、お前なにやってんだよ」
「ちょ…ッ いーから!出てけって!」
「いやいや、だってお前… 襲って…」
「物騒なこと言うな馬鹿か!過呼吸になってんだよ!てか充、お前医者の息子ならどうにかしろよ!」
「何だと!出てけと言ったりどうにかしろと言ったり… むしろこの人誰なんだよ!」
 喧々囂々の声に、蒼慈郎は薄っすらとしか開けない双眼で傍らを見やった。拓睦と対面するように、背の高い男が見える。言い合っている口調から、友人なのだろうか。
「俺の彼氏だ悪いか!」
 吠える拓睦の頭を、その背の高い男がボカリと一度拳で叩いた。
「寮に連れ込むな!」
 そりゃそうだ。正論だ。朦朧とし始めた意識でも、彼らの分かりやすい言い合いは耳に届く。拓睦の友人であろう彼の言い分は正しい。だからもっと言ってやってくれ、詰まる呼吸のせいでそう進言できないことが悔しい。
「痛ッてえなあ!殴ることないだろうが!」
「うるさいお前は後だ」
 充と呼ばれた青年は素早く蒼慈郎を横臥に戻すとベッドに腰掛け、右手で背をさすりつつ、左手で脈を計るよう指二本を首筋に添えた。
「大丈夫ですよ、僕の言うリズムで呼吸してください。浅く吸って……深く吐いて」
 彼の手のひらが首の方へ短く上へ向かい、腰の方へ長く下がっていく。それに合わせるように、できるだけ従う。
「何も考えなくて大丈夫です。僕の手の動き分かりますか?それだけ追って下さい」
 低くなりきらない声、しかし落ち着き払ったその声に促されると、不思議と安心するのか彼の手のひらの動きに肺が同調していく。ものの十分ほどすれば、蒼慈郎の呼吸はすっかり落ち着きを取り戻した。
「脈も戻りましたね。こっち、僕の目見てください」
 仰向けになおり、まだ薄らぼんやりとする脳で充の指示に従う。彼の黒々とした瞳をじいっと見ていると、視線の間に彼の指が一本割って入る。その左右に動く指を目で追う。
「眼球が少し震えますね。まだ少しふらつくとは思いますが、脈拍と呼吸も正常ですから安心して下さい」
「ああ、ありがとう……」
 上半身を起こそうとすると、充がそれを制した。
「駄目です、まだ横になってて下さい。温かいお茶を持って来ますから」
「蒼慈郎さ…」
 立ち上がった充は拓睦を引きずりながら出ていく。連れ立って戻ってきた二人は電気ケトルと大振りな急須、それに人数分の湯呑とお茶請けを持って戻ってきた。不機嫌にむくれた拓睦と、冷静そうな彼の友人を交互に見る。充のスラリと伸びた手足、耳にギリギリ掛からない長さの癖のない黒髪に育ちの良さを感じた。
「お待たせしました」
 質素な学習デスクにお茶一式が置かれ、カチャカチャと陶器の擦れる冷たい音がする。充がお茶を注ぎ始めると、なぜか拓睦がベッドに飛び乗り、壁と蒼慈郎の間に仰向けで挟まった。そしてシーツに向かってワアーッと大声を上げる。ベッドのスプリングの下から、くぐもった彼の声が漏れ出た。
「気にしないで下さい。時折こうやって発散するんです」
 充が上体を起こすよう促してくれたので従い、ヘッドボードに背を預ける。目の前に湯気くゆる湯呑が差し出され、受け取ると玄米茶の香ばしい香りが鼻先を撫ぜた。
 何度か息を吹きかけ啜れば、じんわりと食道から胃の腑を温かいお茶が下っていく。
 それが酷く懐かしい。温かいお茶なんていつ振りだろうか。
「気分はどうですか」
 拓睦のデスクチェアに腰掛け足を悠然と組んだ充が言う。医者の息子はこうも堂々としているものなのだろうか。
 彼のスッキリとした凛々しい目元は、見つめる蒼慈郎を疑っている気がした。
「ありがとう、すっかり良くなったよ」
 社交辞令的に微笑で答えると、蒼慈郎の腰に拓睦が腕を回し腹に顔を埋めるようにしてひっついてくる。どうやら拗ねているようだ。
「過呼吸には良くなるんですか?」
「……初めてかな。脳貧血は二度目だけど」
「心因性ではなく、理由はコイツですか」
 充が拓睦を指さす。
「あー…まあ…」
「おい拓睦。お前何したんだ」
 厳しい声音で問いただす友人を無視し、拓睦は蒼慈郎の腰に回す腕の力を強めた。こうやって、嗜め叱ってくれる友人の存在は得難いものだと、彼の年齢では気付けないのかも知れない。
「無視をするな!」
 充がベチンと容赦なく癖毛の強い拓睦の頭部を叩いた。彼はそれでも頑なに無言を貫く。
「拓睦くん、今度からはきちんと一言相談してからにしてくれないかな。どうにも俺はこういう急な展開に弱いみたいだし」
 君の前でまた倒れたんじゃ、余計な心配ばかり掛けてしまうし。
 そう続けると、拓睦がようやく顔を上げた。たいそう恨めしそうな顔付きで、目縁に涙までためている。申し訳無さから来る顔…ともまた違う。
「あの、その……本当にあなたがコイツと付き合ってるっていう蒼慈郎さんですか」
 充の問い掛けに、まあそう聞きたくなる気持ちも分かるなと思いつつ、これは全て筒抜けなのだろうなという呆れとも諦めとも付かない気持ちが同時に湧く。
「ああまあ……そうです。君たち高校生からすれば、未成年に手を出している犯罪者予備軍とでも言いますか…」
「いやそうは思ってないんですが…何せコイツがあなたを騙くらかしていたことも知っていますから…」
 貴伝名 充と名乗った彼は、ほぼ全ての経緯を知っているようだった。出会って今までの蒼慈郎と拓睦の様々は、本当に面白いほど筒抜け状態だ。
 拓睦が年齢詐称をして近付いたことも、挨拶のキスではないと分かっていて初めて蒼慈郎に口付けたことも、断られても駄々をこねるようにして恋人になったことも。
「今日はどうしてここに来たんですか」
「いやあ… 家で会おうと誘われて来てみればここで。受付の人に嘘まで吐いて、ここまで何とか合わせて来たんだけど、ちょっと緊張が度を越してしまってこんなことに」
 混乱しすぎて逃げることもままならなかったと笑ってみたら、あまりに乾燥した声だったので自分で驚いてしまった。
 それを聞いてか充の目尻がグッと持ち上がり、立ち上がった彼が拓睦を引き剥がそうと首根っこを強く掴む。
「お前なあッ!ちゃんと全部話せって言っただろ!それで相手が嫌だって言ったら尊重しろって僕はお前に何度も言っただろ!」
「グウ~ッ!でもおうちデートしたかったんだから仕方ないだろ!」
 おうちデート…その間の抜けた単語に、蒼慈郎は呆気にとられた。そんなことのために、自分はこんな…目眩と過呼吸にまでなったというのか。
「ぼ、僕だってしたことないんだぞ!」
「知るかよ!雑誌に載ってんだよ!高校生のウィークリーデートスポットって!だから実行したっていいだろ!」
 それはきっと、高校生同士の恋人の場合だろう。それなら誰も文句は言わない。いやまあ不純交友であるのなら言われもするが、世間一般的には微笑ましい高校生カップルの話に落ち着く。現状はどうだ。自分は三十二歳で、相手は高校三年生だ。密室で二人きりというのはどう考えても蒼慈郎に不利だった。
「そ、それなら実家の方に呼べばよかっただろ!どうせおじさんもおばさんも居ないんだから、何の不都合もないじゃないか!」
 リーチの差か、はたまた単純に力の差なのか、勢いをつけた充の引きに拓睦の腕がベリッと剥がれ、そのまま胸倉を掴み合っての言い合いが始まる。
「うるッせえ!お前蒼慈郎さんの首に触っただろ!俺だって触ったことないのに!」
「脈拍計っただけだ!お前みたいに下心なんて一切ない立派な医療行為だ! 人に迷惑かけるような嘘を吐くお前に好かれてこの人も大変だと思わないのか!もっと誠実に接しろ!自分の思うことばかり押し付けて何が恋人だ!」
「お前が言うな!」
 彼らは殴り合いの喧嘩というものをしたことがないのだろう。胸倉を掴んで言いたいことを言い合うのに一切手が出ない。出ても相手の頬を引っ張ったり、掴んで潰したり。言い合う内容も何だか幼稚で、自分もこの喧嘩の渦中の人物であるというのに、蒼慈郎は微笑ましくなってしまう。
 この未だ幼い二人の男子高校生は、幸せな家庭に育ち、良い両親に恵まれたのだろうと思わされる。人の殴り方も知らない、人の罵り方も知らない。馬鹿だの阿呆だので済ませ、あとはお前はズルイだのというささやかな、罵倒とも言えない応酬。
――平和だ
 体力が有り余っているであろう高校生は気が済むまで口喧嘩をさせ消耗させてやろうと、蒼慈郎は二人を放置し茶をすすった。
――これなら子猫の喧嘩の方がまだ危険だ
 鬼気迫る迫力や、躊躇しない攻撃などを考えると子猫の方がいくらも真摯だ。
 それから二人の間でしか分からない幼稚な罵り合いが続き、十分は経過した頃。ようやく静かになった二人は、冷めきった玄米茶を揃って呷った。
「落ち着いたかな」
 慣れぬ喧嘩をしたせいで肩で息をしていた少年たちは、蒼慈郎の言葉に無言でコクリと頷き、ベッドとデスクチェアに分かれてどかりと腰を下ろす。拓睦はそのままベッドに背を預けた。
「君たち喧嘩は初めて?」
「……何で分かんの」
 疲労困憊の顔付きで拓睦が言う。
「あまりにも下手だからね」
 今まで言い合いらしい言い合いも、喧嘩らしい喧嘩もしてこなかったことが手に取るように分かる。
「とにかくだ、拓睦はもう少しこの人のことを考えて行動しろよ」
 チェアに座る充が後頭部を掻きながら言った。蒼慈郎自身も、今後そうなってくれると嬉しい。頷いてみると、眉尻を下げた情けない表情の拓睦がこちらを見た。
「……俺どうしたらいい?」
「そうだなぁ…行動に移す前に相談してくれたら嬉しいかな」
 どうかそうして欲しいと懇願の意を込めて苦笑う蒼慈郎を見てか、拓睦がのそりと起き出して、ヘッドボードに背を預けたままの彼に迫る。なんだなんだと思っていると、拓睦が腹の上に跨って顔を覗き込んでくるではないか。
「な、なにを…」
「ねえ、俺アンタのその顔好きだよ」
 あまりに突飛な発言に、混乱で目が泳ぐ。
「そうやって困った風に笑うの好き。だからアンタのこと困らせたくなる」
「ああだからこういうことを…」
 サプライズのつもりでこんなことをするのかと言おうとした蒼慈郎の頬を、拓睦が両手のひらで包んだ。
「キスしていい?」
「…ッハア!?」
 そう叫んだのは蒼慈郎ではなく充だった。
「うるせーぞ充」
「僕がここに居るんだぞ!?」
「関係ないだろ早く出てけ」
「出てったらするだろ!」
「お前とするわけじゃねーからいいだろ!蒼慈郎さんとすんの!邪魔だって分かれよ!出てって!早く!」
「出ていかないからな!寮内で不純交友するなんて許さないからな!」
 また拙い言い合いが始まるなんて堪ったものではないと、蒼慈郎はなだめるように何とか笑顔を作りながら、拓睦の手のひらを頬から外し言う。
「そういうのは二人の時だけにしようか」
 拓睦が面白くなさそうに唇を尖らせた。
「でもそうやって聞いてくれるのは嬉しいから、今度から何かしたいことあったら俺に聞いてくれないかな。今聞いてくれたから、俺は貴伝名くんの前で恥ずかしい思いをしなくて済んだよ、ありがとう」
 子供の情緒を育てるのってこういう気分なんだろうか。当たり前をしてくれたらお礼を言う。それが嬉しいのだと伝える。
 高校生に対してこのように接することが果たして正解なのかは分からない。しかし目の前の少年には効果てきめんのようで、口をもごもごと動かしながら嬉しそうに口角を上げていくではないか。
――単純というか、純真無垢というのか
 その真っ直ぐな感情表現に思わずフッと笑いを漏らしてしまう。すると少年の腕が蒼慈郎の脇から背に回り、くったりとしなだれかかる彼は、まるで懐いた動物のように鼻先を蒼慈郎の首筋に擦り寄せた。
 少年の滑らかであたたかい肌、顔のおうとつを首の皮膚で感じながら、いつもこうなら可愛いものだと考えつつ彼の背を撫ぜてやる。薄い背筋の中心で感じる脊椎のなだらかな隆起、少し窮屈そうに曲げられた背に、いくら華奢に見えるとはいえ女性と違う荒々しさを感じた。
 背に回された拓睦の腕がキツく締り、胸同士が密着し始めると、彼が耳元で言った。
「ちょっと硬いもんが当たるけど気にしないでいいから」
「え? かたい、もの…」
 グッと寄せられた腰の中心に、馴染みのあるそれが芯を持ち始めているのがわかった。
――嘘だろ何で勃起して…ッ
 触れ合った胸部から彼の早鐘が伝播して、自分の鼓動まで引きずられ早まっていく。胸のポンプが押し出した血流の熱は耳まで達し、耳殻が火照って熱い。
「ちょッ…と!何で君勃ってるんだよ…!」
 こんなに密着してしまっては、どうしても彼を剥がすことができない。
「思い出し勃起しちゃった」
 照れ臭そうに耳元でそう宣う少年は、蒼慈郎の晒されている首筋にほってりとした唇を押し付け、まるで脈動をそこで感じようとしているようだった。拓睦が鼻からスウッと深呼吸をする音がする。
「はぁ…ッ」
 吐き出された吐息は熱い。
「待て待て待て…!」
「ちょっとだけ、こうしてるだけだから」
 何がちょっとだけだ、こうしてるだけだ。確実に彼は今自分の匂いを嗅いだし、そうすることでどんな情報を得たのかうっとりとした吐息まで吐き出したではないか。ここには彼の友人である充だって居るのに、彼は何に構うこともなく自分の体温を、堪能するように首筋の皮膚に唇を押し当てているというのに。これがさも普通のハグであるかの如く、何でもないのだから騒ぎ立ててくれるなと言わんばかりに腕を締め付けるのに。
 チラリと横に視線を移せば、顔を真っ赤にした充がこちらを凝視している。彼も混乱しているのか、驚きに口をあんぐりと開け全身の筋肉を固めてしまっている。
「昨日さ、生まれて初めて夢精したんだけど、あれヤバいね。虚しさが半端ないし、アンタ見ると思い出して勃っちゃう」
 首筋から顔を起こし、鼻先を突き合わせながらこちらの瞳を見つめてくる拓睦は、照れと自虐以外の熱をアンバーの虹彩に宿していた。それは抗いようのない、情欲の熱量だ。
 どんな夢を見たかなんて聞くのもおこがましい。この少年はきっと、自分の夢を見たのだ。そして無意識下の吐精までした。生まれて初めてのソレを、自分の痴態で成し得たのだろう。なんとも憐憫を誘う。
「ねえやっぱりキスしてもいい?」
 両頬を手のひらて包まれ、ハの字眉の少年に再度懇願される。腹に押し当てられた布越しの彼の怒張、唇に掛かる彼の熱い吐息に、してもいいと言ってやれたらどんなにいいかと甘い考えが湧いてしまう。しかし蒼慈郎の理性はそれを許さない堅牢さを持っていた。
「また今度ね」
「充が居るから?」
「そうだね、あとここが寮だから」
「……ケチ、チューってするだけだって」
「駄目だよ」
「じゃああと三十分こうしてる」
 胸に顔を埋めるようにして、彼は再度自分に抱きついてだんまりを始めた。三十分はいささか長過ぎるがまあ、彼の願いを聞いてやれない代償なのだから仕方がない。
――相変わらず体温が高いなあ
 しかし彼はいつもこうなのだろうか。年齢に見合わない甘い我儘を振りまく、何と形容すべきかよく分からない、子供じみた感情で人を振り回すような性格。
「あの、彼はいつもこんな調子なのかな?」
 充の方を向きながら問い掛けると、固まっていた彼がハッと我に返ったのかアタフタと視線を泳がせわざとらしく咳き込んだ。
「す、すいませんちゃんと聞いてなくて…」
「ああ何かすいません…。拓睦くんはいつもこんな感じなんですか?」
「えッ…いやあ…まさかそんな…」
――まさかそんな?
 まさか、とまで付けられ否定される。
「こんなにグニャグニャになって甘えてるの、初めて見ました……」
 そしてまたもや充の顔には茹だるような赤が浮かび上がる。そんなに恥ずかしくなるほど、普段の姿とは違うのか。
――彼は俺に甘えているのか
――ああ、何だか胸の真ん中がくすぐったい
 小さくて柔らかな手で、心臓をくすぐられている気分だ。
「いやお前も大概だから。溶けたみたいな顔でデレッデレしてんの俺見てるからな」
 拓睦が鋭い声音でそう言うと、充が慌てる。
「ぼッ僕はここまで酷くないだろ!」
「いや酷いもんだよ実際。あの人のことお姫様みたいに扱ってんの無自覚なの?」
「おひッ…めさまってお前なあ!」
「ここの段差に気をつけて下さい、砂糖もう一ついかがですか?ってお前一歩間違えたら介護だからな。気をつけろよ」
「お前に言われると腹が立つ」
 きっと充にも好い人が居るのだろう。それを友人に揶揄され赤くなるだなんて、背格好は大人のそれであっても、彼もまた拓睦と同じ守られるべき子供なのだ。
「ところで遠田さん」
 話題をそらそうとしているのか、充がデスク上に乗せたままのカードホルダーを手に取りしげしげと眺めた。
「この社員証みたいなの…本物ですか?」
「一応ね。でもそれも古いビジネスカードだから役職は違うんだけど、本物だよ」
「ファンダンゴって何する会社なんですか」
「AIプログラミング開発の会社だよ。検索してみれば出てくるよ」
 起業して二十年も経たない新興の中小企業と言えば良いのだろうか。第四次AIブームの中頃に設立され、今や従業員二百名を抱えるにまで育った。第五次AIブームの波に上手く乗れたことが幸いし、今や全世界を相手に人員が飛び交いシェア率を上げている。様々な業種の企業と綿密な打ち合わせを行い、その企業専売のプログラムを組む。既製品を売り出す訳ではないので骨の折れる仕事ではあるが、一度着いた顧客は新システム導入時にもこちらを贔屓にしてくれる。
 世界中に支社を設けないのも、顧客がこちらの出張遠征費を出してまで呼んでくれるという強みの現れだ。オフィスは設立当初から変わらず、地価の安くなったシリコンバレーの元中心街に居を構えて久しい。今や半導体産業も下火になってはいるが、シリコンバレーの人気は根強い。例え中心街がサンノゼディリドン方面に移って行こうとも、開発者の中では永遠のブランドを秘めている。芸能の都がハリウッドから変わらないように。
「貴伝名君のお家は医者だって言ってたね」
「はい、都内に病院があります」
「じゃあうちで組んだシステムの入っている機器がどこかにあるかもね」
「医療機器のプログラムを作ってるんですか?」
「それも作ってる。全世界の企業を相手取って、本当に色んなシステムを組むから。医療機器、物流配送管理、工場の大型機械に家電……頼まれれば色々作るんだ」
「じゃあ色々な国に行くんですね」
「そうだね。お陰で一時期どこが自分の家なのか忘れてしまいそうなくらいだったよ。それもまあ、今回で終わりかな」
 ビルの昇格に合わせ、開いた彼の席に座るよう何度か打診を受けている。同期の三人も同じ様に腰を落ち着ける時が来たのだ。今度はもっと若い子たちが、自分の後輩に連れられて世界中を飛び回る番だ。
「じゃあアメリカに行けば蒼慈郎さんに絶対に会えるってこと?」
 コアラの赤ん坊のように自分の腹に引っ付いている拓睦が顔を上げて聞いてきた。
「だろうね。二人共いつでも歓迎するよ」
「じゃあ俺、春休みに行くから」
 高校生の春休みと言えば、大体三月頃からだろうか。日本に居る予定が二月までだから、帰国してすぐ拓睦は会いに来る気でいるのだ。
 四ヶ月間だけの恋人ごっこのつもりで居るのは、どうにも蒼慈郎だけのようだった。
「二月から自由登校だし、アメリカ帰る時一緒に行こうよ」
「いつでもとは言ったけど、いくら何でもそれは…というか卒業式はどうするんだ?」
「その日だけ日本に帰る」
「そんな、無駄に金が掛かるだけだ」
 たしなめてみても、金くらいどうとでもなると少年は言った。自分で外貨を稼いだこともない子供の戯言だろうが、自分もいつかそう言ってみたいものだ。いくら大人になろうと、いくら労働で稼げるようになっても、そう大言壮語のようなことを言えないのは、身に染み付いた生育環境のせいなのか。少し自分が情けない。
「親御さんの稼いだお金だろ。君が好き勝手に使っていいわけないじゃないか」
「別にいいよ。親だって年中海外行って遊んでるんだし。あの人たちこそ、仕事を仕事と思わないで好き勝手してんだから、俺がアメリカ行くくらい、どうってことないでしょ」
 年中海外を飛び回る…同業者だろうか。それとも輸入業、外商、政府関連か。
「拓睦くんの親御さんは何を…」
「親父が考古学者で、母親が宝石商。二人共好きが高じて土掘ったり石買ったりしてんの。インドの山が熱いだとか、どこそこの海底遺跡が熱いだとか言って、今もどこに居るんだか分からない」
 スケールの大きな話だ。考古学も宝石も、地球や歴史のアーキタイプを追い求めて止まないロマン溢れるもの。居ても立ってもいられずに、彼の両親は日本を飛び出して行くのだろう。楽しげに夢を追って。
「仕事に夢中すぎてさ、金の使い道が無いんだって。俺が日本に居るから二人共国籍は日本なんだけど、住んでもない国に税金取られるのも癪だし何か買え使えって言われる」
「それはまた……羽振りがいいというか、何というか…。少し寂しい話だね」
「別に寂しくは無いかな。ずっと寮で暮らしてるし。盆暮れ正月は実家に帰るしまあ、普通だよ。俺んちよりも充んちのがすげー金あるから」
 都内に病院を構えている医院長令息が親友で、彼自身は考古学者と宝石商の令息。もしかしなくても、この寮に居る生徒は皆そう言ったハイクラスな身分なのだろうか。
 大都大付属高校に入るくらいだ。やはりそれなりの財が必要なのかも知れない。
 自分とは大違いの世界に、蒼慈郎は少し笑ってしまいそうになった。自分なんて、地方の、それも海沿いの漁港街に生まれたしがない田舎の人間だ。栄えてもいない街だから、最低賃金も安かった気がする。十八歳で家を出て、その安い賃金でいくらか働いて金を貯めて、東京に出てきて二十五歳でスカウトされた。お陰でアメリカの綺羅びやかなセレブ階層にも、七年経つ今でも慣れることはない。
 蒼慈郎の心はいつだって、生まれ故郷で見てきた、あのどんよりと重たい色をした海と共にあった。
「そうだ、年末俺んち来てよ」
「またここに?」
「いや実家の方。親が会いたいって言ってたし、その頃まだ蒼慈郎さん日本に居るでしょ?」
 拓睦のあまりの発言に、蒼慈郎はヒュッと短く吸った息を詰めた。
 この自分の胸に張り付いて離れない少年が、犯罪者になり得るであろう自分のことを、あろうことか親に吹聴していただなんて。
「え…? 拓睦お前…言ったの?」
 充の驚きに満ちた声音が横からする。
「言ったけど」
 何度か遭遇してきた彼のあっけらかんとした言い方に、またも窮地に立たされた。
「なん……で…」
 絞首された人間が発するような掠れた声でそう問えば、サアッと拓睦の顔が青くなる。
「えっ…嘘でしょ… 言っちゃ駄目なやつだったの!?」
「そう、だね…」
 どう転んでも、取り敢えず自分は彼の両親どちらかに頬を張られるだろうし、最悪は両人から拳を貰うことだろう。いやもっと最悪なのは前科が付くことであって、どうにか示談に持っていけないかとすら今は考えている。
「えっでもでも!父さんも母さんも全然怒ってなかったし!」
 そんなもの、伝え方によるだろう。好きな子ができただとか、付き合うことになったとか当たり障りのないことだけ伝えているとすれば、両親だって息子の相手に会いたいと思うこともあるだろう。
「いつもうるせーくらい聞いてくるから!俺に好きな人居ないのかとか!だから伝えたらやっとかってめっちゃ喜んでたし!」
「ああ、うん……」
「本当だって!」
 項垂れる蒼慈郎の肩をガクガクと揺らしながら、拓睦は必死の弁明をする。
「ちょ、マジなんだってば!今から電話するから!証明するし!」
「いやいやいや!事態が悪化するだけだから止めてくれ!」
 拓睦はジーンズの尻ポケットからモバイル端末を取り出すと、蒼慈郎と距離を取るようにベッドから飛び降りた。
「ああああ!止めてくれ…!」
「あッ 母さん!?」
『なァによ大きい声出して~。久しぶりにアンタから電話してきたかと思えば、早々大声出すなんてやめなさいよもぉ…』
 すぐに電話は繋がり、スピーカーにされたものだから蒼慈郎はそれ以上制止の声を叫べなくなってしまった。ベッドの上で届かない腕を伸ばしながら、部屋の端で焦った表情をしている拓睦に懇願の視線を向ける。しかしどうやら彼の焦燥に飲まれ、蒼慈郎の視線の意味は届いていないようだった。
 充はまたもあんぐりと口を開けて呆けている。肝心な時に役に立たない友人だと、蒼慈郎は胸中詰ってしまう。
「この前俺さ、付き合ってる人居るって言ったじゃん!?」
『なぁに藪から棒に…惚気たくって電話してきたの?アンタそんなに可愛い子だったかしら』
「いやそうじゃなくって、覚えてる?俺の言ったこと!」
『あらぁ覚えてるわよぉ。三十二歳の蒼慈郎さんでしょ?アメリカで何とかの仕事してて、たまたま日本に来てる時に出会って…。あら?違ったわね、運命的に出会ったんだったかしら』
「そうそう! 別にヤバくないでしょ!?」
『どういうヤバさのこと言ってんのよ』
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『全然分かんないわ。ちょっとパパ、拓睦がやべーやべー言ってるから翻訳してちょうだい』
 モバイル端末の向こうから、ガヤガヤと言う人の喧騒が聞こえ、拓睦の父親らしき人が変わりに電話口に出た。
『はいはい、パパだけど。何がやべーの拓睦くん』
「俺またやっちゃって、蒼慈郎さんめちゃくちゃ落ち込んでんの!」
『何しちゃったの今度は~』
「許可なく親に付き合ってること言った」
『アハハ!それをパパに言うの?』
「いやだって、父さんも母さんも根掘り葉掘り聞くから、俺だってそういうこと伝えるもんなのかなって思っちゃうじゃんか!」
『まあ親は聞くでしょうねえ。でも親に話したことは本人にあまり伝えないものだからね。拓睦くんやっちゃったねえ』
「えっ、ちょ、親が裏切るとかありなの?」
 孤軍となったと感じたのか、拓睦が弱々しい声でそう漏らせば、電話口の向こうで彼の父親がまた大きく笑った。爆笑と言ってもいいほどの声で。
『パパたちは蒼慈郎さんにお礼を言いたいくらいだけど、本人からしたら気が気じゃないだろうねえ。拓睦くん、ちゃんと蒼慈郎さんにごめんなさいしなさいね』
 高校生と付き合ってお礼を言われるなんてことがこの世にあるのだろうか。彼の父親の朗らかな物言いに、蒼慈郎の混乱は強まる。
「……蒼慈郎さん、ごめんなさい」
 萎れた耳と尻尾が見えるほど申し訳無さそうな拓睦が、父親に諭されてか謝罪を口にした。
「あっ…いや……はい…」
「俺知らないことだらけだから、今度から全部蒼慈郎さんに聞いてからやる…」
「あっうん……そうしてください…」
 蒼慈郎の返事を聞いて、拓睦はモバイル端末に向き直った。
「謝った!」
『拓睦くん偉いねえ。 ママ~噂の蒼慈郎さん今居るって~』
 その声にハッとする。そうだった、この通話はスピーカーにされたままだった。混乱しすぎて普通に拓睦と会話してしまったものだから、彼の父親に存在がバレた。
『えー!見たい! 拓睦ちゃんママにも見せて~!画面つけて、画面!』
 電話口から少し遠ざかったところで彼の母親の声がしている。
――どうしよう
 焦りばかりがつのって正常な思考回路で居られない。四ヶ月だけのつもりだったのに、気付けば二人だけの間で収まる関係性ではなくなってしまった。自分と彼二人だけの秘密のままで良かったのに、着々と外堀が埋められている。このままでは自分は逃げるに逃げられなくなってしまう。無邪気な少年が、無邪気に蒼慈郎という孤城を包囲し人海戦術のように攻め入ってくる。鉄壁を誇る孤城にも崩落の兆しが現れているのか。
――正直に言えば怖い
 彼は、全くの無意識でそうしているのだろう。自分という存在を周囲に吹聴して、簡単には消させないとせんばかりだ。
――人の心に残っていくのが怖い
――自分の知らない所で、彼らの心に自分という存在が残るのが怖い
「ヤだよ。俺もう蒼慈郎さんに嫌われることしないって決めたから。蒼慈郎さんがいいって言ったことしかしない」
『ちょっとパパ、なんて可愛いこと言うのよこの子は。信じられない』
『恋は人を変えるからねえ』
『はぁ…どうして私たち今インドなんかに居るのかしら。意味が分からないわ。何がパープルダイヤモンドですか、アメジストって言いなさいよ。今すぐ日本に帰りたいわ』
『まあまあ、あと一ヶ月もすれば会えるんだし。僕らはクリスマスパーティーとお節料理のメニューでも考えておこうよ』
『もうッ 蒼慈郎さん!是非年末は我が家にいらしてくださいね!』
 じれったいという風に、彼の母親が強く言う。その声に気圧され、思わず蒼慈郎は反射的にハイと叫んでいた。
『絶対よ! パパ、オードブル頼むお店早速見繕わなきゃ』
『そうだね、そろそろ申し込んでおかないと。そういえば空輸で届けてくれるって言ってたラム肉の……』
「あーもう、じゃあ切るから」
『通信簿出たら連絡すること。いいね』
「うわぁ……分かった」
 心底嫌そうな小さい悲鳴を漏らして、拓睦は終話を押した。
「……ね、全然怒ってなかったでしょ。だからその、安心して欲しいっていうか…」
 彼が裸足でゆっくりと歩み寄ってくる。
「何も不安がることないじゃん。俺も絶対に蒼慈郎さんが嫌がることはしないって誓うし、だから年末俺の家に…」
 ザザン、ザー……突然遠鳴りのように鳴り出したノイズに彼の言葉が飲み込まれていく。
 ベッドに腰掛ける蒼慈郎の目の前で、拓睦が何か言っているのに、上手く聞き取れない。
「蒼  さ 」
 ザザザン、ザァー……徐々にその音は近付き気付けば耳穴の内側で鳴り響く。そこまでしてようやく気付いた。これはあのあまりにも懐かしい潮騒の音だ。重苦しい、冬の日本の海の音。
 蒼慈郎はギュッと強く目を瞑ると、小さく頭を払うように振る。
「ま、待って拓睦くんの声が……ちょっと聞こえなくって……」
 過去に何度か見舞われたことのあるこの幻聴に対する解決方法は無い。過ぎ去るのを待つしかない。こうなるタイミングは明確には分かっていないが、原因は分かっている。
――克服したつもりだったけど
――案外まだだったみたいだ
 鼓膜の内側、脳の中で鳴り響く重苦しい冬の荒い潮騒。
 震える自分の手のひらを取る拓睦の手の温度すら、とても遠く感じて感知できない。
「少し、待って……ちょっと、今は何を言われても聞こえなくて、その、耳鳴りが酷くしてるから…ごめんけど少し、待ってくれれば治るし……」
 ぴくぴくと痙攣するように忙しなく瞬く瞼の隙間から、彼が心配そうに自分を覗き込む様が断続的に見える。
 こんな無様を見せるのは彼で三人目だ。一人目は名前も忘れた高校時代の友人で、二人目は今の上司のビル。そして彼、紺屋拓睦。
――情けなくて泣いてしまいたい
 握られていた手のひらを解いて、両の手のひらで顔を覆う。
 大丈夫だ、呼吸だって上ずってない、意識もはっきりしてる、理性的だ。大丈夫だ、手が震えて耳鳴りがする程度だ。
――だいじょうぶ
 顔を覆う指々の隙間から垣間見る自分の膝の上に、見知った幼児が頬を付けて、のっぺりとした瞳でこちらを見上げている。
――ああクソ、お前まで出てくるのか
――幻覚まで出てくるなんて
 子供に似つかわしくない痩けた頬、落ち窪んだ眼窩には濃い隈が縁取り、口角には青々とした痣ができている。気の毒なほど色のない首筋には指の痕が、細い手首には擦り傷がぐるりと一周回っている。
――帰ってくれ
――俺はもう冬の海には行けない
 ぱくぱくと無声で何かを訴える幼児の口の中、覗く乳歯は欠け折れて無い。艶のない黒髪は乱れ、汚れ毛束になり、所々禿げている。
 見たくなくて強く目を瞑り、こみ上げる吐き気を抑えようと湧いて止まらない唾液をごくごくと幾度となく飲み下す。
――頼むからこれ以上変に思われないようにしないと
――深呼吸をしよう
――そして彼に言おう
――この関係はなかったことにしてくれと
 膝上の幼児が、歯抜けの口を歪めて笑った。

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