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9.柚子のレターセット

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 声を殺して泣いていた彼女の背中が、何日経っても夢に出てくる。
 あれから一週間――別れ際にどんな言葉をかけたのか、どうやって帰って来たのか覚えていない。ただ今週末のブックカフェに、しいちゃんは現れなかった。

「ユヅ~いる? 大学行ったか?」

 熱のこもったベッドから起き上がり、サイドテーブルのスマホを手に取った。しいちゃんのトークルームを開き、「この間はごめんなさい」と打っては消してを繰り返す。
 いざ送信のボタンを押そうとすると、指が震えて動かない。

「いつものスニーカーあんだけどなぁ。ホントにいねぇの?」

 スマホを枕元に投げ出し、爪痕が消えてしまった肩に触れていると――通知音が鳴った。すぐさま起き上がって確認したが、「マユさん」の表示に思わずため息を吐いてしまう。
 鏡会で出会ったマユさんとのやり取りは平坦で、特に会話らしいものはしていない。互いに気に入った本のタイトルを数日に一度送り合っているだけだ。
 それでも今は気が紛れて良いが――未読のまま画面を消して起き上がった。スマホをベッドに置いたままカバンを肩にかけ、リビングに出ると。

「なんだユヅ部屋にいたのか? まったく返事くらいしろよなー」

 やっと静かになり、先に出たものだと思っていたが。シンはバイト用のリュックを背負ったまま、インスタントコーヒーを飲んでいるところだった。

「うん……シンもどこか行くの? バイトにしては早過ぎるけど」

 こちらを振り返ったシンは、なぜか「やれやれ」といった様子で首を横に振った。人の顔をじっと見ているが、何か付いているのだろうか。

「バイト前にビリヤードの練習行くんだけど。時間あるならお前も付き合えよ」

「まずはその顔洗ってこい」と洗面所に押しやられ、鏡の前に立つと。目の下の濃いクマに寝癖がついた頭、たしかにひどい顔をしている。

「……人間に戻らないと」

 シンを待たせないよう手早く支度を整え、向かった先はシンの勤め先――ビリヤード&ダーツバーだ。楽器屋の店員が演奏上手なように、この店のスタッフもある程度の技術と知識が必要らしい。

「うぉっ、見てたか今のキスショット! 今日は調子良いな」

 シンがここに勤めて2年ほど経つだろうか。3年前、客として偶然ここへ入った時に、マスターから「初心者とは思えないね」と褒められてからというものの。ひとりで通って腕を磨くうちに、シンはいつの間にかここで働くようになっていた。

「なぁユヅ、それ」

 練習中も騒がしいシンを放って、無心にダーツを投げていたのだが。的から外れるどころか、刺さらないで落ちている。

「普段も大した腕前じゃねぇけど、いつにも増してひでぇな」
「ダーツの勝率はだいたい五分でしょ。さらっと失礼なこと言うその癖、まさか仕事先(ここ)でも発揮してないよね?」

 あぁ、八つ当たりしてしまった――シンは少しムッとして、キューの先端をこちらへ向けてくる。

「んなの当然! お前だけに決まってるだろ。ここでは常識人で通ってるんだからな、オレ」
「シンくん、それ自分で言っちゃう?」

 ちょうどカウンター奥のキッチンから、タコライスの皿を両手に持ったお洒落ひげの男性が出てきた。

「あっ、マスター! 休憩中なのに昼飯作ってもらってすんません」
「いいよ別に。2人ともこっちにおいで」

 ゲームを中断し、カウンター席にシンと並んで座ると。出来たてのタコライスをひと口しか味わわないうちに、シンはスプーンを置いた。

「で? そのクマ、どう見ても塾講のバイト疲れじゃないよな」

 いつかは来る質問だと思っていたが――飲み物を作ってくれているマスターをちらっと見上げたところ。マスターは炭酸の入ったグラスをこちらに出し、「そういえば」と手を叩いてキッチンに消えていった。
 明らかに気を遣ってくれたのが分かって、余計に口が重くなる。何とか「別に」とだけ絞り出すと。シンは深刻な面持ちで、「別れたのか?」と肩を掴んできた。

「だから付き合ってすらいなかったってのに!」

 目を丸くしているシンを見て、自分が想像の何倍も大きな声を出していたことに気がついた。
 まったく。らしくないどころではない――少しヒリヒリと痛む喉へ、グラスのサイダーを半分ほど流し込んだ。

「そうか、お守りは役に立たなかったかぁ。異星人なんちゃらの夢話も、フツウの女子には重すぎたんだな」

「お守り」に関しては突き返すのを忘れていた。家で返そうと思いつつ、「だからあれは夢じゃない」と口にした瞬間。あの時撮影に成功した写真のことを思いだした。
 少しは気が紛れるかもしれないと思いつつ、半透明のピンク触手――ドーピィの写真をシンの目と鼻の先に差し出す。

「これ、例のヤツ。撮れたんだけど」

 目を細めたシンは、「クラゲの足と押し入れのコラ画像?」と怪訝そうに片眉を上げた。

「合成じゃないから。本当にこいつがしいちゃん家の押し入れに棲んでるんだって」

 シンの哀れみ漂う笑顔を見る限り、まったく信じていないようだ。

「しいちゃんって言うんだな、元カノ」
「だから……はぁ」

 これ以上何を言っても無駄な気がする。
 深いため息を吐いたところで、キッチンからマスターが戻ってきた。

「これ、昨晩お客さんに差し入れでもらったデザート食べる?」
「えっ! なになに?」

 カウンターに出された焼き菓子に、隣の甘い物好きは目を輝かせているが。今これは素直に喜べない。

「おぉ、アップルパイ? うまそう! マスターあざっす。ラッキーだなユヅ」

 彼女もリンゴが好きだった――思い出した途端、一緒に過ごした日々が脳裏に浮かんでくる。
 ブックカフェで初めて顔を合わせた時、アップルサイダーを飲む横顔から目が逸らせなくなったこと。マスターがお勧めしてくれたリンゴジュースを手土産に持って、家へ遊びに行ったこと。
 繰り返される誘惑と矛盾した態度の正体は、結局分からないままだった。エキセントリックな彼女と、もう会うことはできないのだろうか――。

「あっ! そういえばさ、最近あれやらねぇよな」
「……え?」

「わざわざ手書きで手紙出すの、お前の地味な趣味のひとつだったろ? どうせオレくらいしか出す相手いないんだろうけど、久しぶりに受け取ってやってもいいぞ」

 相変わらずの物言いだが、これは気分転換をしようと提案してくれているのだろう。
 シンの言葉に、グラスを磨いていたマスターは苦笑いを浮かべている。

「わぁーエラそうな言い方。でもユヅくん、手紙したためるなんて風流で素敵な趣味じゃない」
「ありがとうございます。実際、シンくらいしか送る相手いなかったんですけれど」

 正確に言えば、手紙を出すことより便箋を集めることが好きだった。あとは筆ペンの練習くらいに思っていたのだが。

「こいつ昔から『手紙の方が気持ちを伝えやすい』とか言って、近所に住んでんのにわざわざポストに入れて手紙出してきてたんっすよ」
「そんなこと言ったか――あ」

 そうだ。スマホのメッセージより手紙の方が、じっくり考えて言葉を送れるかもしれない。しかし嫌な相手から手紙をもらったら、余計不快にさせてしまわないだろうか。

「ユヅ? おーい、突然固まってどした? なんか言わなきゃ分かんねーよ」
「分からない……」

 それも確かにそうだ。怖がってばかりいて行動を起こさなければ、本当にもう会えないかもしれない――彼女への謝罪を綴るための、新しい便箋を買いに行こう。

「シン、ありがとう。とにかくやってみるよ」
「あ? あぁ……よく分かんねぇけどガンバレ」

 そのままバイトの時間までビリヤードの練習をするというシンと別れ、ひとりで店を出た。

 この近くには、しいちゃんが話していたリニューアルオープンの本屋があったはず。文具屋も兼ねているあそこならば、良い便箋があるかもしれない。
 それからもうひとつ、万が一という期待があった。もしかすると彼女が来ているかもしれない――ささやかな期待と緊張を胸に、モールの自動ドアをくぐったその時。今1番会いたくて、会いたくなかった顔と本当に鉢合わせてしまった。
「あ」と発したきり固まっていると、紙袋を抱えているしいちゃんはにっこり微笑んだ。

「ユヅくんも来てたんだ」

 目は合わせてくれている。声のトーンもふつうだ。
 薄っすら色付いた唇を見ると先日の行為を思い出してしまうが、あれで確実に嫌われたと思えば顔の熱は冷めていく。

「ええと……」

 今すぐこの場から逃げ出したくて、つま先を外に向けたが――これは話ができる最後の機会かもしれない。そう思い直し、しいちゃんの抱えている紙袋に視線を落とした。

「な、なにを買ったんですか?」

 違う。
 まずは「この間はすみませんでした。出頭します」だろうに――油断すると出そうになるため息を噛み殺していると。

「今はヒミツ。ユヅくんは何買いにきたの?」

 会話を続けようとしてくれているみたいだ。
「なんで」と訊くわけにもいかず、「便箋」と正直に返した。

「便箋? 誰かに手紙書くの?」
「別に出す宛はないんですけど、集めるのが趣味で」
「一緒に見てもいい?」

 一緒に。思ってもいなかった提案に固まっていると、しいちゃんは店の中へ戻っていった。
 まさかあの日のことを忘れているのだろうか――いや、そんなわけない。

「行かないの?」
「え……あっ、行きます」

 慣れた様子で文房具コーナーへ向かっていくしいちゃんに続き、探す間もなく便箋の棚を見つけることができた。
 淡い水彩風やシンプルな罫線のみの便箋、それぞれ手にとってはみるものの。何となく隣のしいちゃんへ視線を遣ってしまう。

「わぁ、可愛いのいっぱいだね。私も買っちゃおうかな」
「しいちゃんも集めるの好きだったんですか?」
「私がちっちゃい時から、ウチはこういうのダメだったから」

 特に変わらない調子でそう言ったが――深掘りできる内容ではなさそうだ。しいちゃんの家庭事情を聞くのはこれが初めてかもしれない。

「これ、デフォルメされたフルーツの水彩が背景になってて美味しそう! リンゴと……あ、ユズもあるよ」

 一瞬呼び捨てにされたのかと思い心臓が跳ねたが。しいちゃんが手に取っている便箋を見て文脈を理解した。
 味のある柚子の実と枝が、和紙の便箋とよく合っている。

「じゃあ、これにしようかな」

 せっかく与えられた機会だったというのに。
 そのまま会計を済ませ、モールの出入り口で別れることになるまで、結局先日のことを話題に上げられなかった。

「私あっちだから。じゃあね」

 何か言いかけた気もしたが、しいちゃんはリンゴの便箋と紙袋を抱きしめてこちらに背を向けた。
 後ろ姿が遠ざかっていくのを見届けてから、自分も反対方向へ歩き出す。歩き出した――が。脅迫にも似た焦燥が、胸の奥から湧き上がってくる。
 このままでは本当にこれが最後かもしれない。傷つけるのも傷つくのも怖いからといって、このまま別の道を歩き出すのか。

「……っ、しいちゃん!」

 考えるより先に足が動いていた。踵を返し、滅多にしない全力疾走で人の間を縫っていく。
 途中で立ち止まっていたしいちゃんは、目を大きく見開いてこちらを振り返っていた。

「ユヅくん、どうして――」
「少し、お話し、できませんか?」

 小さく頷いたしいちゃんを連れて、荒い呼吸を整えながら近くの公園へ移動することにした。
 散歩コースのある公園内には、ジョギング中の人が疎らにいる程度だ。点滅する街灯下のベンチに少し間を置いて座ったところで、「この間はすみませんでした」と頭を下げた。

「本当はこの便箋も、しいちゃんに手紙を出そうとして」

 影を落とした横顔に向けて、そう正直に伝えると。しいちゃんの口角が上がった気がした。
「私も正直に言うとね」、としいちゃんが紙袋から取り出したのは、以前しいちゃんに薦めたプラトンの新書『饗宴』だ。

「ユヅくんのこと忘れようと思ってたんだけど、でも……」

 忘れようとしていた――はっきりとした言葉に肺が重くなる。

「僕のこと怖くなりましたよね。その、あんなことして」

 もはや自傷行為に近い言葉をあえて口に出すと。しいちゃんは首を横に振って、真っ直ぐにこちらを見た。

「怖くないよ。ちょっとびっくりだったけど」

 目が潤んでいて顔が赤い――まだ挽回できるのだろうか、と希望を見出しそうになったが。「調子に乗るな獣が」と頭の中で声が響く。

「それにあの時、嫌じゃなかったから困ったの」

 いつの間にか、しいちゃんの手が自分の手に重なっていた。
「嫌じゃなかった」という言葉。それから心地よい温度のせいで、少し前までの絶望が希望へ変わりそうになる。

「あ、の……近い、です」
「この間はもっと近くにいたのに?」

 あの時怖い思いをしたから、自分を忘れようとしたのではなかったのか――しいちゃんは性懲りもなく顔を近づけてくる。

「駄目、だから。早く離れて」

 そう口では言えるものの。甘い匂いに誘われて、また唇を重ねたくなる。
「いけ」と「いけない」が何度も脳内を巡ったすえ、手を握り返したその時。ふと横からの視線を感じ、しいちゃんの肩を押し返した。

「どうしたの?」

 先ほど前を通ったランニング中のおじさん、こちらを見ながら通り過ぎていった気がする。しかしそのおかげで目が覚めた。

「帰りましょう。もし許してくれるなら、また僕から連絡しますから」

 目を瞬かせているしいちゃんから視線を逸らし、すぐさま立ち上がったのだが。シャツの裾を掴まれていて、それ以上進むことができなかった。

「しいちゃん?」

 振り返ると、夕日を映した瞳がじっとこちらを見上げてくる。

「もう少し一緒にいたいなぁって。ダメかな?」

 当然同じ気持ちだが――2人きりになれば、この間のようなことになりかねない。しかし自制の念を崩すように、しいちゃんは「ユヅくん」と呼びかけてくる。

「一緒に歩くだけでもいいから」

 2人きりの空間に誘うのではなく、ただ一緒にいたい。しいちゃんがこういう提案をしてきたのは、ゲーム開始以来初めてだ。

「それなら……家まで送りますか?」

 こちらの気も知らないで、しいちゃんは「ありがとう」と微笑んだ。
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