肉食令嬢×食人鬼狩り

見早

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咀嚼

狩人の受難:5.森を出た日

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『あなたの道行きに幸多からんことを』

 これは養子入りが決まり、教会を去る間際、神父ノットがかけてくださった言葉でした。

 そして彼女と別れる際、とっさに浮かんだ言葉がこれだったのです。

 なぜあの時、故郷の森から去る彼女を引き留めなかったのか。自室の窓から西を見つめても、向こう側に広がるものは果てしない闇でした。

 弓を引こう、と思いついたものの。その気晴らしでは、寝静まった家族を起こしてしまうかもしれません。今夜のところは脱力し、重い体をベッドへ沈めるだけに留めました。

『義父に悪いと思いながら従っていたら、一生後悔することになるわ』――真っ白な脳内に浮かぶのは、いつか聞いた彼女の言葉。

 あれは確か、No.7として狩りの仕事を終えた夜。叔父さんを尾行していた彼女と歓楽街で偶然にも鉢合わせ、バルの屋根に上って星を見た時でした。

 自分は亡くなった長女のスペアであり、役目を継ぐもの。義家族は『僕自身』が必要なわけじゃない――つい本音を打ち明けた時、彼女には「分かった上で養子入りしたのでしょう?」と叱責されましたが、その後。

『あなたの本当の気持ちを話したうえで居場所を決めた方が、どちらにとっても幸せな結果になるんじゃないかしら』

 結局義父とは話せていませんが、あの時の言葉は今も胸に残っています。

 考えないようにすればするほど、彼女――フルーラ・マダーマムの表情や言葉、触れた時の熱が浮かんできて眠ることができません。

「……分かってる。もう取り返しがつかないんだ」

 そう自身に言い聞かせ、寝返りを打つと。

『食人鬼狩りなんてやめなさいよ。教会のために10年以上働いたのだから、恩はもう十分だと思うわ。それで、たいして思い入れのない家を継ぐのもやめるの』

 再び、彼女の低い声が反響しました。

『他のことに気を取られていないで、あなたが本当にやりたいことをやったらいかが?』

「やりたいこと……」

 義父に応えるため、天文塔の官僚になりハーモニア家を継ぐことか。

 No.7として、これからも恩人に報いるため働くことか。

 居心地の良い場所へ帰るため、神父になることか――。

 少しずつ加速する鼓動に促され、体をベッドから起こしました。寝巻から平服へ着替え、頭の中で語りかけてくる彼女に急かされるまま、廊下に出て義父の書斎まで足を進めます。

「義父さん、起きていますか?」
「ジルか? こんな時間にどうしたんだ」

 そうは言いつつも、気の良い義父は「入りなさい」と声をかけてくれました。

 義父は家の仕事を片付けていたのか、デスクに明かりを灯して眼鏡をかけています。

「眠れないなら少し話でもしていくか?」

 我が義父ながら、現ハーモニア伯は本当に穏やかで柔和な人です。ですが今は普段以上に義父を真っ直ぐ見ることができません。そんなよくできた人を、自分はこれから裏切るのですから。

「義父さん、聞いて欲しいことがあります」
「うん、とりあえず掛けなさい」

 こちらの思いとは裏腹に、義父は何やら嬉しそうにしています。

 勧められたイスに腰かけつつ「なぜか」と問うと、「息子が初めて自分からここを訪ねてくれたから」と義父はからかうわけでもなく答えました。

 余計に話しづらくなりましたが、それでも卒業まであとひと月もない今。義父と話すならば、この時しかありません。

「遠回りになりそうなので、一番重要なことを言いますと……その、僕はこの家の跡継ぎにふさわしくありません」

 義父は目を丸くしましたが、怒りも焦りもせず「なぜだ?」と尋ねてきます。

「ええと、それは……」

「亡くなった長女のスペアとして生きるのが嫌だから」――改めて、今更なわがままだとは承知の上ですが。いざ伝えようとすると、その言葉だけが喉につっかえて出てきません。

 やっと言えたのは、代わりに思いついた「深夜外出」の件でした。食人鬼狩りとは言わず、半分正直に「教会の仕事」をしていると白状すると。義父は今度こそ憤慨するかと思いきや、「知ってたよ」と目を伏せました。

「どうして……」
「私を誰だと思っている? これでも天文塔と黎明教会の橋渡しをする『ハーモニア家当主』だからね。教会に身を寄せる孤児たちが、僧兵として働いていることくらい知っているよ。お前がここに来てから7年、ずっと仕事を続けていたことも」

 さらに義父は、「もうひとつ知っていることがあるよ、ジェルベ」と寂しげに微笑みました。

 途端に噴き出す額の汗を感じつつ、「なんでしょう」と顔を上げると。

「家を継ぐことが嫌なんだろう? なに、ここ最近の話じゃあない。もうとうに前からだ」

 義父は自分の本心について何も知るはずがない――当然のようにそう思っていましたが、それはとんだ思い違いだったようです。

「もし良ければ、わけを聞かせてくれないか? 外交担当の父さんは刑務部の連中と違って、さすがにそこまでは察しがつかなくてね」
「でもそんなこと今まで一言も……」

 むしろ何も気にしない様子で、「お前にならば安心して任せられる」などと食卓で話していたはずですが。

「口に出してくれなければ分からないこともある。さっきお前が『自分はこの家の跡継ぎにふさわしくない』と言ったから、これまでのお前の態度にピンときただけだ」

 困ったように微笑む義父に誘われ、つい先ほどは出てこなかった言葉が喉を通り抜けていきました。ただ最後にこれだけは――ハーモニア家は自分にはもったいないほど、温かい場所ということを伝えると。

 ただ静かに耳を傾けてくれていた義父は、「代わりのように扱って悪かった」と頭を下げました。

「え……」

 予想外の謝罪に固まってしまいましたが。「これは自分のわがままですから」、とすぐさま顔を上げさせると。

「お前をこの家に呼んだ理由はジル、お前が言う通り、跡継ぎとして期待していたことは事実だよ。ただお前が僧兵の仕事を続けていると察してからは、もしかすると海辺の教会を懐かしんでいるのではないかと思い、元の場所へ戻そうかとも考えたのだが……」

 少しためらったすえ、義父は「もう無理だった」とはにかみました。

「娘のことはまったく関係なく、お前はとっくにうちの家族だったんだよ。母さんもレアも同じ気持ちだろう」

 この家族は自分を、『ジル』を必要としてくれていた。何事にも消極的で、成績も特別優れたわけではなく突出した得意分野もない――そんな子どもを、自分が気づいていないだけでとっくに受け入れてくれていた。

 そう理解した途端、膝の上で握っていた拳が震えました。幸福、恐怖、罪悪感――馴染まない感情で胸がいっぱいになっていきます。

「そうか、息子が嫌と言うなら仕方ない。私が引退するまでに他の候補を見つけて……」
「その必要はないわ、お父さま!」

 突如開いたドアの前には、すでに寝たはずのレアが立っています。興奮気味にこちらへ向かって来た義妹は、「私が当主になりますわ」と声高らかに宣言しました。

「は……? レア、突然何言い出して」
「いや、なりたい者がなればいい!」

 柔軟な上に切り替えの早い義父はレアにハグを求めましたが、あっさり拒絶されています。

「あんなに小さかったレアが、いつの間にか頼もしくなったものだなぁ」
「長男だからって当主の座はそう簡単に渡しませんよ、お兄さま」

 なんだかどこかで聞き覚えのある言葉ですが。

 さらに進路希望へ話が移り、義父は神学校への進学を許すと言い出しました。

「それも知っていたんですか?」
「もちろん、担当教師から連絡はきているさ」

 進路指導のミセス・シフォン――ぎりぎりまで親には秘密にすると約束してくださったはずなのですが。きっと、そのギリギリを過ぎたということなのでしょう。

「天文塔と教会のパイプになることがハーモニア家のお役目だ。そんな当家にとって、天文塔と教会どちらにも通じる兄妹がいたら心強いだろう?」
「お父さま! 教会とパイプを繋ぐのなら、お兄さまではなく神父ノットを希望いたします」

 熱の冷めやらぬレアをあしらいつつ、義父は「どうして急に本心を打ち明けてくれたのか」と問いかけてきました。

 これ以上嘘や秘密を重ねたくはありませんが、さすがに本当のことをいうわけには――。

「フルーラ嬢か?」
「えっ……なんで」

 つい出てしまった言葉に後悔する間もなく、義父は満足げに微笑みます。

「一緒に食事をした時から分かってたが、いいお嬢さんだ。大切にするんだぞ」

 純粋な義父の言葉に、何も言い返すことができませんでした。

 本当にこのままでいいのだろうか――繰り返し自問しながら自室へ帰ると。ひとりきりになり、全身の力が抜けていきました。

 結局、進路や家の悩みは呆気なく解決しましたが。彼女のことは――自分が彼女の思想と相反する立場にある限り、和解は永遠にできません。

「ダメだ、自分のことばかり」

 彼女のことを真に考えるのならば、自分とのことはともかく、シスター・アグネスの件を考えるべきです。

 きっと彼女はもうほとんど確信していることでしょう。

 彼女たちの間に、生涯切れることのない絆があることを。



 早朝の教会では、すでにベッドから抜け出した子どもたちが雪遊びをしていました。

 おそらく雪かきをするよう神父ノットから言われたはずですが。積もったばかりの雪を前にしてこうなってしまうのは、自分たちの時から変わらないようです。

 以前「騎士ごっこ」に誘ってくれたマルク少年に雪を投げつけられましたが、今は雪玉投げで遊んでいる場合ではありません。やんわりと断り、今向かうべき場所――シスター・アグネスの部屋のドアを叩きました。

「まぁ! お帰りなさいジル。そこに座って待っていて、今お茶を」
「フルーラにすべて話してあげてください」

 遠回りになるくらいなら、と決心していたせいか、焦りすぎたようです。瞳孔を見開いたまま固まっていたシスターは、やがて静かに後退りました。

「何があったのか、話してくれますね」

 壁にかかる海の絵以外、昔から変わらず物の少ない部屋にお邪魔し、小さなイスに向かって腰かけたところで。ようやく本題へ入ることにしました。

「彼女は真実に近づきつつあります。きっとこの後、それを確かめに来るでしょう」
「でも今さら本当のことを打ち明けたって、あの子が辛い思いをするだけかもしれないわ」

 迷いを見せるアグネスに、否定はできませんでした。実際に彼女は、真実を知りたい気持ちと知りたくない気持ちが半々といった様子でしたから。

「考えておきます」と窓辺に視線を向けたアグネスは、これ以上そのことについて話したくないようです。

「私たちのことはひとまず置いて、もう少しで卒業ね、ジル。まだ心を決められないでいるのかしら?」

 話題を転換してきたアグネスに、「今は僕の話じゃないでしょう」と返したところ。

「あなただって、私の大切な子なのよ」
「……そうですか」

 話を逸らされたようですが――幼少期の7年をともに過ごしたアグネスには、胸のうちを少しはさらけ出しても良いでしょう。

 ひとまず進路と家のことは解決したと伝え、新たな葛藤について明かすことにしました。つまり率直に、食人鬼狩りとして神父ノットに恩を返したい――しかしフルーラ(ここは「背中を押してくれた方」とぼかしましたが)の思想とは相反する組織に与することになる、と。

 するとアグネスは真っ直ぐこちらを見つめたまま、「今あなたにとって一番大切なのは誰?」と力強く言い放ちました。

「僕にとって、一番大切……?」

 普段のんびりしているように見えて、いざという時は芯が強くなるシスター・アグネス――彼女のヘーゼルの瞳から目を逸らせないでいると。

「一度お茶を淹れてくるわ」、と雰囲気を緩めたシスターは席を立ちました。

 荒い波の音に耳を傾け、水平線から昇る朝日を眺めていると。ふと森でのことが頭に浮かびます。

『食人鬼狩りなんてやめなさいよ。教会のために10年以上働いたのだから、恩はもう十分だと思うわ』

 恩は十分――いいえ。命を救われた恩は、一生をかけても返しきれないはずです。

『他のことに気を取られていないで、あなたが本当にやりたいことをやったらいかが?』

 本当にやりたいこと――それをただひとつと定められるほど、自分は彼女のように強くありません。

 そもそも彼女は、マダーマム家当主である義父の命令を欺くために自分を利用しようとしていただけです。

『私もあなたが嫌いよ』

 焼きつくように残っている言葉が反響し、それに対抗するように重い口を開きました。

「本当に、大っ嫌いだ……」

 そう呟いた直後、ドアが軋む音を立てて開きました。ティーセットを抱えているであろうシスターを手伝おうと、席を立ったその時。

「ジル、そのままで結構」
「ビショップ・ノット……? どうして」
「あなたが教会に来ていると聞いて。話があるから、とアグネスに代わっていただきました」

 シスターが掛けていたイスに着席した神父ノットは、息を吸うだけで肺が重くなるような空気を纏っていました。シスターの部屋に昔からある『緑の海』の絵を見つめる横顔は、神父ではなく食人鬼狩りとしての顔に違いありません。

「あなた、フルーラに正体を知られたのですか?」

 そのことは彼女と自分以外誰も知らないはずですが――。

「前回の仕事中にあの子と邂逅し、2人で井戸に落ちたとNo.11から報告を受けていましたが……それきり、あなたと今日まで話す機会がありませんでしたから。あの後何が起こったのか、なぜ『衝動』を起こしたフルーラを教会へ送り届けたのか、経緯を確認しておきたいと思いまして」

 嘘は確実に見破られるでしょう。しかし外部へ正体がバレたことを知られれば、『No.7』を剥奪されるかもしれません。

 言葉を選び間違えないよう、沈黙がこれ以上続かないよう、頭を振り絞りながら回答しなければ。

「転落は事故で、その際に正体を知られました……でもフルーラは正体を黙ってくれています。彼女が井戸の中で突然衝動を起こした理由は分かりませんが、動けなくなってしまったのでビショップ・ノットの支援を期待して教会まで送り届けました」

 張りつめた空気の中、神父ノットは深いため息を吐きました。そして「私的なことには口出ししませんが」、とこちらから視線を外します。

「え……?」
「よく考えることですね。あの子は食人鬼を断罪する我々の『友』になり得るのか、『敵』になり得るのか――我が姪ながら侮れない相手です」

 先の言葉の真意が分からないまま、神父ノットは部屋を去りました。

「『友』か、『敵』か……」

『あなたが食人鬼狩りをやめないのなら、私たちは敵よ』

『恋人契約は破棄するわ』

 また脳内へ、彼女の声がはっきりと再生されます。

 彼女の言う通り、契約上の関係でしかなかったはずなのに――この気持ちを愛と憎、どちらへ昇華させたら救われるのでしょうか。
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