肉食令嬢×食人鬼狩り

見早

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狩人の受難:1.敬虔なるハーモニア家

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 凍てつくような風もなければ野生動物もいない、この箱庭に足を踏み入れて6年。弓矢だけが故郷を忘れない唯一の道具でした。

「53」

 人の手が加えられた庭で弓を引いても、大して面白みはありませんが。温かい豪邸の中で義父とチェスをして過ごすよりはまだマシです。

「54」

 ただ勉学や就職準備に割く時間が増えたせいか、たった60メートル先の動かない的を相手にしているせいか、左手のマメが少し柔らかくなったような――。

「っ……!」

 一昨日のことを忘れるため弓を射ていたというのに。この左手を見ると、小さく温かい舌の感触が嫌でも思い起こされます。

 ひとまず弓矢を置き、勝手に熱くなる顔を両手で覆いました。

 昨晩彼女に話した通り。貴族家の義務として、教育は受けさせられました。女性に触れること、触れられること自体は初めてでもなければ、義務以上の何かを感じたこともなかったというのに。

「やっぱりアレか……」

 狂食の館の次期当主、フルーラ・マダーマム。

 彼女のことは、おそらく彼女が自分を認識する随分前から知っています。ビショップ・ノットは姪子である彼女の話をあまりしませんが、シスター・アグネスはよく彼女のことを話題に出していますから。

 ただ半年ほど前の夕立ちの日、教会の礼拝堂で自分だけが目撃した彼女の一面――知らなくても良いところまで知ってしまったせいで、きっとこんな『正しくない情』を抱いているに違いありません。あの日盗み見てしまった彼女の目線や唇、指の動き、息遣い。そのどれもが頭に濃く染みついて離れないのです。

 半年の時が経ち、やっと薄れてきたと思っていたのに。彼女から直に触れられた晩は、あの日のことを想起されて感覚が鋭くなっていたのでしょう。細い指と小さな舌が肌に触れた瞬間。感じたことのない震えが全身に襲いかかり、思わず拘束を引き千切りそうになりました。

 そして浅はかなことに、「あの小さな体へ触れてみたい」と願ってしまったのです。

「でも……」

 マダーマムの名に違わず、彼女は『変わりものマッド』。しかもいっそ潔いほどに打算的で合理主義――「恋人契約」もイーストエンドでばったり会ったのが自分というだけで、半ば脅されて結んだ契約に過ぎません。

「そうだ、あれは恋や愛じゃなくて……」

 単なる欲情リビドー

 彼女に指摘された通り。仮にも聖職者を目指す身でありながら、快楽を求めるだけの接触をするなどあってはならない――ようやく熱の冷めた顔を上げ、次の矢を番えました。

「55」

 野ウサギよりも大きな的を見据え、獲物への情を捨て去った瞬間。

「ジル」――思考を溶かす甘い声が脳内再生され、指の感触がわずかに狂いました。軌道の逸れた矢は、中心から外れてやや右へ突き刺さっています。

「あらまぁ。お兄さまが中心を外しているの、初めて見ましたわ」
「レア……!?」

 すぐ背後まで近づいていた義妹の気配に気づかないとは。相当集中が乱れていたようです。

「か、課題はもう終わったの?」
「1年生の課題なんてたいした量じゃありません。それよりお兄さまの様子がおかしいのは、一昨日のアレが原因なの?」

 朝からムッとしている義妹から「一昨日」と言う単語が出てきて、心臓が嫌な音を立てましたが。まだ12歳の義妹たち白タイ(1年生)は、天体観測会に参加できないはず――フルーラ・マダーマムと抜け出したことを知るはずがありません。ましてや彼女と結んだ秘密の契約についても。

「アレって何のこと?」

 震える口角を上げて尋ねたものの、レアは眉根を寄せてドレスの裾を見つめたまま答えようとしません。やがて「しらを切るつもりなのね」と呟くと、こちらに背を向け歩き出しました。

「それよりお兄さま、もうランチの時間ですわ。いつまでお父さまたちを待たせれば気が済むの?」
「あ、ご、ごめん。もうそんな時間だったんだ」

 何の苦労もなく与えられる食事に気乗りはしないものの。「食卓を囲むのは家族の義務」だと思い直し、食堂へ向かいました。

 善良で信神深い義父母に倣い、今日も神の微笑むステンドグラスへと祈りを捧げます。教会の礼拝堂でするのと同じように。

 やがて父の号令で食事が始まると、先ほどまでの厳かな空気が噓のように食卓が和やかな雰囲気で満たされました。

「レア、学校が始まってからふた月経つけれど、もうお友だちはできた?」

 穏やかな義母の問いかけに、レアは手を止めないまま「お兄さまよりはね」と答えました。その後もポツポツと皮肉をこぼしながら、メインの魚を放って野菜をつまんでいます。

 贅沢だと思いつつも、義妹の選り好みに文句を言える立場ではありません。何か指摘しようものならば、テーブルの下で足を踏まれますから。

 好きでも嫌いでもない魚料理にナイフとフォークを向けたところで、ずっと口を閉じていた義父が「ジル」と声をかけてきました。

「学生生活もあと半年で終わるが、私の元で働く決心はついたかね?」

 最高学年になってからというものの。60を前にした義父は、安息日の度にこの話題を振ってくるようになりました。

 どうせ自分は「彼女」――空席の前に佇む遺影の少女のスペアに過ぎないというのに。

 食事の手を止めることなく、「まぁ」と返事をすると。

「ハーモニア家が代々担うのは、天文塔と黎明教会のパイプを繋ぐ重要なポストだ。生半可な気持ちでは務まらない仕事だが、賢いお前にならば安心して任せられるよ」

 言えません。進路相談の面談で、神学校を希望したとは。

「前にも話したが、当家は私の父――先代の不祥事で天文塔からの信頼を失いかけていた。それがようやく私の代で信頼を回復してきたところなんだ。このままいけば、落ち着いた状態でお前に引き継げるだろう」
「はぁ……」

 このまま何も言い出さなければ、間違いなく天文塔の官僚に推されることになるでしょう。シスター・アグネスは「自分の気持ちを正直に言いなさい」と背中を押してくれていますが、彼らは跡継ぎとして自分を養子にしたのでしょうから――。

 ひと口も含まないままフォークとナイフを置き、震える呼吸を整えました。
「考えが甘かった」などと後悔するのは、もう6年遅いのです。

「いつにも増して元気がないな、息子よ」
「え? 別にそんなことは」

 こんな自分を「息子」と呼び、実子のレアと分け隔てなく接してくださる義父母は、本当によくできた人たちだと分かっています。分かっているのですが――儚く微笑んでいる彼女の遺影に視線を遣ると、再びあの感情が湧いてきます。自分は「この家を継ぐ予定だった亡き長女のスペア」に過ぎないのだ、と。

 義父母がいくら尊敬できる人たちだとしても、それは揺るぎない事実です。

「お兄さまが上の空なのは、恋人ができたからじゃなぁい?」

 淡々とした調子で義妹が放った言葉――そのせいで、食卓の空気が瞬時に引き締まりました。

「ちょっ……レア!」

 無言で顔を見合わせる義父母をよそに、爆弾発言を投下した義妹は何事もなかったかのように野菜と魚を仕分けています。

 やがて声を取り戻した義母は、テーブルを越える勢いでこちらに身を乗り出してきました。

「今まで一度もそんな話なかったじゃないの! スクールの方? どこの家のお嬢さんなの?」
「いや違……!」

 興奮気味の義母を席へ戻しつつ、全力で否定するものの。

「身分差は心配しなくてもいいんだぞ、ジル。排他主義の連中と違って、ハーモニア家はその辺りの懐が広い」

 確かに義父は自らの仕事に誇りをもちつつも、よその家柄や身分がどうこう言ったことは一度もありませんが。

「母さんも平民出身でお父さまと一緒になったもの。どんな家の子でも歓迎よ」

 青タイ(2年生)からスクールへ中途入学して6年間。自分が一切友人の話をしなかったせいで、敬虔な信仰者であるはずの義両親も、もはや婚前の交際云々と言い出すどころではないのでしょう。

 義両親はすっかり食事の手を止め、根掘り葉掘り聞きだそうと夢中になっています。

「義父さん義母さん落ち着いてください! 恋人とか何かの間違――」
「あのミス・マダーマムでしょ」

「何で」と思わず口走ると。レアは今日はじめての笑顔で、こちらをニヤニヤと見上げました。

「一昨日の渡り廊下での公開告白、かなりの生徒が見ていたそうよ。きっと明日には、2人のニュースが校内中に張り出されますわ」

 渡り廊下――記憶をたどる限り、サロンへ誘った記憶しかないのですが。まさかウワサに尾ひれがついて、話が大きくなっているのでしょうか。

「ま、マダーマム、だと?」
「マダーマム、ですって?」

 恐怖を帯びた低音に顔を上げると。義両親は互いを見て頷き、おもむろに立ち上がりました。執事に何やら指示を囁き、従僕にコートや杖を用意させています。

「えっ。2人とも食事中にどこへ?」
「今すぐにご挨拶へ行かなければ失礼にあたる」

 失礼とは――義父が外出の支度を終えたところでようやく、それが何に対する失礼なのか思い当たりました。この人たち、今からマダーマム家を訪ねるつもりです。

「いや大袈裟な……」
「大袈裟なものか! 彼らの提言ひとつで、我々の家が取り潰しの目に遭う可能性だってある。マダーマム家は天文塔の中でも特別なんだ、お前も知っているだろう」

 たしかにマダーマム家とハーモニア家は「天文塔八大貴族」の枠に等しく並んでいますが、王室の相談役として代々指名されているのはマダーマム家のみです。実質的な権限はあちらが上であり、『特別』であることは否めませんが――。

「まずは先手を打っておかなければ。ジル、お前も早く支度をするんだ」
「あなた、手土産はこれでいいかしら?」

 家で一番高いワインを持ち出してきた義母の肩を掴み、「あれは告白じゃないんです」と冷静に告げたところ。少し熱が冷めた様子の義母は、「え?」とこちらを振り返りました。

「ちょっと話があって、サロンに誘っただけで」
「話? サロンに2人で?」

 妙なポイントに食いついてきた義父のせいで、せっかく冷静になりかけていた義母まで「それって交際の申し込みを……」と過剰な憶測を始めました。

「大事なお嬢さんに手を出されたと知れば、あちらがどういう動きをしてくるのか想像がつかない! 行くぞママ」

「ええ! 騒ぎが大きくなる前に急ぎましょう」

 手を出してきたのはむしろあちらなのですが――とにかく止めなければ、よりややこしいことになりそうです。万が一、マダーマム家の当主リアン・マダーマムに「恋人契約」のことが知れたとしたら、家同士を巻き込む戦争にでも発展しかねません。

「レア、この人たちの思い込みが激しいって分かってるよね? 一緒に止めてくれないかな?」
「ええ、食事を終えたらね」

 火種を巻いた当人は、野菜から仕分けた魚をこちらの皿へせっせと移していました。

 まったく。進路の問題はさておき、あと半年の学校生活を穏便に終えられると思っていたのに。

 これもすべては彼女、フルーラ・マダーマムのせいに違いありません。

「ほらジル、あなたも着替えなさい! すぐに車を回すから」
「だから誤解ですってば! レア、違うって早く2人に言って!」

 やっと席を立ったかと思えば。義妹は「歯を磨いたらね」、とあくびをしながら食堂を出て行ってしまいました。
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