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第四章 イチヤ乱痴気
三
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「衣装は手に入れました。音楽も、今夜には来てくれるそうです」
いまだに信じられないが、刹那は洋楽の演奏者を無事手配できたのだという。部屋の真ん中でポツンと待っていたピアノ――加納に報告すると、加納は「まだ一つ足りない」、とこぼした。
『すでに申し上げましたが、舞踏(ダンス)。これが無いことには、舞踏会は成り立ちません』
なんだそんなことか、と胸を撫でおろした。それならば身一つでどうにかなる。
「踊り手も幻影で何とかしろ」
『いいえ。あなた様方が誠意を見せなければ、主人がお姿を現すことはないでしょう』
帰る、と踵を返す刹那の腕にしがみつくも、そのまま出口まで引きずられてしまう。
「ちょっと刹那さん! ここまで来てそのくらいのこと……」
「そのくらい? 私に芸者の真似事をさせるつもりか?」
駄目だ。何を言っても聞き入れる気はないらしい。ならば――。
「刹那さん、見てください!」
父から教わった踊りを、うろ覚えのまま舞ってみた。伝統舞踊ではなく、洋式の踊りを。何とかそれっぽくできただろうか、とピアノの方を見る。
『ほぅ、これは見事でございます!』
一生踊ることはないと思っていたが、まさかこんなところで役に立つとは。
「このくらい私にもできるっていうのに、まさか刹那さんはできないって言うんですか?」
念押しの挑発に誘われてくれた刹那は、鬼の形相で戻って来た。やはり刹那は、強制されると動かない。
『お前、コイツの扱いが上手くなってきたねぇ』
「あっ、また余計なことを!」
刹那は「眠っていろ」、と八咫を胸の間に押し込み、こちらにずんずん迫ってくる。
「やってやるから、さっさと教えろ小僧」
こうして踊りの稽古がはじまった。最初は余裕で刹那に手を差し伸べていたものの……。
「刹那さん速いって! もっと優雅に――」
「やっている!」
踊りがぎこちない、というより、動きが速すぎてついていけない。加納が弾いてくれているピアノに合わせる気もないのか、足運びが滅茶苦茶だ。
「いだっ!」
「……悪い」
踏み、踏まれを繰り返すうちに、刹那はあっという間に俺を追い越していった。天性の勘を持っているのか、それとも神の学習能力は人の比ではないのか、上達が早い。
「ふぅ……そろそろ、休憩しませんか?」
「軟弱だ」、と文句を垂れる体力お化けを床に座らせ、自分もその隣に膝をつく。
「父親は役者だと聞いたが、西洋の踊りはどこで覚えた?」
「前に父が西洋の客から習ったと言って、見せてくれたんです」
人を軟弱と言っておきながら、刹那はこちらに背を向けて床に寝そべった。埃がつくと注意しても、起き上がろうとしない。
「父親と不仲なわけではないのだな」
別の話題を必死に探したが、浮かぶのは先日の平手打ちばかりだった。「責め苦が欲しいなら私がくれてやる」――刹那の言葉が頭から離れない。
『お二人とも、今お話しよろしいでしょうか?』
顔を上げると、人の姿をした加納と目が合った。縫製機(ミシン)の付喪神に頼んでいた衣装の手直しが終わったという。いつの間にそんなことをしていたのだろうか。
『是非こちらをお召しになって、舞踏会で踊っていただきたいのです』
先ほど磨いたピアノの上に、淡藤と桜色の洋装が一着ずつ並んでいる。何故二着あるのか問いかける前に、刹那が俺の前を遮った。
「こんなひらついた布を、私に着ろと言うのか?」
『ええもちろん! こちらは奥方様がお召しになられていたドレスでございます。何が何でもお召しになっていただかなければ』
舌打ちをしつつも、刹那は洋装を手に取った。即座に着物の帯を解き始めたため、さっと視線を逸らす。
『さぁ、咲さまも』
もう一着は、やはり俺用だった。しかしこれはいつもの変身と違い、体型が出る衣装だ。胸と尻の詰め物をどうしようか――。
『化粧箱に布切れがいくつか入ってたぜ』
八咫の言う通り、化粧箱にはちょうど良さそうな布があった。まったく色師は、どこまでお見通しなのだろうか。
加納の指示通りに洋装を纏い、舞踏室の壁にある巨大な鏡の前に立ってみた。が、日の本式の化粧がどうも浮いている。ランプを傍に置き、八咫を見ながら、ハイカラ風の化粧に挑戦してみることにした。
『お前、こういうところ拘るよなぁ』
桜色の布地に合わせて、流行りの薄紅で顔を塗る。
なるべく地肌の色を残すことがコツだと、いつだかの婦人雑誌に載っていた。
『それにしてもお前、よく色師のヤツに言うこときかせられるよな。色具の数を増やせだの、人間用の化粧品も用意しろだの』
それは薄々思っていたことだ。色師は逃亡以外、俺に何でも許すと言っている。確か最初に雇われた時も、色師の気まぐれに救われたのだったか――少し前のことを思い出すうちに、『主役を引き立てるハイカラ娘』が完成した。ここまでガラリと変身すると、最近味わっていなかった高揚を思い出す。
「……化けたな」
いつの間にか後ろで見学していた刹那に、たおやかな仕草でふっと笑った。
「もっと他の言い方ないんですか? 刹那さんも化粧変えます――」
いつもと違う服装のせいか。振り返った先の女をまじまじと見た瞬間、言葉が胸に詰まった。思った通り、淡藤色の布が刹那の黒髪に合っている。静かな色に対して、刹那の瞳がもつ強烈な赤が際立っていた。
「私はこれでいい。それより、背中の金具を上げろ」
後ろを向いた刹那の背中は、腰元まで肌がむき出しだった。頭の中がいつもとは違う色に満たされ、大きく脈打つ。
「どうした? 早くしろ」
きめの細かい肌に近づくと、勝手に指が震える。もし触れた時に、この不整脈が伝わってしまったらどうしよう。いつまでも固まっていると、刹那は「これでやりやすいか?」、と肩の上で切り揃えられた髪を上げてくれた。すると細く白いうなじに、何かの痕が――。
「これは……」
うなじに咲いている、赤い花に目が奪われる。
「あぁ? 閉め方が分からないのか?」
「いえ、そうではなくて」
紅花に似た形の、赤と黒が混ざり合った紋。これは何なのか。問いかけるも、刹那は不機嫌そうに唸るだけだった。
本当に知らないのだろうか。確かに、こんなところにあっては自分で確認することも難しい。じっと紋を観察するうちに、何だかこの形が以前から知っているような気がしてきた。既視感の正体が、浮かびそうで浮かばない。そんな時、激しい音と共に舞踏室の戸が全開になった。
やって来たのは派手な洋装を纏った楽団。その中心には、より派手な衣装を着こなす女が仁王立ちしている。
「お待たせいたしましたわ! 歌劇団『一条の光』よりやって参りました、当劇団ナンバーワン歌姫――一条愛生、ですの!」
袖を持ち上げて会釈する女は、あの薄桃と萌黄の混じる髪色にきらめく顔は――。
「あぁ、我らが主、刹那神よ! 忠実なる僕がやって参りましたわっ!」
刹那に向けて、不動の人気を誇る歌姫――一条愛生は深々と頭を垂れている。
「刹那さんのアテって、一条愛生? どうやって……って、神ってことバラしたんですか?」
すると刹那は、「バラすつもりはなかったがな」、と面倒くさそうにこぼす。刹那は、学生街で一条のレコードを聴いた時の歌声を覚えていたらしい。先に宴の幻を見た時、同じ声だと分かり、一条を探しに行ったのだという。
世をときめく歌姫が、背の高い黒づくめの女を引き連れ近づいてくる。屈強な体格から察するに、あちらも一条の用心棒だろうか。
「美味しそうな美少女……くぁわ良い……」
一条は恍惚とした様子で俺を見つめ、二つ結びの髪を握り締めていた。狂気を帯びた瞳に全身が固まる。
「愛生サマ、おびえてる」
黒洋装の女が一条を引き離してくれたおかげで、何とか息を吸うことができた。まさか、まさかとは思うが――。
「あなたも神様……?」
「ワタクシはこの麗しい女神に導かれし、ただの歌うたいですの。愛生で良くってよ、レディ」
劇場前を埋め尽くすポスターや雑誌に載っている彼女が、わざわざ幽霊屋敷に来てくれるとは。刹那に神力でも使ったのか、と耳打ちすると、「私にそんな力はない」と返ってきた。
「こちらの当主様には、生前お世話になりましたわ。今夜は忘れられない夜にしましょうね」
愛生の歌声と同時に、胸を震わせる音色が鳴り響いた。生歌唱は初めて聞くが、思考全部を奪われるほど壮大な歌声だ。やがて舞踏室に燭電灯が灯り、湯気立つ料理が並ぶ。
『さぁ咲様、刹那様、共に舞ってください』
加納の声が響くと、心の臓が大きく跳ねた。
「刹那さん……」
いつもと違う刹那に向き合うと、前もって考えていた緊張をほぐす言葉――「鬼にも衣装ですね」が出てこなくなる。沈黙が耳に刺さる。熱が頬に集まる。ひとまず手を差し出すと、刹那は歯を見せて笑った。次の瞬間、痛いほどに手を握られる。
「行くぞ」
「えっ!? ちょっ――」
刹那は一度も振り返らないまま、踊り場の真ん中まで人を引っ張っていった。そして俺の体を高く持ち上げると、踵を乱暴に踏み鳴らす。
「ちょっ、まっ、刹那さん! 練習と違うじゃないですか!」
音楽などお構いなしに、暴力神は人の体を振り回す。
「踊れば何だって良いんだろう? ならば『お行儀良く』はやめだ」
優雅な音楽よりも強く響く、刹那の豪快な笑い声。それにつられて思わず声が漏れた。
「これっ、とっても、楽しいです!」
「嗚呼、そうだ。もっと馬鹿みたいに笑え」
煌びやかな広間を遊泳する感覚に、目が回る。燭電灯に並ぶほど高く体を放られると、頭の中が混ぜこぜになる。
「罰だの何だの己に課す暇があるのならば、笑え!」
あぁ、目が眩む――。
受け止めようと腕を広げてくれる刹那に向けて、精いっぱい手を伸ばす。
「刹那さん、もっと高く飛ばしてください!」
「相分かった」
何度目かの跳躍になると、ようやく目が開けられるようになった。無数の踊る影が、中心にいる刹那を囲んでいるのが上空から見える。これらも付喪神の幻かと訊くと、刹那は首を横に振った。賑やかになった踊り場に合わせて、ピアノの演奏も盛り上がっていく。
「加納さん! ご主人は……」
振り返ったピアノの横には、燕尾服の老紳士が微笑んでいる。ひと目見た瞬間、頭とは別の場所で分からせられた。彼がこの屋敷の主、敷島だ――。
山高帽と髭の隙間から覗く生気のない眼が、じっと刹那を見つめている。
「刹那さん、ちょっと」
進み出て来た紳士に刹那の手を渡すと、紳士は熟練の足運びで刹那を導きだした。
渋々踊らされている刹那を眺めながら、加納が演奏中のピアノの側に戻る。するとピアノの上で待っていた八咫が、『おぅ、色男』と喧嘩を売ってきた。
「その手のからかいは地雷なので」
『中々お似合いだったぜ。あの猛獣が女に見えるくらいにはな』
お似合い――あまり悪い気はしなかった。会場の雰囲気で夢心地になっているせいだろうか。
「素敵なダンスでしたわ、レディ」
耳が溶けるような声に振り返ると、きらめく顔の女――一条愛生が、葡萄酒の杯を片手に近づいてきた。その後をついてくる能面のような女は、豪勢な料理が盛られた大皿を持っている。
「紹介がまだでしたわね。彼女は私のガード、ミス半夏(はんげ)。仲良くしてくださいな」
「……よろしく」
無口な人は嫌いではない。何より半夏は、最初に助け舟を出してくれた。自分も挨拶を返すと、半夏は切れ長の目をほんの少し細める。
「それにしても、レディ咲の志はご立派ですわ。主人の霊を鎮めるために、無人になってしまったココをもう一度華やかに彩りたいだなんて!」
刹那はそういう風に理由をつけたらしい。上手くいきそうで何よりだが、愛生に神であることをバラして本当に良かったのだろうか。
「驚かないんですか? 神が実際に存在するなんて」
「あら! 世の中目に見えていることだけが正しいとは限らないのよ」
人気者は視野が広いのか、豪胆なのか。愛生は妖しく微笑む。
「いいことレディ? 一条の光は人を楽しませるだけではなくて、『救い』をもたらすお役目もあるの。人を真に救えるのは神……ワタクシたちが神を信じないはずがないのよ。こうして直にお会いするまで、ずっと『神は御座す』と信じてきたの」
ふと、以前助六じいさんから聞いた話を思い出した。一条の光はただの歌劇団ではない。財団、そして宗教団体としての顔ももっていることを。
「もしあなたが罪を抱えているのなら……ワタクシたちと共に、救いの道を探してみない?」
罪、救い――愛生の慈み溢れる声に、頭が揺れる。やがて鼻先が触れるほど近い愛生の顔が離れていった。
「なーんて! 本意から救いを求めるその時は、アナタ自身の足でこちらにいらっしゃってね。それでは、そろそろお暇いたしますわ」
ぼうっとしていた頭が鮮明になっていく。まるで催眠が解けたかのような気分だ。愛生たちは楽団を撤収させ、素早い手際で出ていった。
「小僧」
「ご指名だ」、と刹那が親指で指す後方には、こちらに手を差し伸べる紳士の姿がある。
『やぁ、素敵なお嬢さん。一曲踊っていただけないかね?』
いまだに信じられないが、刹那は洋楽の演奏者を無事手配できたのだという。部屋の真ん中でポツンと待っていたピアノ――加納に報告すると、加納は「まだ一つ足りない」、とこぼした。
『すでに申し上げましたが、舞踏(ダンス)。これが無いことには、舞踏会は成り立ちません』
なんだそんなことか、と胸を撫でおろした。それならば身一つでどうにかなる。
「踊り手も幻影で何とかしろ」
『いいえ。あなた様方が誠意を見せなければ、主人がお姿を現すことはないでしょう』
帰る、と踵を返す刹那の腕にしがみつくも、そのまま出口まで引きずられてしまう。
「ちょっと刹那さん! ここまで来てそのくらいのこと……」
「そのくらい? 私に芸者の真似事をさせるつもりか?」
駄目だ。何を言っても聞き入れる気はないらしい。ならば――。
「刹那さん、見てください!」
父から教わった踊りを、うろ覚えのまま舞ってみた。伝統舞踊ではなく、洋式の踊りを。何とかそれっぽくできただろうか、とピアノの方を見る。
『ほぅ、これは見事でございます!』
一生踊ることはないと思っていたが、まさかこんなところで役に立つとは。
「このくらい私にもできるっていうのに、まさか刹那さんはできないって言うんですか?」
念押しの挑発に誘われてくれた刹那は、鬼の形相で戻って来た。やはり刹那は、強制されると動かない。
『お前、コイツの扱いが上手くなってきたねぇ』
「あっ、また余計なことを!」
刹那は「眠っていろ」、と八咫を胸の間に押し込み、こちらにずんずん迫ってくる。
「やってやるから、さっさと教えろ小僧」
こうして踊りの稽古がはじまった。最初は余裕で刹那に手を差し伸べていたものの……。
「刹那さん速いって! もっと優雅に――」
「やっている!」
踊りがぎこちない、というより、動きが速すぎてついていけない。加納が弾いてくれているピアノに合わせる気もないのか、足運びが滅茶苦茶だ。
「いだっ!」
「……悪い」
踏み、踏まれを繰り返すうちに、刹那はあっという間に俺を追い越していった。天性の勘を持っているのか、それとも神の学習能力は人の比ではないのか、上達が早い。
「ふぅ……そろそろ、休憩しませんか?」
「軟弱だ」、と文句を垂れる体力お化けを床に座らせ、自分もその隣に膝をつく。
「父親は役者だと聞いたが、西洋の踊りはどこで覚えた?」
「前に父が西洋の客から習ったと言って、見せてくれたんです」
人を軟弱と言っておきながら、刹那はこちらに背を向けて床に寝そべった。埃がつくと注意しても、起き上がろうとしない。
「父親と不仲なわけではないのだな」
別の話題を必死に探したが、浮かぶのは先日の平手打ちばかりだった。「責め苦が欲しいなら私がくれてやる」――刹那の言葉が頭から離れない。
『お二人とも、今お話しよろしいでしょうか?』
顔を上げると、人の姿をした加納と目が合った。縫製機(ミシン)の付喪神に頼んでいた衣装の手直しが終わったという。いつの間にそんなことをしていたのだろうか。
『是非こちらをお召しになって、舞踏会で踊っていただきたいのです』
先ほど磨いたピアノの上に、淡藤と桜色の洋装が一着ずつ並んでいる。何故二着あるのか問いかける前に、刹那が俺の前を遮った。
「こんなひらついた布を、私に着ろと言うのか?」
『ええもちろん! こちらは奥方様がお召しになられていたドレスでございます。何が何でもお召しになっていただかなければ』
舌打ちをしつつも、刹那は洋装を手に取った。即座に着物の帯を解き始めたため、さっと視線を逸らす。
『さぁ、咲さまも』
もう一着は、やはり俺用だった。しかしこれはいつもの変身と違い、体型が出る衣装だ。胸と尻の詰め物をどうしようか――。
『化粧箱に布切れがいくつか入ってたぜ』
八咫の言う通り、化粧箱にはちょうど良さそうな布があった。まったく色師は、どこまでお見通しなのだろうか。
加納の指示通りに洋装を纏い、舞踏室の壁にある巨大な鏡の前に立ってみた。が、日の本式の化粧がどうも浮いている。ランプを傍に置き、八咫を見ながら、ハイカラ風の化粧に挑戦してみることにした。
『お前、こういうところ拘るよなぁ』
桜色の布地に合わせて、流行りの薄紅で顔を塗る。
なるべく地肌の色を残すことがコツだと、いつだかの婦人雑誌に載っていた。
『それにしてもお前、よく色師のヤツに言うこときかせられるよな。色具の数を増やせだの、人間用の化粧品も用意しろだの』
それは薄々思っていたことだ。色師は逃亡以外、俺に何でも許すと言っている。確か最初に雇われた時も、色師の気まぐれに救われたのだったか――少し前のことを思い出すうちに、『主役を引き立てるハイカラ娘』が完成した。ここまでガラリと変身すると、最近味わっていなかった高揚を思い出す。
「……化けたな」
いつの間にか後ろで見学していた刹那に、たおやかな仕草でふっと笑った。
「もっと他の言い方ないんですか? 刹那さんも化粧変えます――」
いつもと違う服装のせいか。振り返った先の女をまじまじと見た瞬間、言葉が胸に詰まった。思った通り、淡藤色の布が刹那の黒髪に合っている。静かな色に対して、刹那の瞳がもつ強烈な赤が際立っていた。
「私はこれでいい。それより、背中の金具を上げろ」
後ろを向いた刹那の背中は、腰元まで肌がむき出しだった。頭の中がいつもとは違う色に満たされ、大きく脈打つ。
「どうした? 早くしろ」
きめの細かい肌に近づくと、勝手に指が震える。もし触れた時に、この不整脈が伝わってしまったらどうしよう。いつまでも固まっていると、刹那は「これでやりやすいか?」、と肩の上で切り揃えられた髪を上げてくれた。すると細く白いうなじに、何かの痕が――。
「これは……」
うなじに咲いている、赤い花に目が奪われる。
「あぁ? 閉め方が分からないのか?」
「いえ、そうではなくて」
紅花に似た形の、赤と黒が混ざり合った紋。これは何なのか。問いかけるも、刹那は不機嫌そうに唸るだけだった。
本当に知らないのだろうか。確かに、こんなところにあっては自分で確認することも難しい。じっと紋を観察するうちに、何だかこの形が以前から知っているような気がしてきた。既視感の正体が、浮かびそうで浮かばない。そんな時、激しい音と共に舞踏室の戸が全開になった。
やって来たのは派手な洋装を纏った楽団。その中心には、より派手な衣装を着こなす女が仁王立ちしている。
「お待たせいたしましたわ! 歌劇団『一条の光』よりやって参りました、当劇団ナンバーワン歌姫――一条愛生、ですの!」
袖を持ち上げて会釈する女は、あの薄桃と萌黄の混じる髪色にきらめく顔は――。
「あぁ、我らが主、刹那神よ! 忠実なる僕がやって参りましたわっ!」
刹那に向けて、不動の人気を誇る歌姫――一条愛生は深々と頭を垂れている。
「刹那さんのアテって、一条愛生? どうやって……って、神ってことバラしたんですか?」
すると刹那は、「バラすつもりはなかったがな」、と面倒くさそうにこぼす。刹那は、学生街で一条のレコードを聴いた時の歌声を覚えていたらしい。先に宴の幻を見た時、同じ声だと分かり、一条を探しに行ったのだという。
世をときめく歌姫が、背の高い黒づくめの女を引き連れ近づいてくる。屈強な体格から察するに、あちらも一条の用心棒だろうか。
「美味しそうな美少女……くぁわ良い……」
一条は恍惚とした様子で俺を見つめ、二つ結びの髪を握り締めていた。狂気を帯びた瞳に全身が固まる。
「愛生サマ、おびえてる」
黒洋装の女が一条を引き離してくれたおかげで、何とか息を吸うことができた。まさか、まさかとは思うが――。
「あなたも神様……?」
「ワタクシはこの麗しい女神に導かれし、ただの歌うたいですの。愛生で良くってよ、レディ」
劇場前を埋め尽くすポスターや雑誌に載っている彼女が、わざわざ幽霊屋敷に来てくれるとは。刹那に神力でも使ったのか、と耳打ちすると、「私にそんな力はない」と返ってきた。
「こちらの当主様には、生前お世話になりましたわ。今夜は忘れられない夜にしましょうね」
愛生の歌声と同時に、胸を震わせる音色が鳴り響いた。生歌唱は初めて聞くが、思考全部を奪われるほど壮大な歌声だ。やがて舞踏室に燭電灯が灯り、湯気立つ料理が並ぶ。
『さぁ咲様、刹那様、共に舞ってください』
加納の声が響くと、心の臓が大きく跳ねた。
「刹那さん……」
いつもと違う刹那に向き合うと、前もって考えていた緊張をほぐす言葉――「鬼にも衣装ですね」が出てこなくなる。沈黙が耳に刺さる。熱が頬に集まる。ひとまず手を差し出すと、刹那は歯を見せて笑った。次の瞬間、痛いほどに手を握られる。
「行くぞ」
「えっ!? ちょっ――」
刹那は一度も振り返らないまま、踊り場の真ん中まで人を引っ張っていった。そして俺の体を高く持ち上げると、踵を乱暴に踏み鳴らす。
「ちょっ、まっ、刹那さん! 練習と違うじゃないですか!」
音楽などお構いなしに、暴力神は人の体を振り回す。
「踊れば何だって良いんだろう? ならば『お行儀良く』はやめだ」
優雅な音楽よりも強く響く、刹那の豪快な笑い声。それにつられて思わず声が漏れた。
「これっ、とっても、楽しいです!」
「嗚呼、そうだ。もっと馬鹿みたいに笑え」
煌びやかな広間を遊泳する感覚に、目が回る。燭電灯に並ぶほど高く体を放られると、頭の中が混ぜこぜになる。
「罰だの何だの己に課す暇があるのならば、笑え!」
あぁ、目が眩む――。
受け止めようと腕を広げてくれる刹那に向けて、精いっぱい手を伸ばす。
「刹那さん、もっと高く飛ばしてください!」
「相分かった」
何度目かの跳躍になると、ようやく目が開けられるようになった。無数の踊る影が、中心にいる刹那を囲んでいるのが上空から見える。これらも付喪神の幻かと訊くと、刹那は首を横に振った。賑やかになった踊り場に合わせて、ピアノの演奏も盛り上がっていく。
「加納さん! ご主人は……」
振り返ったピアノの横には、燕尾服の老紳士が微笑んでいる。ひと目見た瞬間、頭とは別の場所で分からせられた。彼がこの屋敷の主、敷島だ――。
山高帽と髭の隙間から覗く生気のない眼が、じっと刹那を見つめている。
「刹那さん、ちょっと」
進み出て来た紳士に刹那の手を渡すと、紳士は熟練の足運びで刹那を導きだした。
渋々踊らされている刹那を眺めながら、加納が演奏中のピアノの側に戻る。するとピアノの上で待っていた八咫が、『おぅ、色男』と喧嘩を売ってきた。
「その手のからかいは地雷なので」
『中々お似合いだったぜ。あの猛獣が女に見えるくらいにはな』
お似合い――あまり悪い気はしなかった。会場の雰囲気で夢心地になっているせいだろうか。
「素敵なダンスでしたわ、レディ」
耳が溶けるような声に振り返ると、きらめく顔の女――一条愛生が、葡萄酒の杯を片手に近づいてきた。その後をついてくる能面のような女は、豪勢な料理が盛られた大皿を持っている。
「紹介がまだでしたわね。彼女は私のガード、ミス半夏(はんげ)。仲良くしてくださいな」
「……よろしく」
無口な人は嫌いではない。何より半夏は、最初に助け舟を出してくれた。自分も挨拶を返すと、半夏は切れ長の目をほんの少し細める。
「それにしても、レディ咲の志はご立派ですわ。主人の霊を鎮めるために、無人になってしまったココをもう一度華やかに彩りたいだなんて!」
刹那はそういう風に理由をつけたらしい。上手くいきそうで何よりだが、愛生に神であることをバラして本当に良かったのだろうか。
「驚かないんですか? 神が実際に存在するなんて」
「あら! 世の中目に見えていることだけが正しいとは限らないのよ」
人気者は視野が広いのか、豪胆なのか。愛生は妖しく微笑む。
「いいことレディ? 一条の光は人を楽しませるだけではなくて、『救い』をもたらすお役目もあるの。人を真に救えるのは神……ワタクシたちが神を信じないはずがないのよ。こうして直にお会いするまで、ずっと『神は御座す』と信じてきたの」
ふと、以前助六じいさんから聞いた話を思い出した。一条の光はただの歌劇団ではない。財団、そして宗教団体としての顔ももっていることを。
「もしあなたが罪を抱えているのなら……ワタクシたちと共に、救いの道を探してみない?」
罪、救い――愛生の慈み溢れる声に、頭が揺れる。やがて鼻先が触れるほど近い愛生の顔が離れていった。
「なーんて! 本意から救いを求めるその時は、アナタ自身の足でこちらにいらっしゃってね。それでは、そろそろお暇いたしますわ」
ぼうっとしていた頭が鮮明になっていく。まるで催眠が解けたかのような気分だ。愛生たちは楽団を撤収させ、素早い手際で出ていった。
「小僧」
「ご指名だ」、と刹那が親指で指す後方には、こちらに手を差し伸べる紳士の姿がある。
『やぁ、素敵なお嬢さん。一曲踊っていただけないかね?』
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