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第二章 盲狐の嫁入り
四
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『まっこと雪見は食いしん坊だなぁ。ほら、私のもお食べなさい』
『失礼ですね! 食いしん坊は否めませんが……お団子は半分こしましょう』
確かに男は女を雪見と呼んだ。そして女の顔は間違いなく、神粧の儀で人になった雪見と同じ。雪見を神粧する途中、頭の中に浮かんできた顔だ。
女は雪見だとして、男の方は、どう見ても本橋屋とは別人だが――。
目の前で起こる妙な光景に首を傾げていると、団子を頬張る雪見の手を男が握った。
『雪見、先日告げたあのこと、真剣に考えてくれたかい?』
女は咀嚼を止め、団子を一息で飲み込んだ。幸せに満ちていた顔が色を失っていく。
『私は人ならざる身……何方かに嫁ぐことはできぬと、最初に申し上げたでしょう? それを承知で、こうして時々逢うだけで良いと仰ったのは貴方です』
ぎこちない微笑みと共に肩を落とす男に、雪見は唇を歪める。しかしそれも一瞬で、次に男が顔を上げた時にはまた、朗らかな笑みを浮かべていた。
『××様。もし私がこの先、神としてのお役目を解かれ、人として生を受けることがあれば……必ず貴方と添い遂げると誓います。例え貴方がどうなろうと、契りを違えることはありません。ですからどうか……』
「信じて」、と雪見は男の目を真っ直ぐに見た。男がどのような顔をして、何と答えたのかは分からない。答えの直前、また何もかもが目の前から消え失せてしまったのだ。
五感全てが取り戻された時には、体と意識は元の板間にあった。目の前には化粧が終わるのを待つ狐の顔がある。
「今のは……」
誰でも良い。今起こったことは一体何だったのか、尋ねなければ気が済まない。
「咲。しーっ、ですよ」
冷気を帯びた吐息に首が固まる。やっとのことで振り向いた先にいたのは、唇に一本指を押し当てた雪見だった。
雪見の婚礼がつつがなく終わった後も、落ち着く暇はなかった。
「いっやーお疲れ様!」
獣の神について報告に来るよう、色師に彩色座敷へ呼び出されたのだ。呼び出されたはず、なのだが……。
「何なんですか、これ」
赤、黒、黄、青――色塗れの座敷は、別の色に染まっていた。
「何って曖昧な問いかけだねぇ。言うなれば――快楽?」
衣を脱ぎ捨てた男女が、箪笥の上の色師に纏わりついている。肌の鱗や頭の角を見る限り、みんな人ではないのだろう。刹那は慣れているのか、いつもの不機嫌顔で色師を睨んでいる。
「そんなに見つめちゃって、刹那も混ざりたいのかなー?」
「色」の一文字を掲げる白布の奥で、色師がニヤリと笑った気がした。
「あぁ、良いだろう」
「え!」、と目鼻を置き去りにする勢いで振り向くと、紅を引いた唇が歪に笑んでいた。
「貴様の体を朝餉として喰らっても構わないならば、喜んで混ざろう」
赤い光を放つ目が本気だと言っている。それでも色師は腹を抱えて笑っていた。
「そういう遊戯(プレイ)はちょっと範囲外。ごめんネ」
あまりに暴れるので、着物の合わせがはだけている。
「おっと、これは失礼」
失礼も何も、隠すものなどないではないか。そう言いかけて息を吞んだ。
色師の胸にわずかな膨らみがある。
「色師さん、女だったんですか?」
誰かについ最近言われた言葉を繰り返すと、色師はぴたりと動きを止めた。
「性別ねぇ。人の営みには重要な分類だけれども、アタシにとっては縁遠いことさ」
初めて会った時、自然と色師を男だと認識した。それはあの大柄な体のせいかもしれない、とも思ったが、大人の男と女を間違えるだろうか。
「おい、遊んでいないで本題に入れ」
「はいはい、キミって本当にせっかちだよネ」
まだ首を捻っていると、刷りたての半紙が一枚降ってきた。
「それ、キミの働きが反映された後の瓦版さ」
新しい瓦版には、大社で幸せそうに微笑む花嫁、祝福する巫女たちの明るい将来、そんな当たり前のことが描かれていると思っていた。しかし。そこにあったのは、敷地の隅に追いやられた社、居場所を失った巫女たち。そして、帰らぬ夫を待つ雪見の後ろ姿――。
「喰い殺されなくて良かったねー。アタシもひと安心だよ」
「これは、どういうことですか……?」
赤く染まる視界を振り切り、呑気に笑っている色師を見上げる。
雪見、つまり女化大社の神主と縁戚を結んだ本橋屋は、実質自分らのものとなった大社の土地を均した。奴はそこに、自分が取り仕切る楼閣を建てたのだ。そう、色師は淡々と語った。
「いずれ本橋屋の本店は雪見が女将になって、新しい楼閣は本橋屋の愛人が仕切るらしいねぇ」
あの一途さは演技だったのか――?
狐落としの後、本橋屋の見せた涙がよみがえる。
「いやー良かった! 雪見が人として生きていくのに不自由なさそうだからね。本橋屋は財力あるし、当分は経営も順調だって視えて――」
「良くない」
幸福に満ちた雪見の表情を思い起すと、呼吸が乱れる。それでも胸いっぱいに息を吸い、色に耽る神を見上げた。
「こんなの、ひとつも良くない!」
一刻も早くここから離れたい。そう思った瞬間、座敷を飛び出していた。
間違いだったのだ。本橋屋を信じたことも、自分が良かれと思ってやったことも、全部――!
階段を駆け下り、玄関が見えてきたところで何者かに襟首を掴まれた。そのまま凄まじい力に引き寄せられ、降りたばかりの階段を逆走していく。
「盗人小僧、どこへ行くつもりだ?」
放り出されたのは、昨晩雪見の神粧を行った座敷だった。震える膝を両手で押さえ、背後に立つ女を振り返る。
「雪見さんに伝えないと……」
「その雪見から貴様にだ」
息が苦しくなるほどの威圧と共に、刹那は無数の紙をばら撒いた。座敷を舞うのは、古い政治家の肖像が描かれた紙切れ――紙銭だ。
「先の仕事に対する礼だと、帰り際に渡された。それとこれもだ」
銭が舞う中、刹那は封筒を突きつけてきた。中には文が一枚丁寧に折り畳まれている。繊細な字で綴られていたのは、神粧の儀とお色直しへの感謝。そしてあの時、雪見が語らなかったことだった。
『神は不変を好みますが、人は移ろいゆくもの。いずれ古い社はお役御免となるでしょう。だからこそ、故郷の地を人に託したのです』
雪見は分かっていたのだ。大社の土地を本橋屋が欲していたことを。
『貴方が儀を通して見たものは、遥か遠くの記憶。幸いにも、あの時契った魂と巡り合うことができたのです。それが本橋屋の若旦那様でした』
だからといって、あの時見た男と本橋屋はまったくの別人ではないか――。
『きっと貴方は、前世の彼と今生の彼は別人だと仰るでしょう。それでも私は、彼の者との契りを果たしたかったのです』
同封の金は、元遣い狐――巫女たちが新たな仕事に就く際得た前金だと、刹那は淡々と語る。
「新しい仕事って……」
「狐共は本橋屋で働くことになった。前金ということは、芸妓にでもなったのだろう」
些細な事、とでも言いたげな刹那を前に呼吸が止まった。
「盗人までして銭を得ていたというのに、一体どうした?」
「こんなのいらない……人を売った銭なんているもんか!」
刹那の周りの空気が震えだす。気がつけば胸ぐらを掴まれ、喉笛に細い指が食い込んでいた。
「銭は銭だ! 貴様が盗みで得たものも、狐共が身を売って稼いだものも、全部銭に代わりはない。綺麗事をぬかせる身の程か?」
遣い狐に神粧の儀をしたのは自分。六神ではなかった狐たちに神粧をする必要は、本来なかったというのに。
「俺はいつも間違えてばかりだ……」
刹那の人を射殺そうとする目にも、喉を締め付ける指にも、何も感じなくなってきた。ただ、胸の中心が重い。容赦のない赤が、頭を侵食する。
「チッ……ウジ虫が」
暴力神は人を畳へ投げ捨てようとして、なぜか手を止めた。
「どうしたんですか? 早く突き飛ばしてくださいよ」
昨晩、色塗れの座敷でそうしたみたいに。咳混じりに続けると、乱暴な手が離れていった。
「別に、貴様を痛めつけに来たわけではない」
突然矛を収めた暴力神は、こちらに背を向けたまま座敷に腰を落とす。
「……どうすれば、人を傷つけずに接することができる?」
神妙な声色に、熱が昇っていた頭が冷めていく。
この神にも理性があったのか――。
それでも、これまでの仕打ちを忘れたわけではない。「殴るのではなく撫でれば?」と冗談めいてみた。すると刹那は、「分かった」、とこちらに右手を伸ばしてくる。
「ちょっ、待って! 今はしなくていいです」
素直だ。昼間の使い狐の時は、あんなに反発してきたくせに。そう胸のうちで悪態をついた途端、すとんと腑に落ちた。
この神は、俺を痛めつけに来たわけではない、と確かに言った。つまりそれは――。
「もしかして、慰めに来てくれたとか」
期待と恐怖混じりに呟くと、刹那は眉根を寄せて奥歯を噛み締めた。不機嫌そうに見えるが、否定はしない。にやけそうになる口元を袖で隠していると、燃え盛る目が真っ直ぐにこちらを見つめてくる。
「人と接するのは、貴様が初めてだ。故に分からん」
出会ってまだわずかだが、この神が富士よりも高い矜持を抱えていることは分かっている。それが俺に、胸のうちを少し明かしてくれた。
共に仕事をするものとして、寄り添おうとしている――そう捉えて良いのだろうか。
「分からないなら、俺が人のことを教えますよ。だからっていうのもアレですが……盗みのこと、許していただけないでしょうか?」
深く頭を下げると、呆れ混じりのため息が頭上に降ってくる。「遅すぎる」、とそっぽを向きつつも、最後には謝罪を受け入れてくれた。
「これからよろしくお願いします、刹那さん」
差し出した手を取りはしなかったが、刹那は小さく頷いた。初めて見る、少し照れたような微笑みと共に。
『失礼ですね! 食いしん坊は否めませんが……お団子は半分こしましょう』
確かに男は女を雪見と呼んだ。そして女の顔は間違いなく、神粧の儀で人になった雪見と同じ。雪見を神粧する途中、頭の中に浮かんできた顔だ。
女は雪見だとして、男の方は、どう見ても本橋屋とは別人だが――。
目の前で起こる妙な光景に首を傾げていると、団子を頬張る雪見の手を男が握った。
『雪見、先日告げたあのこと、真剣に考えてくれたかい?』
女は咀嚼を止め、団子を一息で飲み込んだ。幸せに満ちていた顔が色を失っていく。
『私は人ならざる身……何方かに嫁ぐことはできぬと、最初に申し上げたでしょう? それを承知で、こうして時々逢うだけで良いと仰ったのは貴方です』
ぎこちない微笑みと共に肩を落とす男に、雪見は唇を歪める。しかしそれも一瞬で、次に男が顔を上げた時にはまた、朗らかな笑みを浮かべていた。
『××様。もし私がこの先、神としてのお役目を解かれ、人として生を受けることがあれば……必ず貴方と添い遂げると誓います。例え貴方がどうなろうと、契りを違えることはありません。ですからどうか……』
「信じて」、と雪見は男の目を真っ直ぐに見た。男がどのような顔をして、何と答えたのかは分からない。答えの直前、また何もかもが目の前から消え失せてしまったのだ。
五感全てが取り戻された時には、体と意識は元の板間にあった。目の前には化粧が終わるのを待つ狐の顔がある。
「今のは……」
誰でも良い。今起こったことは一体何だったのか、尋ねなければ気が済まない。
「咲。しーっ、ですよ」
冷気を帯びた吐息に首が固まる。やっとのことで振り向いた先にいたのは、唇に一本指を押し当てた雪見だった。
雪見の婚礼がつつがなく終わった後も、落ち着く暇はなかった。
「いっやーお疲れ様!」
獣の神について報告に来るよう、色師に彩色座敷へ呼び出されたのだ。呼び出されたはず、なのだが……。
「何なんですか、これ」
赤、黒、黄、青――色塗れの座敷は、別の色に染まっていた。
「何って曖昧な問いかけだねぇ。言うなれば――快楽?」
衣を脱ぎ捨てた男女が、箪笥の上の色師に纏わりついている。肌の鱗や頭の角を見る限り、みんな人ではないのだろう。刹那は慣れているのか、いつもの不機嫌顔で色師を睨んでいる。
「そんなに見つめちゃって、刹那も混ざりたいのかなー?」
「色」の一文字を掲げる白布の奥で、色師がニヤリと笑った気がした。
「あぁ、良いだろう」
「え!」、と目鼻を置き去りにする勢いで振り向くと、紅を引いた唇が歪に笑んでいた。
「貴様の体を朝餉として喰らっても構わないならば、喜んで混ざろう」
赤い光を放つ目が本気だと言っている。それでも色師は腹を抱えて笑っていた。
「そういう遊戯(プレイ)はちょっと範囲外。ごめんネ」
あまりに暴れるので、着物の合わせがはだけている。
「おっと、これは失礼」
失礼も何も、隠すものなどないではないか。そう言いかけて息を吞んだ。
色師の胸にわずかな膨らみがある。
「色師さん、女だったんですか?」
誰かについ最近言われた言葉を繰り返すと、色師はぴたりと動きを止めた。
「性別ねぇ。人の営みには重要な分類だけれども、アタシにとっては縁遠いことさ」
初めて会った時、自然と色師を男だと認識した。それはあの大柄な体のせいかもしれない、とも思ったが、大人の男と女を間違えるだろうか。
「おい、遊んでいないで本題に入れ」
「はいはい、キミって本当にせっかちだよネ」
まだ首を捻っていると、刷りたての半紙が一枚降ってきた。
「それ、キミの働きが反映された後の瓦版さ」
新しい瓦版には、大社で幸せそうに微笑む花嫁、祝福する巫女たちの明るい将来、そんな当たり前のことが描かれていると思っていた。しかし。そこにあったのは、敷地の隅に追いやられた社、居場所を失った巫女たち。そして、帰らぬ夫を待つ雪見の後ろ姿――。
「喰い殺されなくて良かったねー。アタシもひと安心だよ」
「これは、どういうことですか……?」
赤く染まる視界を振り切り、呑気に笑っている色師を見上げる。
雪見、つまり女化大社の神主と縁戚を結んだ本橋屋は、実質自分らのものとなった大社の土地を均した。奴はそこに、自分が取り仕切る楼閣を建てたのだ。そう、色師は淡々と語った。
「いずれ本橋屋の本店は雪見が女将になって、新しい楼閣は本橋屋の愛人が仕切るらしいねぇ」
あの一途さは演技だったのか――?
狐落としの後、本橋屋の見せた涙がよみがえる。
「いやー良かった! 雪見が人として生きていくのに不自由なさそうだからね。本橋屋は財力あるし、当分は経営も順調だって視えて――」
「良くない」
幸福に満ちた雪見の表情を思い起すと、呼吸が乱れる。それでも胸いっぱいに息を吸い、色に耽る神を見上げた。
「こんなの、ひとつも良くない!」
一刻も早くここから離れたい。そう思った瞬間、座敷を飛び出していた。
間違いだったのだ。本橋屋を信じたことも、自分が良かれと思ってやったことも、全部――!
階段を駆け下り、玄関が見えてきたところで何者かに襟首を掴まれた。そのまま凄まじい力に引き寄せられ、降りたばかりの階段を逆走していく。
「盗人小僧、どこへ行くつもりだ?」
放り出されたのは、昨晩雪見の神粧を行った座敷だった。震える膝を両手で押さえ、背後に立つ女を振り返る。
「雪見さんに伝えないと……」
「その雪見から貴様にだ」
息が苦しくなるほどの威圧と共に、刹那は無数の紙をばら撒いた。座敷を舞うのは、古い政治家の肖像が描かれた紙切れ――紙銭だ。
「先の仕事に対する礼だと、帰り際に渡された。それとこれもだ」
銭が舞う中、刹那は封筒を突きつけてきた。中には文が一枚丁寧に折り畳まれている。繊細な字で綴られていたのは、神粧の儀とお色直しへの感謝。そしてあの時、雪見が語らなかったことだった。
『神は不変を好みますが、人は移ろいゆくもの。いずれ古い社はお役御免となるでしょう。だからこそ、故郷の地を人に託したのです』
雪見は分かっていたのだ。大社の土地を本橋屋が欲していたことを。
『貴方が儀を通して見たものは、遥か遠くの記憶。幸いにも、あの時契った魂と巡り合うことができたのです。それが本橋屋の若旦那様でした』
だからといって、あの時見た男と本橋屋はまったくの別人ではないか――。
『きっと貴方は、前世の彼と今生の彼は別人だと仰るでしょう。それでも私は、彼の者との契りを果たしたかったのです』
同封の金は、元遣い狐――巫女たちが新たな仕事に就く際得た前金だと、刹那は淡々と語る。
「新しい仕事って……」
「狐共は本橋屋で働くことになった。前金ということは、芸妓にでもなったのだろう」
些細な事、とでも言いたげな刹那を前に呼吸が止まった。
「盗人までして銭を得ていたというのに、一体どうした?」
「こんなのいらない……人を売った銭なんているもんか!」
刹那の周りの空気が震えだす。気がつけば胸ぐらを掴まれ、喉笛に細い指が食い込んでいた。
「銭は銭だ! 貴様が盗みで得たものも、狐共が身を売って稼いだものも、全部銭に代わりはない。綺麗事をぬかせる身の程か?」
遣い狐に神粧の儀をしたのは自分。六神ではなかった狐たちに神粧をする必要は、本来なかったというのに。
「俺はいつも間違えてばかりだ……」
刹那の人を射殺そうとする目にも、喉を締め付ける指にも、何も感じなくなってきた。ただ、胸の中心が重い。容赦のない赤が、頭を侵食する。
「チッ……ウジ虫が」
暴力神は人を畳へ投げ捨てようとして、なぜか手を止めた。
「どうしたんですか? 早く突き飛ばしてくださいよ」
昨晩、色塗れの座敷でそうしたみたいに。咳混じりに続けると、乱暴な手が離れていった。
「別に、貴様を痛めつけに来たわけではない」
突然矛を収めた暴力神は、こちらに背を向けたまま座敷に腰を落とす。
「……どうすれば、人を傷つけずに接することができる?」
神妙な声色に、熱が昇っていた頭が冷めていく。
この神にも理性があったのか――。
それでも、これまでの仕打ちを忘れたわけではない。「殴るのではなく撫でれば?」と冗談めいてみた。すると刹那は、「分かった」、とこちらに右手を伸ばしてくる。
「ちょっ、待って! 今はしなくていいです」
素直だ。昼間の使い狐の時は、あんなに反発してきたくせに。そう胸のうちで悪態をついた途端、すとんと腑に落ちた。
この神は、俺を痛めつけに来たわけではない、と確かに言った。つまりそれは――。
「もしかして、慰めに来てくれたとか」
期待と恐怖混じりに呟くと、刹那は眉根を寄せて奥歯を噛み締めた。不機嫌そうに見えるが、否定はしない。にやけそうになる口元を袖で隠していると、燃え盛る目が真っ直ぐにこちらを見つめてくる。
「人と接するのは、貴様が初めてだ。故に分からん」
出会ってまだわずかだが、この神が富士よりも高い矜持を抱えていることは分かっている。それが俺に、胸のうちを少し明かしてくれた。
共に仕事をするものとして、寄り添おうとしている――そう捉えて良いのだろうか。
「分からないなら、俺が人のことを教えますよ。だからっていうのもアレですが……盗みのこと、許していただけないでしょうか?」
深く頭を下げると、呆れ混じりのため息が頭上に降ってくる。「遅すぎる」、とそっぽを向きつつも、最後には謝罪を受け入れてくれた。
「これからよろしくお願いします、刹那さん」
差し出した手を取りはしなかったが、刹那は小さく頷いた。初めて見る、少し照れたような微笑みと共に。
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