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おかえり
しおりを挟むサネカズラの実は食べられる。
ネットで得たその情報を信じ、幼なじみであり婚約者でもある彼女がくれた種を鉢に植えた。
植物が育つのに必要なものは三つ。水、空気、そして光。
「『肥料は腐葉土が適している』、ほうほう」
SEとして今の会社に就職して以来、ひたすらディスプレイと向き合いキーボードを叩いてきた。土に触れるのはいつぶりだろう。
ひんやりした感触の土を少しだけ掘り起こし、種のそばに特別な肥料を埋めた。再び元通りにならせば完了だ。
早速鉢を写真に収め、リアルな友達だけで構成されたSNSのグループページに投稿した。日曜だからか、普段はあまり反応のないメンバーからもコメントが送られてくる。
「寿弥!」
突然の呼びかけにドアを振り返ると、母が妙にご機嫌な様子で立っていた。
「母ちゃんさぁ、そろそろノックするってこと覚えたらどう?」
「水紀ちゃんがお野菜持って来てくれたの。毎日様子見に来てくれてるんだし、顔見せてあげたら?」
水紀、と聞いて心臓が軋むような音を立てた。
「いや、今忙しいんだよね。ごめんって伝えて」
「アンタもしかして、光ちゃんと水紀ちゃんが似てるから――」
急に声の調子を落とした母が続きを口にする前に、その小さな背中を部屋の外へ押しやった。
水紀の姉、そして俺の婚約者である光。彼女の葬式以来、水紀とは顔を合わせていない。
一人きりになったところで、コップよりもひと回り大きい鉢を抱き寄せる。そのまま出窓に腰掛け、先ほどから何度も鳴いている携帯電話を確認した。
「『アニマルセラピーの植物版みたいな感じでしょうか?』。そ、う、か、も、っと」
写真へのコメントに返信している間にも、次々と通知が届く。『反応あって安心した』、『心の傷はすぐに癒えないもの。焦らないで』。
その中に、見知らぬアイコンからのメッセージがあった。
『特別な肥料って何ですか?』
「……何でそんなことが気になるんだろう」
知り合いのみのグループページに突然現れた、謎の人物「サバにゃん」さん。どうやら写真に付けた育成日記の文を丁寧に読んでくれたらしい。
『森の腐葉よりもずっと栄養分が高い特別な肥料のことですよ』、と返すも、それきり返信はなかった。
芽が出てすらいない鉢の写真を投稿してから、ちょうど一か月が経った。
天気の良い日は春風に当ててみたり、部屋に湿度計を置いてみたりしたが、サネカズラの芽はまだ出ない。本当ならば年中窓辺に張りついて、いつか赤い実がなるまで観察していたいところだが。社会に生きている以上、そういうわけにもいかない。
「寂しくさせて悪いけど、しっかり稼いでくるからね」
鉢を抱きしめてから、仕方なくデスクまで戻った。テレワークのおかげで、仕事中も鉢と同じ空間にいられることがまだ救いだ。
時々左手の指輪を触りながら仕事をやっつけ、それ以外の時間は鉢と寝食を共にする。そんな生活が一か月続いたある朝。
「あっ!」
鉢の中心に鮮やかな緑の葉が一枚、土を持ち上げて伸びていた。
「やっと、やっとだね……良かった」
枕元に置いていた鉢を窓辺に移し、すぐさま携帯電話を手に取った。
可愛らしさと美しさが同居する芽をしっかり写真に収め、グループページに投稿する。すると、一分も経たないうちに通知が鳴り出した。『おめでとう。大切に育てたかいあったね』、『そろそろ飲み行こうぜ寿弥』。
やけに反応が早いと思ったが、そういえば今日は日曜日だ。コメントをくれる友人たちに返信していると、新着メッセージが画面上に表示された。
『鉢植えに銀色のモノが埋まっていますね』
この三毛猫イラストのアイコンは、またあの人だ。
知り合いのみのグループページに突然現れた、謎の人物「サバにゃん」さん。彼もしくは彼女は、鉢の様子について投稿すると決まってメッセージを送ってくる。
指摘の通り鉢を確認してみると、生まれたての葉が銀の輪っかを土の中から押し上げていた。元気に育ってくれてほっとする半面、確認もせず写真を投稿してしまった後悔に頭が締めつけられる。
サバにゃんさんに何と返そうか。
「これは飾りですよ、と」
数秒もしないうちに、『飾りって何ですか?』と返信が来た。
もう無視するしかない。
携帯電話の画面をベッドに伏せ、窓辺で誇らしく咲く葉の横に腰を落とす。柔らかい朝日に輝くサネカズラを眺めていると、くぐもった通知音が響いた。
まさかと思いつつ画面を確認すると、そのまさかだった。サバにゃんさんだ。
『左手の薬指』
その一言を目にした瞬間、足元に深い穴が開いたような気がした。終わりのない落下が始まり、空っぽの腹が何かを吐き出そうとする感覚が襲い掛かってくる。
つま先が地に着くのを待たず、彼もしくは彼女は一方通行のメッセージを送りつけてきた。
『これから×××で待っています。必ず鉢を持ってきてください』
一見意味の分からないこのメッセージを、無視することができなかった。
鉢の秘密を知っているのは、俺だけのはずなのに。
もし他に知っている人物がいるとしたら、アイツくらいしか――。
ぐちゃぐちゃの頭に「きっと大丈夫」と言い聞かせながら、窓辺の鉢を抱えて部屋を出て行った。
待ち合わせ場所で、サバにゃんさんは墓石に線香を供えているところだった。
こちらに気づいていないのか、手を合わせて目を閉じたままでいる。
「……遅い」
サバにゃんさん――水紀はこちらを振り返ると、今まで見たこともない視線を向けてきた。光とよく似た形の目は、俺の左手を時々確認しているようだった。
「水紀、今日高校は――」
「今日は日曜。そんなことより、それ、返せ」
水紀が指したのは、俺の抱える鉢だった。厳しい追及の目から鉢を背に隠すと、水紀の薄い唇が歪んだ。
「ウチ知ってるんだ。その中に『お姉ちゃん』が埋まってるんだろ」
道中ずっと笑顔を崩さないよう、練習してきたつもりだった。それが呆気なく崩壊する。
「光はこの墓の下に眠ってるって、水紀も知ってるでしょ? 二か月前、一緒に納骨したんだから」
「じゃあその鉢、今ここで掘り出してみろよ!」
大丈夫。ばれるはずがない。
二か月間唱えてきた根拠のない自信は、水紀の怒号に打ち砕かれた。
「遺体の一部を盗むのは、『死体損壊遺棄罪』ってのになる。ネットじゃなくて本で調べたんだから、間違いない。それ、掘り返せないっていうなら、寿弥がやったことみんなにバラす」
カマかけではない。妄言でもない。確信のこもった水紀の強い眼光に、言葉が全く出てこなくなった。
勝手に震える腕で鉢を抱きしめ、行き場のない視線を乾いた地面に向ける。
「バラされたくないなら話せ。寿弥が葬式の前の夜にやったこと。ちゃんとお前の口から、ウチに」
話しても話さなくても、この鉢と――光と引き離される。
水紀は「逃さない」というかのように、じっとこちらを注視していた。
「水紀の言うとおりだよ。ここに、光が埋まってる」
水紀の荒々しい呼吸に耳を澄ませながら、思い出したくもない記憶を強引に引っ張り出した。
二か月前。突然「光が事故に遭った。車にはねられ即死だった」、などと言われて、受け入れられるはずもない。それでも俺の頭が事実を受け入れる間もなく、通夜が行われ、最後の夜がやってきた。深夜の葬儀場で、婚約者の俺に気を遣ってくれた光の両親が二人きりにしてくれたのだ。
その少しの間に、指輪が輝く光の左手をそっと持ち上げた。硬くなった冷たい薬指を指輪ごと切り取り、左手は白い棺桶を彩る花の海に沈めたのだ。火葬の後、銀の指輪が燃え残っていなくても、誰も気づかなかったのに。
「水紀も、あの時席を外してくれたはずだよね」
「見てた。お前がお姉ちゃんの指を切ってたの。あれからネットでお前の様子見てたけど……お姉ちゃんの指を鉢に埋めて、どうするつもり?」
水紀の指摘通り、光の薬指にサネカズラの種を入れて鉢に埋めた。そうして実がなるまで育てようとしたのだ。大切に、大切に。
「寿弥。お姉ちゃんと指輪、返して。そうすれば盗んだことは黙ってる」
こんなことを知られたら、母はどう思うだろうか。水紀たちの両親は、俺を罰当たりと責めるだろうか。水紀の言う何とか罪で検挙されれば、会社は確実にクビになる。
それでも――。
「ごめん、できない」
二か月前の葬儀の日ですら枯れていた涙が、音もなく溢れ出した。それも七つも年下の、妹分の前で。
どんなに情けなくとも、周りを失おうとも構わない。光がいなくなるより、ずっと良い。
「寿弥……」
砂利に膝をつき、鉢に縋って動けなくなった俺を、水紀はしばらく放っておいてくれた。
やがてそっと顔を上げると、ずっと固いままだった水紀の目がかすかに潤んでいた。
「やっぱり返さなくていい」
「え……?」
「その木、二人で育てよう」
水紀の柔らかい声が、何度も頭の中を巡る。そのうちに水紀は俺の手を引いて、段々の坂になっている墓地の階段を駆け上がっていった。
墓石のひしめき合う丘のてっぺんには、町を見下ろすクスノキが一本そびえている。水紀はこの巨木の傍らに、光のサネカズラを植えようというのだ。
「どうして許してくれるのか」、と土を掘る水紀を振り返ると、水紀は真っすぐにこちらを見て微笑んだだけだった。
「赤い実がなったら、お姉ちゃんに『おかえり』って言うんだ。それまでこのことは、二人だけの秘密。いい?」
サネカズラが赤い実を結ぶ季節になれば、水紀が許してくれた理由が分かるだろうか。
終
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