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7章 峡谷の異変
93 亜陸候サルタン閣下
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緊張でひっくり返った声、やせた小柄な若い男。
あちこちにいそがしく視線がゆれて、そのためにひどく神経質そうに見える。
この男もフード付きの上衣姿だ。そしてさらにその上に長いマントをつけていた。
フード付きの上衣とおなじ布に金糸で精巧な模様を刺しゅうしたマントだ。
どうして刺しゅうの柄が見えるかというと、そのマントの裾を二人の従卒がうやうやしく持って広げているためだった。だがそのような天流衆たちの敬意をあらわず態度は、残念ながらおごそかな雰囲気を生んだとはいいづらい。
その逆だ。
おおぜいの敬意を受けとるはずの、マントをつけた人物の緊張した、緊張しすぎた、はっきりいうとおびえた気配のために、むしろみんなで大がかりな芝居を演じているみたいな違和感がうまれた。
その芝居もシリアスな演劇じゃなくて――コントだ。
解はマントを長く引いた若い男をじっと見た。
(この人が亜陸候って人か。)
亜陸候サルタン閣下はピリピリした様子で声をはりあげた。
「余をわざわざここへ呼びだした黒の亜陸の意裁官! 彼はどこだ!」
「サルタン閣下、あちらに。」
一人の男が亜陸候のすぐ背後まで近づいた。
解は(あっ。)と思った。
ベルハス意裁官だ。やぎひげの意裁官は解をちらっと見た。
解は(うわっ。)と思った。だが隠れようにも空中では隠れる場所がないし、それにタンのせいで解は悪目立ちしていた。
やぎひげの意裁官は一瞬だけ目元をゆがめるようにして動かしたが、解に対して示したのはそれだけだった。
ベルハス意裁官は亜陸候の注意を引くように、巨大な雑夙の群れの方角に向けて指さしてみせた。
巨大な雑夙はいつの間にか三川の合流するすぐそばまで近づいてきていた。
アシファット族もクリアドル族も、それにクリアドル族が連れてきたたくさんのカラジョルも、巨大な雑夙の群れを避けて彼らの手が届くより上を飛んでいる。
中空が亜陸兵と放牧民で埋まり、日ざしをさえぎって空が少しばかり暗く見える。
そして巨大な雑夙の群れの頭上に、一人の男の姿があった。
カク・シだ。
その周辺に人の姿はない。カク・シは一人きりだ。
そして一人きりであるにも関わらず、その姿は、まるで彼のそばで大勢の人間がひれ伏しているかのような威圧感があった。
カク・シの声が響きわたった。
「ようこそ、青の亜陸候閣下。わざわざのご足労、痛みいりますぞ。」
一瞬、解はすぐそばでわめいているタンの、サイレンのような声を忘れた。
「お、おお、来たぞ、来たとも。」
亜陸候サルタン閣下がカク・シにこたえた。
だれが聞いても二人の声のうちどちらに落ちつきがあるか、まちがえようがない。
カク・シの声はあいかわらず舞台の上の役者のようだったが、もし役者だとしても若い亜陸候とでは貫禄がまったくちがった。
空気が変わった――コントから大劇場のオペラへ。
解はごくりと唾をのんだ。
(あのでかいのがなんのために動いたかわかった。カク・シの命令に従って動いたんだ。)
巨大な雑夙のすべてをカク・シが従えている。
そのカク・シはゆっくりとサシブ川を指で示して見せた。
「聡明なサルタン閣下のことゆえ、とっくにお気づきであろう。サシブ川の流れがいまどうなっているかを。」
「う、うむ。もちろんだ。今朝になって川の流れがずいぶん減ったぞ。」
「それはここに控えた者たちの働きによるもの。こやつらはよく働きますぞ、閣下。あと少し働けばサシブ川の流れを完全に止めることもできる。」
カク・シの朗々とした声が響いた。
亜陸候サルタン閣下はとりつくろった表情のままだ。
どうも、カク・シの言葉がなにを指すのか、すぐには理解できなかったらしい。
だが亜陸候以外の人々の多くはハッと息をのんだ。
その場にあつまった放牧民も亜陸軍の兵たちもそろって一斉にそうしたために、まるでその場が凍りついたかのようにつかの間止まった。
解の背後でトウィードがつぶやいた。
場がしずまりかえったせいで、その声はつぶやきにしてはやけにはっきりと響いた。
「バカな。ツキクサ大峡谷が干あがるぞ。」
ざわめきが生まれた。
それはまるでさざなみのようにトウィードのそばにいるアシファット族から遠くの亜陸軍の兵士たちまで広がっていった。
ひそやかな声は重苦しい不安をたっぷり含んでいた。
だが、それもカク・シが手をあげてみせるまでの間だった。
カク・シのしぐさによって放牧民も亜陸兵もふたたびしずまった。
解にはカク・シが、この場全体に不安が行きわたるまでじゅうぶんに待ってから動いたように見えた。カク・シはおもむろに口を開いた。
「もし本当に川の流れが止まったら、大峡谷をはさんだ町の民も兵も、候ご自身も、たちまちのうちに乾きにおそわれるでありましょう。それくらいのことは聡明な亜陸候閣下にはおわかりであろう、もちろん。」
「う、うむ、もちろんわかっておる。それは……それは、いや待て……待て待て、サシブ川が干あがる、ううむ、いや……待て、そんなことをすれば、た、大変なことに、なるではないか!」
どうやら亜陸候サルタン閣下にも、ようやくカク・シの言葉の意味がふにおちたようだ。
若い亜陸候の顔色が変わった。
あちこちにいそがしく視線がゆれて、そのためにひどく神経質そうに見える。
この男もフード付きの上衣姿だ。そしてさらにその上に長いマントをつけていた。
フード付きの上衣とおなじ布に金糸で精巧な模様を刺しゅうしたマントだ。
どうして刺しゅうの柄が見えるかというと、そのマントの裾を二人の従卒がうやうやしく持って広げているためだった。だがそのような天流衆たちの敬意をあらわず態度は、残念ながらおごそかな雰囲気を生んだとはいいづらい。
その逆だ。
おおぜいの敬意を受けとるはずの、マントをつけた人物の緊張した、緊張しすぎた、はっきりいうとおびえた気配のために、むしろみんなで大がかりな芝居を演じているみたいな違和感がうまれた。
その芝居もシリアスな演劇じゃなくて――コントだ。
解はマントを長く引いた若い男をじっと見た。
(この人が亜陸候って人か。)
亜陸候サルタン閣下はピリピリした様子で声をはりあげた。
「余をわざわざここへ呼びだした黒の亜陸の意裁官! 彼はどこだ!」
「サルタン閣下、あちらに。」
一人の男が亜陸候のすぐ背後まで近づいた。
解は(あっ。)と思った。
ベルハス意裁官だ。やぎひげの意裁官は解をちらっと見た。
解は(うわっ。)と思った。だが隠れようにも空中では隠れる場所がないし、それにタンのせいで解は悪目立ちしていた。
やぎひげの意裁官は一瞬だけ目元をゆがめるようにして動かしたが、解に対して示したのはそれだけだった。
ベルハス意裁官は亜陸候の注意を引くように、巨大な雑夙の群れの方角に向けて指さしてみせた。
巨大な雑夙はいつの間にか三川の合流するすぐそばまで近づいてきていた。
アシファット族もクリアドル族も、それにクリアドル族が連れてきたたくさんのカラジョルも、巨大な雑夙の群れを避けて彼らの手が届くより上を飛んでいる。
中空が亜陸兵と放牧民で埋まり、日ざしをさえぎって空が少しばかり暗く見える。
そして巨大な雑夙の群れの頭上に、一人の男の姿があった。
カク・シだ。
その周辺に人の姿はない。カク・シは一人きりだ。
そして一人きりであるにも関わらず、その姿は、まるで彼のそばで大勢の人間がひれ伏しているかのような威圧感があった。
カク・シの声が響きわたった。
「ようこそ、青の亜陸候閣下。わざわざのご足労、痛みいりますぞ。」
一瞬、解はすぐそばでわめいているタンの、サイレンのような声を忘れた。
「お、おお、来たぞ、来たとも。」
亜陸候サルタン閣下がカク・シにこたえた。
だれが聞いても二人の声のうちどちらに落ちつきがあるか、まちがえようがない。
カク・シの声はあいかわらず舞台の上の役者のようだったが、もし役者だとしても若い亜陸候とでは貫禄がまったくちがった。
空気が変わった――コントから大劇場のオペラへ。
解はごくりと唾をのんだ。
(あのでかいのがなんのために動いたかわかった。カク・シの命令に従って動いたんだ。)
巨大な雑夙のすべてをカク・シが従えている。
そのカク・シはゆっくりとサシブ川を指で示して見せた。
「聡明なサルタン閣下のことゆえ、とっくにお気づきであろう。サシブ川の流れがいまどうなっているかを。」
「う、うむ。もちろんだ。今朝になって川の流れがずいぶん減ったぞ。」
「それはここに控えた者たちの働きによるもの。こやつらはよく働きますぞ、閣下。あと少し働けばサシブ川の流れを完全に止めることもできる。」
カク・シの朗々とした声が響いた。
亜陸候サルタン閣下はとりつくろった表情のままだ。
どうも、カク・シの言葉がなにを指すのか、すぐには理解できなかったらしい。
だが亜陸候以外の人々の多くはハッと息をのんだ。
その場にあつまった放牧民も亜陸軍の兵たちもそろって一斉にそうしたために、まるでその場が凍りついたかのようにつかの間止まった。
解の背後でトウィードがつぶやいた。
場がしずまりかえったせいで、その声はつぶやきにしてはやけにはっきりと響いた。
「バカな。ツキクサ大峡谷が干あがるぞ。」
ざわめきが生まれた。
それはまるでさざなみのようにトウィードのそばにいるアシファット族から遠くの亜陸軍の兵士たちまで広がっていった。
ひそやかな声は重苦しい不安をたっぷり含んでいた。
だが、それもカク・シが手をあげてみせるまでの間だった。
カク・シのしぐさによって放牧民も亜陸兵もふたたびしずまった。
解にはカク・シが、この場全体に不安が行きわたるまでじゅうぶんに待ってから動いたように見えた。カク・シはおもむろに口を開いた。
「もし本当に川の流れが止まったら、大峡谷をはさんだ町の民も兵も、候ご自身も、たちまちのうちに乾きにおそわれるでありましょう。それくらいのことは聡明な亜陸候閣下にはおわかりであろう、もちろん。」
「う、うむ、もちろんわかっておる。それは……それは、いや待て……待て待て、サシブ川が干あがる、ううむ、いや……待て、そんなことをすれば、た、大変なことに、なるではないか!」
どうやら亜陸候サルタン閣下にも、ようやくカク・シの言葉の意味がふにおちたようだ。
若い亜陸候の顔色が変わった。
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