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第二章 中宮殿
五ノ巻ー準備②
しおりを挟む中宮様のもとへ赴く前。
兄上が左大臣邸に訪ねてきた。しかも、静姫様との御簾越しでのお話の後だった。それを見に行くときかない鈴を、兄上にばれたら怒られるから見つからないようにねと言ったら、静姫の几帳の外から覗いていたらしい。
「にゃ、にゃにー、にゃん!(兼近、真っ赤だったぞ、笑える!)」
今までになく鈴が後ろ脚で立ち上がり、腕を振り回して私に興奮して言った。あまりのことに、近くにいた女房仲間が驚いている。
「鈴ちゃん、どうしたの?ごはんもらえなかった?私があげましょうか?」
「あ、違います。すみません。ちょっと興奮したようで」
「……興奮って、そういう季節なの?」
「にゃあ、にゃん、にゃにゃ!(違う、発情しているのは私ではなく兼近だ!)」
「……鈴……」
すると、女房の部屋の御簾越しに懐かしい嗅ぎなれた香り。衣擦れの音がして皆がざわざわとした。
「どなた?素敵な方ね」
「こんな明るい時分から来られるなんてどちらかのお使者ではないの?」
女房達が中から兄上を覗いて囁き合う。そう、わが兄上は美しい。晴孝様にも劣らない。内裏や陰陽寮に入るにあたり、兄上の装いも一変した。妹ながら、こんな立派な兄上だったと見とれたほどだ。これなら静姫も兄上にさらにお気持ちが傾かれるだろう。
こういうときのため、父上が兄上のために金子を準備されていたそうだ。兄上はそれを使い、思い切って参内用に装束をすべて新調した。
「夕月」
小さく私の名を呼ぶ。周りは私を一斉に振り向いて、どういうことだと見つめた。
「兄上様」
立ち上がり、御簾側へ移る私を見て、皆そういうことだったのかと口々に話し出した。自分たちを紹介してもらおうという魂胆だ。ところが、志津さんが御簾内に入られてひとこと。
「みなさん、姫がお呼びです。あ、夕月さんは兄上様とお話なさい。久しぶりに積もるお話もあるでしょうからと姫から伝言です」
「ありがとうございます」
「ごゆっくり」
志津さんはにっこり笑い、皆を引き連れていなくなった。私と鈴。兄上と側には旭丸がいる。
「鈴……聞こえていたぞ」
びくっと毛を逆立てた鈴は私の後ろへ隠れた。
「兄上。そのように凄まれずともよろしいではございませんか。そのご様子、さぞ楽しまれたのでしょう」
「お前にそんなことを言われる日が来るとはな。入った瞬間ゆかしい香の薫が漂い、心が洗われた。姫と御簾越しでお話できるのは素晴らしい。聞きたいことがすぐに聞ける。やはり、思い切って参内を決めてよかった」
兄上の輝くような笑顔。これは鈴でなくてもびっくりだ。妹だがこんな顔見たことなかった。鈴が小さく後ろでにゃあと鳴いた。ほら見ろというわけだ。本当にその通りだよ、鈴。私は鈴を後ろ手で撫でてやる。彼女は身体を摺り寄せてきた。もふもふだ。
「それはよろしゅうございました。姫様も兄上様同様にさぞお喜びかと存じます」
「それで、鈴どうだ?少しはわかったか」
周りに人がいないので、鈴は人の言葉を使った。
「まだ入って三日だ。思った以上にうちの配下ではないあやかしがいる。邸内だけでもかなりの数で、私の配下をさらに増やした。今、弘徽殿や藤壺にも入らせている。争うなと言ったのだが、あちらに気づかれ仕掛けられて怪我をしたものがすでにいる。難しくなってきた。少し待ってくれ」
「やはりな。吉野神社は調べた。夕月、藤壺尚侍はお前では太刀打ちできないやもしれぬ。結構力があるとわかった。その力を使い御上を虜にしている可能性も出て来たな」
私と鈴は驚いた。ふたりで目を見合わせた。
旭丸が言う。
「俺の配下が嗅ぎまわったところ、あそこの娘はかなりの力を持っていたとのことだ。式神を使っているところも見たことがあると言っていた。あやかしもあの娘が直で配下にしているのが何体もいるらしい」
「……あ、兄上、どういたしましょう……私、修行しなおしましたが、ご存じの通り、式神など遣えようもなく……」
「夕月のことはわかっているから別にいい。私が守る」
鈴が言う。びっくりだ。目が輝いている。
「鈴。お前、そこまで言い切れるとはどういうことだ?」
「私は少なくとも以前よりできるようになった。我らあやかし猫数体で戦うすべも考えてきた。でも、もちろん兼近が助けてくれるんだろ?」
鈴は顔を搔きながら、兄上をちろりとながめた。
「ああ、もちろんだ。想像以上の結果でこちらも考えないと動けない。これは総力戦となろう」
「兄上。どうなさるのです?」
「とりあえず、藤壺尚侍が自分から動いたのか、父のいる吉野が主導したのかを見極めねばならない。さらには、中宮様の呪詛も何なのか、夜に祈祷をさせていただき調べねばならぬ」
「はい」
「中宮様がお前とふたりで会いたいとご希望のようだな」
「はい。そう言われました。兄上、御上に何を奏上されました?」
「知らなくてよい。お前はとりあえず、私が明日の夜から中宮様の寝殿で夜呪詛払いの祈祷をするとお伝えしろ。準備をしていただかねばなるまい」
「はい。藤壺尚侍に会うのが私の役目ですね」
「お前の身分では会うのは叶うまい。先ほど、静姫に中宮殿へ入ったご挨拶という名目でご機嫌伺いに藤壺へ行っていただくよう頼んできた。お前を連れて行ってもらう」
「なるほど。さすが兄上様」
「何を褒めている。それでだな、鈴もついて行けよ」
「もちろんだ。そこまでなら常に即戦力で行く。数体引き連れて静姫も守る故安心せよ」
「……は、鈴。お前言うようになったな。まあいい。さすがにご機嫌伺いの意味をあちらもわかっているだろうし、あちらはお前に興味があってこちら同様に観察してくるだろう。さすがに当日静姫の前で何かするとは思えないが念のためだ」
「え?」
「うちの伝来の香木を準備していけ。いざとなればそれを使うのだ。」
伝来の香とは父上が作っていたうちの神社以外の邪悪なあやかしを防ぐための香だ。父上は兄上ほどの力がなく、邪悪なあやかしと戦うことをおそれ、それらが嫌う香木を燻して神社の周りに札以外の結界を作っていた。
うちの配下のあやかしにはその周辺を歩かぬよう言っていた。
「わかりました」
「中宮様のほうなら材料もすぐに手に入ると静姫から聞いた。今日伺った際に、相談してきなさい」
「はい」
「よいか、夕月。どのような人なのか見てこい。お前は初対面から誰にも好かれる良い娘だと静姫も言っていた。きっと大丈夫だ」
「兄上様ったら、静姫がお世辞を言ったのにも気づかないなんて……でもできるだけやってみます」
「いいか。無理はするな。何かあれば鈴にたよれ。白藤を静姫付女童として外で待機させるゆえ、何かあれば白藤も使えよ。わかったか、鈴」
「あの白藤がおしろいばばあじゃなくて女童になるのか!それは楽しみだにゃー」
嬉しそうに鈴が走り回っている。まったくもう……。
「夕月。晴孝からも強く約束させられた。お前に怪我させたら絶交だとさ。お前が妹なのに、誰が怪我などさせたいものか。あいつ頭がおかしくなったな」
「……」
「では無理するなよ」
「兄上様もお気をつけて。何かあればご連絡ください」
「ああ」
兄上は立ち上がり去っていった。
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