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第三章 氷室商事へ

鎖の存在

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 その日の夜。女子寮に持ち込んだドリッパーで菜摘スペシャルコーヒーを飲みながら得意のベリーケーキを頬張っていたら、電話が鳴った。

 ベリーケーキは三台作ってきた。一台は京子さんへ、一台はこの女子寮の皆さんにふるまうため共用部のカフェスペースへおいてきた。

 もう一台は私の分。疲れた時にいつも食べる私の元気の素。誰にもあげないんだー、うふふ。

 ベリーケーキをもぐもぐしながら、携帯電話の画面を見て固まった。

 は?うそでしょ?まさか、海外から電話してきたの?海外出張の時は、急ぎでない限り電話はしない。

 深呼吸をして通話ボタンを恐る恐る押した。すると低い怒りの声が聞こえた。

『菜摘、お前言いつけを守らなかったな』

「あ、あら、俊樹さん。お疲れ様です。今日は会食でしたよね、夕飯は美味しかったですか?今日はタイだからトムヤムクンとか……確か宮廷料理の店……」

『黙れ』

 まずい。怒ってる。まあ、覚悟はしていた。相当あちらのスケジュールはタイトに違いない。

 達也さんが頼んだ会長秘書はすごく厳しいと有名だからだ。俊樹さんも苦労しているだろう。

「あの……。お言葉ですが、そんな怒られるようなことはしていません」

 私もつい言ってしまった。元からオープンに行かせてくれたら何の問題もないことだったのに。馬鹿みたい。

『海外出張の間に氷室商事へ研修に行く気満々なのはわかっていた。義姉さんに釘を刺されて今回は我慢した。だが……お前どこの部署にいるんだ?』

 わー、すごい。ばれてないの?さすが、梶原副室長。

 というか、企画室の方達すごい。あそこは役員フロアに部屋があるから、直行エレベーターだし、見られてないのかもしれない。朝も早めに行っている。

「内緒」

『……内緒だと?俺に内緒って言ったのか?菜摘、覚えてろよ。帰ったらおしおきだ』

 そんなのいつものことじゃない。ぜーんぜん、びっくりしない。

 彼は私のことを自由にさせつつ、常に他人といるのをそこはかとなく見ている。別に嫌じゃないし、信用しているから許してきた。

 だからといって、私は彼に迎合しない。勝手にするときはする。これが森川菜摘だとわかっているはずだ。

「俊樹さんこそ、私に気を取られてアジア歴訪何かやらかさないでくださいね。最後のミツハシでのお仕事になりますし、会長秘書が達也取締役経由で社長と会長に連絡してます。私も報告聞いてますし、そちらの仕事も並行して多少やっています。だから、俊樹さんのことも見てますからね」

『菜摘、達也を巻き込むとはお前は大したもんだ。おかげでこっちは電話の時間をひねり出すのも大変だ。兄貴夫妻が俺を出し抜くことを楽しんでいるんだろう。お前もミツハシと氷室の両方の仕事をやるなんて、まるで俺のようだな』

「……あの、ね」

『俺と一緒に転籍した時にはさぞ完璧な秘書になっているだろう。俺は教えてやるどころか、逆に教えを請う立場になるかもなあ……』

「俊樹さん。最初から私を素直に氷室商事へ研修に出してくれたらよかったんですよ」

『頭ではわかっていても、俺のいないところでお前をあちらにやるのがいやなんだよ。心配するなだと?まだ婚約も内密でそっちへやったら、絶対今いる場所の連中がお前を離したくなくなる。今までずっとそうだったじゃないか。忘れたとは言わせない』

 そんなこともあったかも知れないけど、それは得意分野だったから。何もわからないところでそんなことが起きるはずもない。買いかぶりは程々にしてほしい。二週間程度で何が出来るのよ。聖徳太子じゃあるまいし。

「そんなわけないでしょ。二週間じゃあ、なにもできないから。とにかくできるだけ氷室商事のことを勉強してあなたの右腕になれるよう努力中です。お互い頑張りましょう」

『お互いって……お前には敵わないな。それに兄貴もたいしたもんだな。俺は兄貴をみくびっていたかもしれない。今回のことはハッキリ言ってお前より兄貴に驚かされた。俺もまだまだだ』

 俊樹さんったら……確かに陽樹さんのお陰で今がある。言うこともわからないではない。私を社内で完全に隠しているものね。

「帰ってきたら詳しく説明します。今は内緒の方が楽しいでしょ?」

『ふっ……まあ、そうだな。どこにいるか、大体想像はついている。そこだとすると菜摘は相当大変だろう。ただ、ものにできればお前の将来も変わる可能性がある』

「……そうなの?」

『ああそうだ。兄さんの苦渋の決断か側近の考えか、おそらく側近だな。兄さんの側近は今出向中で社にいない。でもあいつはすごいからな』

 そんな人がいるんだ。室長っていう人かな?梶原さんの上司で陽樹さんの親友らしい。影の専務って言っていた。相当すごいんだ。

「じゃあ、頑張るね。大好きよ、俊樹さん。浮気しないでね」

『……』

 驚いてる?たまには逆襲するんだ。私だって、俊樹さんがモテるのを気にしてるんだからね。あの笑顔を向けられると社内の女子は大抵彼のとりこになる。キラースマイルを考えなしに女性へ向けるのをやめてほしいのだ。

「……どうしたの?まさか、また告白されたり、女性を紹介されたりしてるんじゃないですよね?」

『さあねえ……浮気とは……お前の口から出るとはな。もしあそこにいるとすれば、周りは男しかいない。兄貴の奴、許せん。しかもエリート揃い。常に指輪をしているだろうな?いいか、俺以外の男に見とれたら許さん。できれば目隠ししてろ』

「目隠しって何?仕事してるのに目隠しするの?何言ってんのよ。自分の事棚に上げてなんなの?」

『俺は大丈夫だ。まあ、女性相手で仕事上ニッコリすることはあっても、心はやらん。今まで通りだ』

「なにそれ……」

『じゃあな、菜摘。お前はすでにお仕置き決定だが、少しでもよそ見したらお仕置きは3倍だぞ。またマレーシアへ行ったら連絡する』

「……はあ」

 ぷつりと切れた携帯を見つめながら、ため息。どこに行こうと彼は彼。鎖は海外に行っても繋がっているんだと実感した。

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