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シリーズ盤外戦術
盤外戦術その8 僕の知らない矢倉さん
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矢倉さんが将棋を指していた。その姿は、僕が今まで知っていた矢倉さんとは完全に違う矢倉さんだった。
今まで矢倉さんが指しているのをちゃんとみたのは将棋の面々と指している将棋だけだ。大会の時は横目でちらりとみたくらいで、ほとんど指している姿をみることはなかった。
矢倉さんの気迫が痛いほどに感じられた。
矢倉さんの通っている将棋クラブにお邪魔したところ、たまたまクラブを運営しているプロの方も来ていた。この方が矢倉さんの師匠らしい。
そしていま矢倉さんと平手で指している。
だけど形勢は明らかに矢倉さんの方が悪い。いや、正直僕は盤面をみてもどちらが勝っているのかなんてよくわからない。でもその表情をみる限り、余裕があるのは先生の方で劣勢に置かれているのは矢倉さんの方だ。
矢倉さんが不利な状況は僕は初めてみる。
菊水先輩は矢倉さんとも棋力が近いようで、かなりいい勝負をしているのは見たことがある。でも最後に勝つのはいつも矢倉さんだった。
だから僕にとって矢倉さんが苦しい戦いをしているというのは想像外のことで、僕にとっては矢倉さんはいつも勝っている印象しかない。
もちろん相手はプロ棋士なのだ。それも話によれば現役のA級棋士で、かつてはタイトルをとったこともあるらしい。だから矢倉さんがいかに才能があるとはいえ、まだ勝負になる相手ではないのかもしれない。
それでも僕の中の矢倉さんは、いつも冷静にどっしりと構えて落ち着いた将棋を指す。そんな印象しかない。だから追い詰められている矢倉さんなんて、考えてみたこともなかった。
「……負けました」
矢倉さんが深々と頭を下げて、駒台の上に手を添える。
初めてみた矢倉さんの負けた姿だった。その姿に僕は強い衝撃を受けていた。
「矢倉くんの今日の将棋は良かったよ。彼氏が見ているから力がでたのかな」
矢倉さんの先生がにこやかな顔で告げる。かなり落ち着いた感じの男性で、四十過ぎくらいだろうか。もしかしたらもう少し上かもしれない。
「も、もう。先生。からかわないでください」
「でもいつもより踏み込みが大胆だったね。ここの手なんて、いつもの矢倉くんなら受けに回りそうなものだけれど、今日は攻めの手を指してきたからね。その勢いならこのまま連勝街道を進めそうかな」
先生は矢倉さんが女流棋士になれることを疑ってもいないようだ。
もちろん僕もそうなのだけれど、僕みたいなアマチュアよりもプロの先生がいうことの方がずっと信頼がおけるだろう。
「さすがにずっとは勝てないとは思いますけど」
「いやいや。一回負けたとはいえ、まさかここまで勝ち進むとも思ってなかったよ、私は。矢倉くんは、キミはまだ誕生日を迎えていないから、奨励会にだって入れるわけだけど、どうする?」
先生は笑いながら告げる。
確か十八歳以下でSクラスか、あるいは十五歳以下でA2にあがれば、奨励会に編入できるんだっけ。あれ、ということは矢倉さん、今はもうB1クラスどころではないってことなのか。
確かにほとんど負けていないっていっていたから、クラスがもっと上にあがっていてもおかしくはないのかもしれない。
それにしても奨励会とか遠い世界の話で、僕はなんだか頭がくらくらとする。
「いえ奨励会には入りません。正直私がプロ棋士になれるとは思いませんし、先生だってそこまでは思っていないでしょう?」
「確かに奨励会は厳しいところだからね。棋力はともかく、キミの性格的には向いていないかもしれない。まぁもちろん女流棋士の世界だって、十分に厳しいのだけども。奨励会はまた独特の世界だからなぁ」
矢倉さんははっきりと断っていて、少しほっとする。あまりにも遠い世界にいかれてしまう気がして、僕はなんだか場違いのような気がしていたから。
「でも向いていないといえば、キミは女流棋士だって向いているとは言えない。棋力は申し分ないし、まぁ、うん。キミなら人気の女流棋士にもなれるとは思うけど。棋士は棋力だけで戦うわけではないし、仕事も将棋を指すだけではないからねぇ」
先生がじっと矢倉さんを見つめていた。
確かにテレビとかで大盤解説をしている女流棋士の方をみたことがあるけど、ああいう場所だと矢倉さんは確かに緊張してそうな気がする。そういう意味では向いていないのかもしれないけど、まぁ慣れれば大丈夫なんじゃないかなとも思う。
「そんなキミがずっとその気はないです、ここで将棋を指せれば十分ですって言って研修会に入るのも拒んでいたのに。急に女流棋士になろうと思ったのは、もしかしてその彼がきっかけなのかな」
先生が笑いながら言うと、矢倉さんの顔が明らかに赤く染まっていた。
「も、もうっ。先生。何言っているんですか、何言っているんですか」
慌てた様子でぱたぱたと手をふっていた。こんな矢倉さんは初めてみたかもしれない。
「違うのかい?」
「いえ……その……違わないですけど……」
真っ赤な矢倉さんがとても可愛いと思う。
「ふふ。まぁ勝負は背負うものがある方が強いこともあるしね。がんばってほしい。キミも矢倉くんを支えてあげてほしい」
「え、あ。はい! もちろんです!」
急に振られてびっくりしたけれど、すぐに僕はうなずく。
矢倉さんを支えるのは僕の役目だと思う。
ただこの道場にきて、僕にはまだ知らない矢倉さんがいるんだってことをはっきりと知ってしまった。
僕はもっともっと矢倉さんを知らなければいけない。
でも将棋が弱い僕に、矢倉さんを支えていくことは出来るのだろうか。
少しだけ不安を覚えながらも、僕はいつまでも矢倉さんと一緒にいたいと心に思う。
この先訪れる未来が、どんなものなのかはわからなかったけれど。
今まで矢倉さんが指しているのをちゃんとみたのは将棋の面々と指している将棋だけだ。大会の時は横目でちらりとみたくらいで、ほとんど指している姿をみることはなかった。
矢倉さんの気迫が痛いほどに感じられた。
矢倉さんの通っている将棋クラブにお邪魔したところ、たまたまクラブを運営しているプロの方も来ていた。この方が矢倉さんの師匠らしい。
そしていま矢倉さんと平手で指している。
だけど形勢は明らかに矢倉さんの方が悪い。いや、正直僕は盤面をみてもどちらが勝っているのかなんてよくわからない。でもその表情をみる限り、余裕があるのは先生の方で劣勢に置かれているのは矢倉さんの方だ。
矢倉さんが不利な状況は僕は初めてみる。
菊水先輩は矢倉さんとも棋力が近いようで、かなりいい勝負をしているのは見たことがある。でも最後に勝つのはいつも矢倉さんだった。
だから僕にとって矢倉さんが苦しい戦いをしているというのは想像外のことで、僕にとっては矢倉さんはいつも勝っている印象しかない。
もちろん相手はプロ棋士なのだ。それも話によれば現役のA級棋士で、かつてはタイトルをとったこともあるらしい。だから矢倉さんがいかに才能があるとはいえ、まだ勝負になる相手ではないのかもしれない。
それでも僕の中の矢倉さんは、いつも冷静にどっしりと構えて落ち着いた将棋を指す。そんな印象しかない。だから追い詰められている矢倉さんなんて、考えてみたこともなかった。
「……負けました」
矢倉さんが深々と頭を下げて、駒台の上に手を添える。
初めてみた矢倉さんの負けた姿だった。その姿に僕は強い衝撃を受けていた。
「矢倉くんの今日の将棋は良かったよ。彼氏が見ているから力がでたのかな」
矢倉さんの先生がにこやかな顔で告げる。かなり落ち着いた感じの男性で、四十過ぎくらいだろうか。もしかしたらもう少し上かもしれない。
「も、もう。先生。からかわないでください」
「でもいつもより踏み込みが大胆だったね。ここの手なんて、いつもの矢倉くんなら受けに回りそうなものだけれど、今日は攻めの手を指してきたからね。その勢いならこのまま連勝街道を進めそうかな」
先生は矢倉さんが女流棋士になれることを疑ってもいないようだ。
もちろん僕もそうなのだけれど、僕みたいなアマチュアよりもプロの先生がいうことの方がずっと信頼がおけるだろう。
「さすがにずっとは勝てないとは思いますけど」
「いやいや。一回負けたとはいえ、まさかここまで勝ち進むとも思ってなかったよ、私は。矢倉くんは、キミはまだ誕生日を迎えていないから、奨励会にだって入れるわけだけど、どうする?」
先生は笑いながら告げる。
確か十八歳以下でSクラスか、あるいは十五歳以下でA2にあがれば、奨励会に編入できるんだっけ。あれ、ということは矢倉さん、今はもうB1クラスどころではないってことなのか。
確かにほとんど負けていないっていっていたから、クラスがもっと上にあがっていてもおかしくはないのかもしれない。
それにしても奨励会とか遠い世界の話で、僕はなんだか頭がくらくらとする。
「いえ奨励会には入りません。正直私がプロ棋士になれるとは思いませんし、先生だってそこまでは思っていないでしょう?」
「確かに奨励会は厳しいところだからね。棋力はともかく、キミの性格的には向いていないかもしれない。まぁもちろん女流棋士の世界だって、十分に厳しいのだけども。奨励会はまた独特の世界だからなぁ」
矢倉さんははっきりと断っていて、少しほっとする。あまりにも遠い世界にいかれてしまう気がして、僕はなんだか場違いのような気がしていたから。
「でも向いていないといえば、キミは女流棋士だって向いているとは言えない。棋力は申し分ないし、まぁ、うん。キミなら人気の女流棋士にもなれるとは思うけど。棋士は棋力だけで戦うわけではないし、仕事も将棋を指すだけではないからねぇ」
先生がじっと矢倉さんを見つめていた。
確かにテレビとかで大盤解説をしている女流棋士の方をみたことがあるけど、ああいう場所だと矢倉さんは確かに緊張してそうな気がする。そういう意味では向いていないのかもしれないけど、まぁ慣れれば大丈夫なんじゃないかなとも思う。
「そんなキミがずっとその気はないです、ここで将棋を指せれば十分ですって言って研修会に入るのも拒んでいたのに。急に女流棋士になろうと思ったのは、もしかしてその彼がきっかけなのかな」
先生が笑いながら言うと、矢倉さんの顔が明らかに赤く染まっていた。
「も、もうっ。先生。何言っているんですか、何言っているんですか」
慌てた様子でぱたぱたと手をふっていた。こんな矢倉さんは初めてみたかもしれない。
「違うのかい?」
「いえ……その……違わないですけど……」
真っ赤な矢倉さんがとても可愛いと思う。
「ふふ。まぁ勝負は背負うものがある方が強いこともあるしね。がんばってほしい。キミも矢倉くんを支えてあげてほしい」
「え、あ。はい! もちろんです!」
急に振られてびっくりしたけれど、すぐに僕はうなずく。
矢倉さんを支えるのは僕の役目だと思う。
ただこの道場にきて、僕にはまだ知らない矢倉さんがいるんだってことをはっきりと知ってしまった。
僕はもっともっと矢倉さんを知らなければいけない。
でも将棋が弱い僕に、矢倉さんを支えていくことは出来るのだろうか。
少しだけ不安を覚えながらも、僕はいつまでも矢倉さんと一緒にいたいと心に思う。
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