三十六日間の忘れ物

香澄 翔

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四.戻らない針に

35.迷子の仔猫

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「いやだっ。離してっ。友希くんなんて嫌い。触らないで!」

 それほど強く抱きしめているわけではなかったから、本気で僕を拒絶するならはねのける事も出来たとは思う。だけどひなたはまだそこまでの事はしなかった。まだ僕を受け入れてくれている気持ちは残っているはずだ。

 僕はどうするべきなのかはわからない。わからないけれど、それでもこの想いがひなたのためになる。ひなたにとって一番良い方向に進むはずだと信じていた。

「ひな」

 名前を呼ぶ。その瞬間ひなたの肩が大きく震えた。
 たぶん聞こえた訳ではないだろう。おそらくは僕の手に思わず力が入ったからだ。
 だけどひなたは急に体の力をぬいて、だけどそのままその身体を震わせていた。

 もしかしたら怖がらせてしまったのかもしれない。二人きりの部屋の中で、急に抱きしめられて恐れを覚えたのかもしれない。
 自分のしている事がひなたを傷つけているのだとしたら、僕は何をしているのだろうか。

 ひなたの恐れを解くためにも、少し力を緩めた。ひなたが力を入れれば、すぐにでも離れられるように。だけどひなたが拒まない限りは手を離してしまってはいけない。そうも思えた。自分のしている事が少しでもひなたの力になっている。そう信じたいとも思う。

「ひな。一緒に外にいこう。僕は君と一緒に歩きたい」

 聞こえないのはわかっている。それでも言わずにはいられなかった。
 いまは唇も見えないから、僕が話している事は聞こえていないし、感じられてもいないだろう。ひなたは何も反応を示さない。

 ただ僕の手の中で、その身体を震えているだけだ。

 もしかしたら僕はやっぱり自分の事しか考えていないのかもしれない。本当はひなたを抱きしめたいから、自分を納得させる言い訳をしているだけなのかもしれない。僕もはっきりとした答えは出せない。
 僕はひなたのことが好きだ。ひなたのために何かをしたい。ひなたが笑顔でいられるためなら、何でもしてあげたい。

 この先がどうなっていくのかなんてわからない。僕の行動が正しいかなんて、未来になってみなければわからないだろう。だからいま僕がやらなければいけないと思うことを積み重ねていこうと思う。

 ひなたは僕の腕の中でだけど離れようとはしなかった。やがて身体の震えも少しずつ止まっていく。ただ僕に身を任せて、じっとその場で動かずにいた。

 それから僕の腕に手をおいて、それからゆっくりと僕の腕をほどいていた。

 僕の気持ちは通じたのだろうか。それとも何も伝わってはいないのだろうか。ひなたは僕の方へと向き直って、どこか寂しそうな顔を浮かべていた。

 そして静かな声で話し始める。

友希ともきくん。私、怖いよ。外にいくのは怖い。だって、何も聞こえないんだよ。友希くんにそんな気持ちわかる? わからないよね。いつも聞こえてたものが急に聞こえなくなるなんて、わからないよね」

 ひなたの声は次第に強く力が込められていく。

「だから、友希くんには私の気持ちなんてわからない! わかるはずない! 帰って。今日はもう帰って!」

 ひなたはそのまま大きな声で泣き始めていた。そのまま崩れるようにその場で床に座り込んで、うつむいた顔を上げようとはしなかった。

「私だって、好きで聞こえなくなったんじゃない。好きで部屋の中にいる訳じゃないんだから」

 ひなたは悲痛な叫びを上げ続けていた。
 僕は何も答える言葉を見つけられなかった。僕はひなたの気持ちをどこまで理解していただろうか。やっぱり僕は独りよがりでひなたを苦しめていただけなのかもしれない。

 だけどそれでもこの部屋から立ち去る事も出来ずに、ただ呆然と立ち尽くす事しか出来なかった。

 僕は音の無い世界なんて知らない。経験したこともなければ、深く考えた事もないかもしれない。ひなたがどれだけ苦しさを抱えているかなんて、理解できてはいなかっただろう。

「帰って! 今日はもう帰って!」

 ひなたは泣きながら、ベッドのそばにあった猫のぬいぐるみをつかんで僕へと投げつける。
 僕はもう避ける事もできずに、ぬいぐるみは僕に当たって、そのまま床を転げていた。

「ひな」
「帰って!」

 ひなたはもうただ帰って、帰ってと繰り返すだけだった。いまのひなたには耳が聞こえていたとしても、僕の言葉なんて届きそうもなかった。まるで自分の心の部屋に、鍵をかけてしまったかのように思えた。いやきっと鍵は初めから閉じたままだったのだろう。
僕はドア越しになんとか会話できていただけに過ぎない。

 だけど僕はこの鍵を開けなくてはならない。きっとそれは簡単にできる事ではないのだろうけれど、たぶん僕にしか出来ない事なのだろう。
 ひなたが僕を拒んだ事は、胸の奥をえぐられたようにすら感じる。ひなたのために何かをしたいのに、ひなたを傷つけていることが何よりも悲しくて悔しかった。何も言わずにそばにいてあげれば良かったんじゃないかと後悔する気持ちもない訳でなかった。

 それでも僕はこうする事しか出来なかった。

 ひなたのそばにいたかった。でもそれ以上にひなたに本当の笑顔を取り戻して欲しかった。ひなたが元気で歌っていた毎日に帰ってきて欲しかった。

 だから僕はそのために出来る事をしようと思う。

「ひな。わかった。今日は帰る。だけどまた明日くるよ」

 僕は床に転がったままのノートを拾って、いま言った言葉をそのまま書きつづった。そしてひなたの隣にそっと置いておく。

 ひなたは僕がノートを置いた事は目に映ってはいただろう。
 だけどいまはただ泣きじゃくっていて、ただそれ以外の事は何もしようとはしなかった。

 ひなたはいま本当に迷子の仔猫になってしまったのかもしれない。
 だけど僕は犬のおまわりさんのように、困って立ち止まったままでいる訳にはいかない。ひなたを無事に送り届けなければいけなかった。

 だから毎日少しずつでもひなたの心を溶かしていくしかない。
 ただ出来る事をしよう。一歩ずつでいい。たとえそれで嫌われてしまったとしても、ひなたのために出来ることを。

 強く願った想いは、いまの僕の心を何とか奮い立たせる。
 だけど知らないうちに、涙が浮かんできていた。ひなたに拒まれた事が僕の心をえぐっていく。

 ひなたには悟られないように、背を向けて軽くぬぐう。そしてそのままひなたの部屋を後にしていた。
 ひなたは今日は帰ってと言ったから、きっと明日くる事までは拒まれていないはずだ。だからまた明日ここにきて話をしようと思う。

 彼女を傷つけた事が僕の心を何よりも苦しめていた。
 だけど僕はひなたを失う事もなったとしても、それでもひなたに笑顔を取り戻してもらいたいと思う。

 僕に出来る事はちっぽけなことしかない。いまも涙を隠せずにいる。
 それでも僕は前に進む。進まなければいけないと、自分に言い聞かせていた。
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