さよならはまるいかたち

香澄 翔

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二.紅色は悲劇のヒロインと

16.偶然かあるいは

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「その中は立入禁止ですよ」

 優しい口調で告げられた声に目線をやると、そこに立っていたのは桜乃さくのの姿だった。

 白いシャツの上にモスグリーンのサマーセーター、ボトムは淡いベージュのパンツ。初めて見た制服姿とも、旅館の中でみた女将姿とも、昨日みたワンピースとも違う、どこかボーイッシュで快活さすら感じさせていた。

 見る度に印象の変わる彼女は、まるで何もかもを見通しているかのように感じて、僕の胸の中にちくりと痛みを残した。

「……知ってる」

 僕は思わずつぶやくように答えて、それから麗奈の方へと振り返る。麗奈れなは僕の陰に隠れていて初めは姿を見せようとはしていなかったが、そこにいるのが女性だったということもあってか、少し警戒心を解いたようだ。

 それでも僕のシャツをつかんだ手が震えていて、まだ緊張が解けていない事ははっきりとわかった。

 桜乃も麗奈の姿に気がついたようで、様子をみて事態を察したようだ。

「なんだかそんな事を言ってる場合じゃないみたいですね。そのままじゃまずいでしょうしから、そうですね、私のセーターを貸しますんで上に着てください。旅館に帰ったら用意は済んでいますから、お風呂にでも入りましょう」

 自分の着ていたサマーセーターを脱いで麗奈に手渡す。

 麗奈は頭を下げて素直に受け取ると、いまの服の上にセーターを着けはじめる。多少ミスマッチではあったものの、これでぱっと見では何かあったようには見えないはずだ。

 ただ桜乃の好意にありがたいと思う反面、なぜ彼女がここにいるのかを不思議に思った。

 昨日海辺で出会った事は偶然だとして不思議はない。夜の海というロケーションは、人を呼び寄せる部分はあると思う。だけどここにはこの防空壕以外には何もない。まだ夜も浅いとはいっても、普通に人が立ち寄るような場所には思えなかった。

 たまたま出会ったにしてはあまりにもタイミングが良くて、偶然というには出来すぎているような気がする。

 まさかとは思うが、さっき防空壕の中で逃げていった相手は桜乃だったのだろうかと思うものの、すぐに心の中で首を振るう。桜乃に麗奈を襲う理由なんてないだろうし、そもそも桜乃はどちらかというと小柄な方だ。ぱっと見でしかわからなかったとはいえ、背はそれなりにあったと思うし、桜乃のような姿ではなかったと思う。

 そもそも桜乃がさっきの人間だとしたら、麗奈を襲った後にすぐ舞い戻ってきて僕らを待ち構えていた事になる。いくらなんでも不審すぎる。麗奈が襲われた事への困惑と、たまたま桜乃と出会った事で、疑心暗鬼になってしまっているとは思う。

 僕は少しだけ桜乃を疑ってしまった事を後悔しながらも、表情には出さないように何とか取り繕う。しかし桜乃はそれすらも見通しているかのように、静かな笑みを浮かべているだけだった。

 そうこうしているうちに麗奈はセーターを着終えると、それからか細い声を漏らしていた。

「ごめんなさい」

 まだ不安が拭いとれた訳ではなかったのだろう。小さな声がどこか揺れているように思えた。

「気にしないでください。それじゃあ行きましょう」

 桜乃は何事も無かったかのように応えると、ゆっくりとした足取りで歩き始める。

「あ、こっちにいくと近道なんです。こちらから行きましょう」

 桜乃は道から少しそれた場所を指し示す。

 ちゃんとした舗装はされていなかったが、よく見ると人が通っている様子があり獣道を広げたような感じになっていた。

 しばらくは無言のまま、どこか重たい空気を背負って山道を下っていく。麗奈は僕の服の裾を掴んでまだ不安を隠せずにいた。

 山を下る最中に何かうなるような音が響く。何か動物でもいるのかと、思わず振り返るがそこには何もいない。麗奈の裾を握る手に、ぎゅっと力がこもるのがわかった。

「ああ、山神様の泣き声ですね」

 気がついたのか桜乃が、笑みを漏らしながら告げる。少しでも重苦しい空気を変えようとしてくれたのかもしれない。

「山神様?」

「はい。この音は古くからの言い伝えでは、この山に住む山神様が寂しがって泣いている声なんだそうです。だからこの音が鳴り出したら急いで帰らないと山神様に連れ去られてしまうそうですよ」

「……そんな訳ないだろ」

 桜乃の言葉に、僕は思わず憮然とした顔で答えてしまっていた。

 桜乃は他のメンバーがいなくなった事など知らない。だからこの答えが八つ当たりに過ぎない事は僕自身にもわかっている。それでも言わずにはいられなかった。

 何が起きているのかは僕にはわからない。ただ麗奈以外の姿が見えなくなっている事は、僕の胸の中に焦燥を残す。

 桜乃は少しでも場を和ませようとしてくれたのかもしれない。ただ僕にとっては、皆がいないのが山神の仕業だなんて、そんなことがあって欲しくなかった。

 しかし彼女は僕のトゲのある言葉も気にしていない様子だった。それどころかむしろ楽しそうな口調で、笑顔を漏らしていた。

「そうですね。他にも防空壕に残された霊達が泣いているんだ、なんて言う事をいう人もいますが。でも偉い学者さんの話によると、ちょうどこの時間に吹く風とこの奥にある谷間の地形が重なり合って音を立てているんだそうです。夜よりは小さいですが朝方にも鳴りますしね。でもこの辺の人達はそうやって山へと畏敬を忘れなかったということですよ」

 桜乃はそう言いながら身体ごと振り返る。

 どことなく含みのある物言いに、何か全てを見透かされているかのような感覚に包まれていた。桜乃は何でも知っているかのようにすら思える。

 だけどそんなはずもなくて、もしかしたら勝手に立ち入り禁止の防空壕の中に入った事を遠回しにとがめられていたのかもしれない。

 そうこうしながらも裏道を抜けると思っていたよりも、ずっと早く旅館の裏手の方にたどり着く。確かに普通に道を通るよりもずっと早く到着したと思う。

「さてと旅館につきましたけど。表から入ると目立ちますから、このまま裏から入りましょうか。この時間ならあの辺には人は少ないでしょうし」

 桜乃の言葉に麗奈もうなずく。目立ちたくないのは確かなところだし素直に好意に甘える事にした。

 桜乃が裏口の鍵を開けると、そこはちょうど大浴場の手前の辺りだった。浴場は離れにあり、離れに続く通路の手前が入り口になる。それほど人通りが多い場所ではないから目にはつきづらいだろう。

 建物野中に入ると同時に麗奈ははっきりと安堵の息を吐き出して、どこかこわばっていた表情も落ち着いたように思えた。ここまで戻ってきたことで安心したのかもしれない。

「ねぇ、浩一。私、このままお風呂に入りたいから、部屋までいって着替えをとってきてくれる?」

 麗奈は気持ちが切り替わったのか、いつもの口調で話し始める。やっぱり麗奈はこの方がいいと心の底から思う。

「わかった。じゃあ先にいってろ」

 僕はうなずいて、それから桜乃へと視線を送る。麗奈についていて欲しいと思っての事だったけれど、桜乃は僕の意図を感じてくれたのか、笑顔を返してくれていた。

 僕はすぐに麗奈達の部屋へと向かう。

 ――後にして思えば、これは完全な僕のミスだった。この時に離れずにいたら、もう少し違う道を辿っていたのかもしれない。

 階段を上り、二階の客間へと急ぐ。男性陣の部屋は一番奥の部屋で、その手前が女性陣の部屋だ。

 部屋に入ろうとして、部屋には誰もいないだろうことにも気がつく。矢上や楠木は行方不明のままだし、麗奈は大浴場だ。部屋の扉をノックしてみるものの返事はない。

 そこでふと仮に部屋に誰かがいたとしても、着替えをどうやって女風呂まで持って行くかを考えていなかった事に気がつく。桜乃が入り口で待っていてくれればいいが、そうでなければさすがに中に入る事は出来ない。

 弱ったな、と口の中でつぶやいた瞬間だった。不意に男性部屋の扉が開く。
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