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39 シチリアにて(2)

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 ユイが寝静まるのを待っていたため、帰宅が深夜になってしまった。どうしても内密にミサコと話す必要があるのだ。


「済みません、遅くなってしまって。父上は?」出迎えてくれたミサコに頭を下げる。
「少し前にベッドへ。気にしないで、お茶でも淹れるわ、来て」
「いえ、あなたももう休んでください、ミサコさん」
 こんな言葉をかけつつも、その先の展開はすでに読んでいる。彼女がイエスとは言わない事を。 

 案の定、ミサコは聞く耳持たぬといった様子で、俺をソファではなくダイニングに通した。
 勧められるままに腰を降ろし、お茶を淹れるミサコの後ろ姿を見つめる。

「遅くまで疲れたでしょう。ユイもずっと待っていたんだけど、もう寝かせたわ」
「ええ、それで結構です。ありがとうございました」
 状況は聞かずとも把握しているが、それを感じさせてはいけない。
「どうぞ、温まるわよ」
「ありがとうございます」

 俺はようやくミサコから視線を外し、目の前に置かれたカップへと向けた。
 そっと手を伸ばして、湯気の立ち上るカップに触れる。その温かさは、ユイの肌の温かみを思い起こさせて、自然と笑顔になる。

「それにしても。私と新堂先生が親子になるなんてね。思ってもみなかったわ」
「私もですよ。娘さんが転校して来なければ、こんな未来はなかったのでしょうね」
 そうよねぇ、と大いに納得するミサコの姿を、不自然な程見つめてしまった。

「先生?どうかしました?」
「あ……。済みません、つい、見惚れてしまいました」これはあながち嘘ではない。ミサコをユイに重ねて見惚れていたのは、本当なのだから。
「イヤだわ!新堂先生ったら。私はもう四十を超えてるのよ?それに、あなたの義理の母なんですからね?」
 
 義理の母。この言葉に衝撃が走り、人間を演じる事も忘れて硬直する。

 ……ダメだ、こんな事では!冷静になれ。一転して瞬きや呼吸をいつも以上に意識する。幸い、彼女の表情や心境には別段変化はない。
 ユイと出会って以来、素のままでいる事に慣れすぎた。気をつけよう。何しろ相手はあのユイの母親!意外に鋭い感性の持ち主だ。

 俺が今すべき事はただ一つ。
 ユイには口止めされたが、娘の体調について母親には知る権利がある。主治医を仰せ付かったからには、義務は果たさねばならない。

「ミサコさん。一つ、大事な報告があります」
「何かしら。まさか、孫の顔でも見せて貰える?」頬杖をついたまま楽しげに尋ねる。
「それは……それについては申し訳ないですが、その予定はありません」
 まあ残念!と大袈裟に両手を広げた後に、冗談よ、と軽く微笑んだ。
「二人が元気で暮らしてくれれば、私はそれで満足だから」 

「その事なんですが……」俺は無意識に唇を噛んでいた。演技ではなく。
「どうしたの?」
 下を向いたままの俺に、ミサコが念を押したように言う。
「私にウソはつかないでね」

 この言葉のお陰で吹っ切れた。俺は顔を上げてはっきりと告げた。
「私はユイのパートナーであると同時に主治医です。彼女の体調についての報告です」
「どうかしたの?」さすがにミサコも不安を感じている。
「ご安心ください。事後報告です。病はすでに寛解の状態にあります」

 簡単に病の内容と寛解について説明する。

「まあ……。そうだったのね。あの子ったらそんな大事なこと内緒にして!」
「お母さん!ユイを責めないで下さい」思わずこう呼んでいた。これも無意識だった。
 ミサコもその事に気づいて、自分の主張を一時停止する。
「ユイはとても母親思いのいい子です。あなたをどうしても心配させたくなかったんです。それに、私が治せば問題は解決だ。私としては責任重大ですがね」

 ここで肩をすくめ、安心させるように笑みを投げかける。
 ミサコが俺の瞳をじっと見つめている。そんなつもりはないのだが、魔力に掛かっているのだろうか?

「どうか許してあげてください。それから、私が話した事はくれぐれもご内密に」
「もちろんです。言いません。話してくれてありがとう、新堂先生」
 ミサコは、自分を見失う事なくこう言い返してきた。
 心を読まずとも、その目を見れば真実の言葉だと分かる。どうやら魔力には掛かっていないようだ。
「この際だから正直に答えて。寛解というなら再発も、あるのね?私よりも先に……あの子が死ぬ事は?」

 直球で来た。彼女が考えている事は分かっていたが、こんなにストレートに口に出すとは思わなかった。
 だが答えは決まっている。「場合によっては、起こり得ます」
 こんな自分の冷酷な言葉に後悔して、ミサコの反応を隈なく観察する。

 だが、ミサコの反応も冷静だった。
「そうですか。正直に話してくれてありがとう」
 その様子に安心して次の言葉を発した。
「大丈夫、そんな最悪の事態にはさせません。私がずっと側に付いています。きちんと体調管理をして行きますのでご安心ください」

 ミサコは頷いた後に言った。
「新堂先生、娘の事、これからも末永くよろしくね。何があっても私は、ユイの幸せ、そしてあなたの幸せを願っているわ」
「もちろんです。ありがとうございます」俺は深々と頭を下げた。

 こんなモンスターとなり果てた俺の幸せを願ってくれる人間が、ここにいる。面と向かって言われても、まだ現実とは思えない。
 目の前のミサコは俺に、穏やかな笑みを向け続けている。

 ユイといいミサコといい、不思議な人間達だ。何しろ今、俺がミサコの魔力(!)に掛かりそうなのだから!
 でもそれでいい。このヴァンパイアの魔力で惑わせたら最後、相手の本心は読み取れなくなってしまう。そういう厄介なものなのだ。

 どこか懐かしい温かな微笑みに、俺はいつまでも見惚れたのだった。

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