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27 月明かりの中で
しおりを挟む自負していた通り、ロシアの夏は快適だ。
「ねえ先生。何でこんなに大きな家が必要なの?一人なのに」
「見栄かな」
「は?」
ロシアの我が家は、城と呼んでもおかしくない広さだ。とはいえ、この広い家に意味などない。どうしても理由付けするなら、ただ土地が余っていたからと言っておく。
文字通り目が点のユイがおかしくて、秘かに笑っているところに指摘が入る。
「新堂先生……えくぼができてる。そのうち、人間に戻るんじゃない?」
「かもな!」
ここ最近自分でもそう思う時がある。人間らしく振る舞う事が苦ではない。それもこれも全てユイの影響だ。
自分が人間に戻れるならば、ユイを仲間にするより遥かに良いのだが。それは決してあり得ない。
月明かりを浴びる敷地内の庭園にて、不安そうな顔をするユイが気になった。
「どうした?」
「私、とても怖いの」
「珍しいな、そんな感想。ようやく俺を恐れてくれたのか」
「怖がられて嬉しい?」やや不機嫌そうに聞かれる。
「若干」意地悪な笑みを浮かべて答えた。
「残念だけど、怖いのはあなたじゃないよ」
「では、何を恐れている?」
「こうして一緒にいてもね、時々、自分だけ取り残されてる気がするの。それを今、特に感じて……」
「どこからそんな発想が!」
「だって先生、あまりにも完璧で彫刻みたいで……現実離れしてるよ?自分じゃ分からないだろうけど!」
ユイの大きな瞳に俺の姿が映っているのが良く見える。現実離れ、か。とても的確な表現だ。
「そのまま固まって本物の彫刻になるかも。じゃなければ、今にもその姿が闇に消えてしまうんじゃないか。今までの事は全部夢で、目が覚めたら……!」
「これは夢じゃない。俺はどこへも行かないって約束したろ?」
「分かってる!本当は、この幸せな今を楽しむべきなの。でも私にはできそうもない。この先の事だって……」
先の事?また例の話か。俺が眉をひそめたのに気づいたのか、ユイが言い直す。
「そうじゃないの、仲間になりたいとかそういうんじゃ。時間がどんどん過ぎて行くのが怖い。時計もカレンダーも見たくない!時間なんて止まってしまえばいいのに……」
ユイが両手で顔を塞いで俯いた。
「……ユイ。時間は、誰にも止められないんだ」
俺にとっての時間は、何の意味もなさないものだが。
ふいに顔を上げて、ユイが食い入るように俺を見つめて言った。
「ねえ先生、私、先生の事が好き。先生を愛してる。この感情は、魔力を掛けられたからじゃないよね?私の本当の気持ちだよね?ねえ、教えて……!」
震え出すユイをそっと抱きしめた。暑い時期ならば、ひんやりしたこの体は気持ち良さを与えてやれる。
「急にどうした?俺はユイに魔力を掛けた覚えはない。自分でも言ってたじゃないか。ヴァンパイアの毒だって自分には効かないって」
「先生の事が好きすぎて、どうにかなりそうなの。私には先生しかいなくて、先生がいなくなったら私……!」
「いなくなったりしない。一人になんてする訳ないだろ?ようやく手に入れた愛しい人と離れるなんて」
ユイの左手を取り、リングの嵌まった中指の先端にキスを落とす。
「新堂先生、私と…………して。婚約したんだから、いいよね?」
「何を、望むっていうんだ」
薄々そういう要望がやってくるのではと思ってはいたが。待ってくれ……。
「今度はキスのお願いじゃないから!その先の、もっと親密な行為。分かるでしょ?」
ユイの目を見つめたまま、スローで手を下ろして硬直する。
「先生、今、何を考えた?ヴァンパイアも、性欲ってあるの?」
相変わらず直球で来るね、この娘は!逆プロポーズの次はベッドに押し倒されるのか。
今のティーンエイジャーは進んでいる。ならば俺も直球で行こう。
「ユイは、初めてだろ。その初めての男が、人間でないのは……どうかな」
「な!何言ってるの?」
どうして知っているのか不思議そうだが、簡単な事だよ。教えないがね!
「それって、好きじゃなくてもいいから、まずは人としろって?」
「いや……そこまでは言ってないが、ユイにはきちんと人間としての人生をだな……」
俺の言い分は呆気なく遮られる。
「そんなの!もう手遅れでしょ。すでに人の道から外れてるわ。先生と出会った時点で」
大いに困った。無理なものは無理だ。こればっかりは……!
黙り込む俺を前に、ユイが口を開いた。
「取りあえず先に、最初の質問に答えて貰ってもいい?ヴァンパイアって、その……したくなるのか」
「率直に言えば、イエスだ。元々の人間の欲求はほとんど全てある。食欲、もね」
口角を上げた拍子に、牙が外気に触れた。いつもは見せないよう気を遣っているのだが。この時ばかりは、ユイも身をすくめたのが分かった。
まあ、多少恐れてくれた方がこの話が進めやすいだろう。
「俺だってユイを抱きたい。抱き寄せるたびに、その堪らない香りに我を失いそうになる。ヴァンパイアとしても男としても。何しろおまえは、とても魅力的なんだから」
「だったら!迷う事ないわ。お互いそう思ってるなら!」
俺は全ての感情を消して、ユイから体を一メートル程離した。
「ダメだ。それだけは。おまえを傷つけたくはない。もう二度と」
「傷つける?また指が私の皮膚に食い込むのを怖がってる?平気よ、そのくらい!これでも散々キハラに痛めつけられて来たんだから!」
「平気じゃないだろ!少なくとも、俺は平気なんかじゃない。俺達は交われない」
「……何でよ。新堂先生にできない事なんてないでしょ?」
「買い被り過ぎた。何でもできるなど。力をコントロールするのがどれだけ大変か、どう説明すればいい?見ただろ、最初の鬼を退治するところを……」
「ええ。見たわ。そうだとしても!」
「俺は人間ではない。普通の恋人同士がする事ができなくても仕方ない。この行為の事だけじゃない、食事も睡眠もだ。受け入れて貰えないなら、一緒にはいられない」
やはり人間とヴァンパイアが共に暮らすなど、所詮無理な話だったのかもしれない。
「何で今さらそんな事言うの?私が受け入れてないって思ってるワケ?」
「そうじゃないのか?」
「……全部全部、知ってるよ。受け入れたから、今一緒にいるんじゃない。もういい、分かった」
しばらく俯いていたユイだが、急に顔を上げて夜空を見た。
月明かりに彼女の白い肌が輝く。
「ユイの美しさだって、現実離れしていると思うよ。まるで人形のようだ」
「人形って……あんまり嬉しくないんだけど。それ幼い子に言う言葉よ?」
これは言葉の選定を誤ったか。なかなか今風の表現が思いつかない。何しろ俺は二世紀も前の人間なもので!
「言い直すよ、可愛い小悪魔さん!俺だって、好きすぎてどうかなりそうなんだ」
「先生、それ、言い直してないってば!」
「言葉では上手く言えない。口下手なんでね。言えるのは、俺の目にはユイが誰よりも美しく映ってるって事。この世で最も美しい、俺のフィアンセへ……」
そう言って、そっと口づけた。
愛の口づけの後、ユイは俺に体を預けて言った。
「本当はね、先生と……こうして一緒にいられるだけでいいの。新堂先生、大好き」
いつか、おまえの望みを叶えられる日が来る事を、今はただあの月に祈ろう。
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