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第一章 幸せのシンボルが呼び寄せたもの
アムネジア(2)
しおりを挟む例の邸宅に戻っても、やっぱりこんな家は記憶にない。車から降りて建物を見上げていると、すぐに促される。
仕方なく男の後に続いて廊下を進み、今度はリビングの前で立ち竦む。
「どうした、ここはおまえの家だぞ?遠慮するな、まあそこのソファにでも座れ」
拒絶するのもおかしい。気まずい思いをしながらも腰を下ろす。
男がコーヒーを淹れているようだ。香ばしい良い匂いが部屋中に行き渡る。
それを二つのカップに注ぐと、私の元に運んだ。
「さあ。これでも飲んで落ち着こうか」
出されたコーヒーを無言で睨んでいると、「安心しろ、何も入っちゃいないよ」とおどけたように返された。
「別にそこまで疑ってはいないわ。あのっ、それより!」
「ああそうか、自己紹介がまだだったな」
男は自分のカップをテーブルに置くと、居住まいを正した。
「私は新堂和矢、君の学生時代からの主治医であり、まあ、夫としておこうか。籍などは入れていないがね」
「それって、何かの偽装工作なんでしょ?私が受けた依頼なのよね?」
そう言って、今はない左手薬指のリングを思い浮かべる。
「少なくとも俺は真実だと思ってるよ。ユイが実際にどう考えていたのかは不明だが……。ああ、それともう一つ。主治医と名乗りながら何だが、俺は無免許だ」
「何言ってるの?なぜそんな事をわざわざ……言わなければバレないのに!」
「ユイは始めから知っていたから。今さら隠す必要もないと思って」
「新堂、和矢。無免許医……」
考えを巡らすうち、再び頭痛が襲う。頭を押さえる私の肩に新堂が手を掛ける。
「無理するな、いくらでも時間はある」
こんな彼の手の温もりに、どこか懐かしさを感じる。
「やっとおまえに堂々と触れる事ができたな。もう投げないでくれよ?」
「あっ、あの時はごめんなさい……でもそれは!あなたが技を返して来たりするからよ?」とっさの反動というヤツだ。
「単なるお遊びだと思ったんだ。まあいいさ。思い出したよ、朝霧ユイに背後から手を出すのがどれだけ危険か!」
それを知っていながらあんな行為を?新堂は笑っている。増々謎が深まって行く。
「さて、何から話そうか……」口元に手を当てて考える彼に、こちらから切り出す。「私はいつからここに?」
「三年目になる。おまえの静養を兼ねてこの家を買った。バリアフリーに改築してね。平屋建ても珍しいだろう?ここだけの話、探すのには苦労したよ」
「バリアフリーって……?」
一瞬沈黙した新堂だが、すぐに口を開く。「まあ、その辺の事はおいおいだな。ところで、ユイ、今いくつだ?」
「二十七だけど」
「……やっぱりか。残念だが、君はもう三十を越えたよ」
三十二になったと聞かされる。「なっ!何ですって?」
「どうやら、五年分の記憶と俺の事、丸々忘れてしまったらしいな」
私は再び頭を抱えた。そして自分の髪の長さに違和感を覚える。結ばれていた髪を解くと、ウエストの位置まで届くほどの長さだ。
「五年前はもっと短かったな」
私はため息をついてから言った。「信じたくないけど、五年経ってるって言うのは本当のようね」
「受け入れてくれて良かったよ」
「で、整理すると。私はあなたとここで暮らしていて、あなたは主治医で、夫……」
「ごめん、夫は言い過ぎた。恋人以上にしておこうか」
「仕事で色々と演じて来たけど、プライベートで急にそんな事言われても……そう簡単に受け入れられないわ」
「当然だ。それは分かってる、強要はしない。だが、おまえには側にいてもらわないと困るんだ」どこまでも真剣な表情から、ただの口説き文句ではなさそうだ。
「なぜかしら」
「忘れているだろうが、ユイは病気を患っていてね。ただ今は、ほとんど治りかけてる状態だが」
新堂は私が甲状腺疾患を患っている事や、これまでのケガの後遺症などを説明した。
言葉を失う私に新堂が言う。「安心しろ、もうほぼ心配ない。再発しなければね」
「再発、するの?」
「無茶をすればするかもな」
この病は完治する事はない。免疫疾患というのは厄介で、原因が分からない以上防ぐ手段もないのだそうだ。
「まあいいわ。それで、私はここで主婦でもしてたって訳?」
「そうだよ」
どうしても納得が行かない。この私が平凡な主婦に成り下がるとは!
「またしても、納得行かないって顔だな」
「私、どうしてケガしたの?」
「それは俺も知りたいよ。まあ察するに……」新堂が言い淀む。
「それって私が狙われてたりする?それとも、まさか先生が?」取りあえずこの人の事は先生と呼ぼう。
「いや、どちらでもないだろう。恐らくあの宝石だな」
これを受けて、もう手元にはないリングを思い起こす。
「あれって、マリッジリングなの?」
「そうじゃない。かなり昔に受けたプエルトリコ人からの依頼の報酬だ。ユイが興味があるならと渡しただけだったんだ」それがまさかこんな事になるとは!と続ける。
「そうなの……」
報酬が貴金属とは!どういう仕事のやり方をしているのか?
「あれを奪われまいと戦ってくれたんだろう。別にどうでも良かったのに!」
「どうでもって……。で、それ、一体何なの?」
「こっちが聞きたいよ!こんな物、奪われても良かったんだ。おまえの記憶を奪われるくらいなら!」
新堂がどこからかリングを取り出し、テーブルに乱暴に置いた。私はおもむろにそれを摘まみ上げて見つめる。
「そうすると、これ、また奪いに来るでしょうね」
「おまえにやった物だが、返してもらうよ。こんな危険な代物、渡せやしない!」
手を突き出して返却を促される。
「待って。これを持っていれば、必ずまた犯人が現れる。今度こそ……」
私は右手でリングを握りしめ、左手で自分の腰の辺りを探った。そこにいつもいる相棒、私の自信の源の定位置だ。
ところが……。「ない!」
「私の拳銃はどこ?」
新堂が黙り込んでいる。
「まさか、あなたが持ってるの?」そんなはずはないと思いつつも尋ねてみる。
「処分した、と言いたいところだが……」
しばらく思案した末に、新堂が立ち上がった。
「ちょっと待ってろ」そう言って奥の部屋に向かった。
新堂が消えた隙に、リングを自分の右手に嵌めた。左にしなかった理由は二つある。マリッジリングではないと言っていたのが一つ。もう一つは拳銃を握るのに邪魔だから。
少しして黒い箱を持って戻って来た。それを私に差し出す。
躊躇いもなく蓋を開けると、そこには正真正銘の私の相棒、コルト・コンバットパイソンが収められていた。
「何だか……、前より綺麗になってない?磨いてくれたの」
「俺がか?まさか!ずっと封印していたんだ。二度と開ける事はないはずだった」
コルトのあまりの美しさを前に、新堂の言葉など耳に入って来ない。
念のため分解して動作を確認する。「全く問題ないわ!ああ良かった」
コルトを元の姿に戻して抱きしめた時、新堂が口を開いた。
「ユイ、約束してほしい」
「何をかしら」私の冷めた視線を受けてもなお、彼はきっぱりと言った。
「人を殺すのだけはやめてくれ」
「それは約束できないわ。防ぎようがない場合もあるから」
こう反論すると、またも威厳を持って言い放たれる。
「本当はそんな物を使わせたくないが、妥協して返してやったんだ。言う事を聞け!」
先日の主治医としての言い分とは訳が違う。今回ばかりは黙って従うつもりはない。
私はすぐさま言い返す。「そんな事を言われる筋合いはない!」
「なぜそれが、おまえの元から消えたのか教えてやろう」
「何よ」
「ある人物からのメッセージだよ。これ以上好き放題やるなってな」
「誰よそれ」
「何て言ったか。そうだ、イヌワシだ……いや、ハゲタカだったか?」
新堂が言っているのがミスター・イーグルの事だとすぐに分かった。なぜ彼があいつの事を知っているのか?この男はやはりただの主治医ではないようだ。
「俺は武器を持たない主義だ。そう伝えた。殺されるのはごめんだからな!」
「伝えた?あいつに会ったの?」
「ああ。おまえが中東に発ったすぐ後に俺の前にのこのこ現れてな。ちゃんと朝霧ユイのお守りをしとけと釘を刺されたよ」
「中東って何の事よ。さっぱり分からないんだけど?」
焦り出す私とは相反して、新堂は余裕の態度だ。
「まあ聞け。出る杭は打たれる。少々はしゃぎ過ぎたってところか?それを取り上げたのは奴だ。だがすぐに送り返して来た。理由は分からん。全く余計な事を!」
「何だって言うのよ……」
「おまえの居所は把握していなかったが、携帯に連絡を入れるくらいは可能だった。教えてやらなくて悪かったな、その拳銃を世界中探し回っていたというのに!」
何を言われているのか分からず、もはや反論もできない。
やがて新堂がこう結論付けた。「もしかするとだが、奴はそれがおまえにとってどういう物か、知っていたのかもしれない」
私は改めてこの、青みを帯びた黒色の冷たい鉄の塊を見下ろす。
「これは、私の体の一部よ」
「ユイはそんな物必要ないくらい強いじゃないか。どうしてそこまでそれに頼る?」
「ええ……そうかもね」
コルトを左手に握ったまま、テラスに向かい窓を大きく開けて外を眺めた。空を仰げば、太陽はもう真上にある。
「先生は、なかなか強いみたいだけど……所詮はただの医者。こちら側の人間の気持ちを理解する事はできない」
新堂は何も言って来ない。私は続けた。「あなたはこれを、殺すための武器だと思ってるみたいだけど」
「これは私にとって、全く逆のものなの」
テーブルに戻り、ケースに共に収められた銃弾を取り出し、一発だけ込める。
「もちろん使い方によっては、ただの凶器に過ぎないけれど……」
ロシアンルーレットの要領で、ロットを勢い良く回転させる。間髪を入れずハンマーを起こす。カチリという音が室内に響いた。
そして開け放った窓から、庭に向けて一気にトリガーを引く。
沈黙を破る発射音に続いて微かに硝煙が立ち上り、火薬の香りが辺りに漂った。
発射された弾は、木に留まっていたカラスに命中。落下した獲物を一点に見つめる。
「なっ!!何と……」新堂が驚きの声を上げた。
「これは私にとって、殺さないための武器。命を守るための物なのよ。先生、あなたのメスと同じようにね」
「それは同意し兼ねる」即座に返された。
「あら。メスだって、使い方によっては凶器になるはず」
「一緒にされては心外だ!」やや声を荒げる新堂。
私は臆する事もなく続けた。「ふふっ、それは失礼したわね」
不敵な笑みを浮かべる私に、新堂は初めて恐怖のような感情を表に出した。これまでの余裕の態度とは違い、それはまるで知らない女を見るように。
「まだ私の事、全然分かっていないようね、新堂先生?」
「おまえは、俺の知っているユイじゃない。頭を打って人格まで変わったか」
「失礼ね。私は私よ」
「とにかく、ムダに死人を出さないでくれ。俺が言いたいのはそれだけだ」
「私をその辺の無能な殺し屋と一緒にしないで。そんな事はしないわ!あなた、本当に私の恋人だったの?こんなんじゃ信用できないわね」
「何度も言わせるな」
少し調子に乗り過ぎたか。また頭が痛み出した。「……っ。もういいわ……」
包帯の巻かれた右手で頭を押さえる。
「一応、おまえは絶対安静の身なんだ。大人しくできないなら、また薬で眠らせるまでだが?」無言で睨む私に構わず続ける。「とにかく、ここで大人しくしていろ。いいな?」
立ち上がって言い放った新堂が私を見下ろす。その視線は私の右手に注がれている。
「俺の事は信用できないんじゃなかったのか?それは返却していただこうか」
「いいえ。このまま身に着けさせていただくわ。敵を誘き寄せる大事な餌なので」
「だからこそ、返すんだ!」
「よく覚えてないけど、取りあえず、やられたらやり返さないと気が済まないの!」
「覚えてないなら、取りあえず様子を見るべきだろう。そいつがここにある事は、すでに知られているんだ。俺が預かっておくよ」
私の右手を掴んで無理やり奪われた。
「痛いっ!強く掴まないでよ、わざとやってない?」
反論したもののその先が続かない。それどころではないくらいに頭が痛み出した。
「お望み通り、大人しくしておくわ。今はね……」
「さあ、寝室へ行こう」
私は個室のリクライニングベッドに案内された。
「ここはおまえの部屋だ。好きに使ってくれ。痛むんだろ?鎮痛剤を打ってやろう」
「……」
間違いなく睡眠薬も混ぜてあっただろう鎮痛剤を注射され、私はすぐに眠りについたのだった。
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