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第六章 揺るがぬココロ

43 募りゆく不安

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 とある午後。ユイとダンは、飽きもせず今日も元気に言い合いを繰り広げる。

「また勝手にそのような事を…。分かりました、どうぞご自由になさってください。ですが、何かあった時は、私に落ち度はなかったと証言してくださいよ?」
「あら保身?何を今さら!ラウルに怒鳴られるのはあなたの役目でしょ」
「ええそうですとも。私はいつでもラウル様の全てを受け入れる覚悟です」
「あなたも相変わらずね~。奥さん、ラウルに嫉妬してるんじゃない?」

 ダンにはユイの言う意味が分からない。
――なぜ妻がラウル様に嫉妬など?共に崇拝しているというのに!――

 その崇拝するラウルが声を聞きつけてやって来る。
「何を騒いでいる?ユイ、あまり興奮するな、胎教に良くない」
「ダンが分からず屋だからよ」
 ユイの言葉にラウルの鋭い視線がダンに向くも、ダンは勢いのままユイに言い返す。
「っ!分からず屋はどっちですか!そのままお返ししますぞ!」

「ダン!」視線だけでなくラウルの叱責も飛んで来た。
「…ラウル様」
「いい加減にしろ。ユイは今大事な時期なのだぞ。分かっているのか?」
「ですから申し上げているのですっ!」
 珍しくダンに切実な訴えを返され、ラウルが動きを止めた。

 さすがのラウルもユイに問いかける。
「ユイ。一体何があった?何かしようとしていたのか?」

「ユイ様はこっそり射撃の訓練をなさるおつもりだったようです」
「ちょっとダン!何でアンタが答えるワケ?」
「ユイ」
「…はい」
「本当なのか?」
「…。はい」

――こんなに大ごとにされる話じゃないんだけど?――
 そう思いつつも、妊婦のする事ではないと分かってはいる。

「ユイ様はこうおっしゃいました。自分の子ならば、銃声は胎教に良いはずだと。何というこじ付け!」
「…」
 ラウルが沈黙している。
「だってそう思わない?私が心地いいと感じる事は、この子もそう感じるって!…思わない、よね…」
――こっそりやるつもりだったのに?ってか、ヴァシルの時はやってたし!――
 今回、たまたまダンに見つかってしまったのだ。

「なぜ突然そんな事を考えた?」
「そんなの、突然なんかじゃないもの…」
 それきり黙り込んでしまったユイを見て、ラウルがため息をついた。
――情緒が不安定になっているのか。何か別の方法で気を紛らわす必要があるな――
「ダン。お前はもう下がっていい。後は私が」
「失礼いたします」

 去って行ったダンに向かって、ユイが小声で罵る。「ダンのバーカッ!」
「ユイ」
「…はい」
――あーあ…。私って何て子供なの?4人目が出来たって言うのに――
 どこまでも冷静なラウルを前にして思う。何と自分の大人げない事か!と。

「ゴメンなさい、何かイライラしちゃって…。完全にダンに当たってた。後で謝りに行くわ」
「別に謝らなくていい。ユイは悪くない」
「何でそんなふうに言えるの?我がまま言って困らせてるのは私よ?」
「自分の体が自由にならないというのは、ストレスの溜まるものだ」
 ユイの隣りに座り、抱き寄せてラウルが言う。
――私には妊婦の心理状況は分からないが、さぞや苦労の連続なのだろう――

「私が代わってやれたらどんなに良かったか…」
「ラウル…。大丈夫、その気持ちだけで嬉しい」
「ユイ、銃声ではなく、音楽でも聞こう。その子と3人で」
「そうね、賛成」

 ユイはようやく笑顔になる事ができた。
――これ以上射撃の腕が鈍るのを食い止めたかったんだけど…今はいいや。それ以上の大仕事が待ってるんだもの――


 射撃訓練を諦めたユイだが、軽いトレーニングは続けている。

「食べてばかりじゃ太り過ぎちゃうでしょ?」
「ですが、無理は禁物ですぞ?」
「ダンは過保護すぎるのよ。そんな見た目のクセに!」
「優しい男を目指しておるものですから!」
「それは初耳~!」

 例のごとくダンはユイに付き纏う。ヴァシル妊娠の時からの恒例となっている。
 もちろん煙草を吸ったりはしないが、トレーニングが過度になり過ぎないよう見張っているのだ。

「…うっ」
 突然蹲ったユイにダンが駆け付ける。「ユイ様!どうされましたか!」
「ちょっと、声、デカい…。少し息が切れただけよ」
「少しお休みください」
 ダンに支えられて、ユイは休憩スペースに腰を下ろす。
「お顔の色が良くないように見えます。今日はもう終わりにしましょう」
「…そうね。何だが疲れたわ」

 珍しく反論されずに終わり、ダンは不安になる。今となっては反論してこそユイなのだ。
――本当に具合が悪いのだろう…。ラウル様にご報告せねば――


 部屋に戻ったユイは、ぐったりとソファに寝そべる。
「あれしきの事でこんなに疲れるなんて…。何かいつもの感じと違う」
――この息苦しさ、酷くなってる?…。ラウルの勘は、当たるのよね…――
 事ある毎にラウルが心配する心臓の病を、ユイも疑い始めた。

 もしそうならば、出産は難しいかもしれない。
「そんなのイヤ!…新堂先生、助けてっ」
 こんな事を口走った後に思う。
――病が確定した訳でもないのに、来てくれる訳ないよね…あの人、世界一忙しい人だから!――


 夕食の時間となり、ダイニングに5人が揃った。

 子供達はずっと話題のゲームの話に夢中だ。
「お前達。お喋りは終わりだ。食事は静かに摂るものだ」ラウルが静かに指摘する。
「は~い」子供達はすぐに応じた。

 不意に隣りのユイに目を向けるラウル。
「…どうした、ユイ。顔色が良くないな」
「ちょっとトレーニング張り切り過ぎちゃったかな」
 おどけて返すユイだが、ラウルは真顔だ。「明日は定期検診の日だ、念入りに診てもらおう」
「…ええ、そうね」

 その後料理が運ばれてくるも、なかなか食が進まないユイ。
――おかしいな、疲れてるのに…――

「ふぅ~…」意図せずユイの口からため息が漏れる。
「気分が悪いのか?」ラウルが心配そうに様子を窺う。
「そうじゃないんだけど…食欲なくて。ごめんなさい、先に休むわね。皆はちゃんと全部食べるのよ?」
「ユイ、大丈夫?」父そっくりの顔で心配そうにするヴァシル。
 それに続き、ラドゥが言う。「ユイの分、ボクもらっていい?」
「どうぞ」ユイが笑って答える。

「おいラドゥ!少しはユイを心配しろよ!」ムッとした顔でヴァシルが言った。
「いいのよヴァシル。残したらもったいないし」
 この言葉にラウルが反応する。「もったいない、とは?」
「ムダになるって事。捨ててしまうくらいなら、誰かに美味しく食べてほしいわ」
「ユイ、安心して!ボクが美味しく食べるから!」

 食いしん坊の息子に再びユイが微笑んだ。

 ユイがダイニングから出て行く姿を見届けて、シャーバンがポツリと言う。
「ユイのお腹の子も、食べたくないって思ってるのかな。食べないと大きくなれないのにね?」
「そうだな…」
 鋭い一言にラウルも頷く。
――ここは嫌がっても入院させるべきか…――

 ここ最近の食卓は、男4人となる事が増えていた。

・・・

 病院にて、ベッドに横たわり点滴治療を受けているユイを囲んで、医者とラウルが会話している。

「血中の酸素濃度が低下しているようです。疲れやすかったり、気分が優れないのはそのせいですね」
「なぜ低下している?妊婦は血液量が増加するのだろう」
「良くご存じで…。もしかすると周産期心筋症の可能性が…」
「もしかするとではなく調べろ」イラ立ち交じりにラウルが言い放つ。
――何を悠長に語っている?ユイが苦しんでいるというのに!――

 その怒りを察したユイが宥める。
「ラウル、そういうのは判断が難しいものなの。無理言わないで」
 ユイのフォローを有り難く思った医師は、肩を竦めてユイに頭を下げた。
――これだからマフィアはキライだっ!奥様が穏やかな人で良かった…――
 今はそう見えるこの奥方も、残念ながら決して穏やかな方ではない。

「ではどうするのだ。このまま患者は放置か?母体が酸欠ならば腹の子もそうでは?発育に影響が出るだろう」ラウルは冷静に正論を語る。今はまだ冷静に。
「周産期心筋症は妊娠後期に発症する事が多いのです。奥様はまだ初期ですし、定期的に心エコーで確認しながら様子を見て…」
「もういい。お前には頼まない。ユイ、その点滴が終わったら帰ろう」
「ラウル!少し落ち着いて。あなたらしくないじゃない。私は平気よ?」

 こう訴えるユイに目を向けて優しく手を握ったラウルだが、さらに不安が募る。
「冷たいではないか…」
――ああ、私に病を透視する力があれば…!――

 ラウルの心の嘆きを察したかのように、気配を消していたダンが唐突に声を発した。
「ラウル様、ドクター新堂を呼びましょう」
「私もそれを考えていた」
「あの人は来ないわ。難病でもないしね」
「なぜ言い切れる?ミサコと同じ病だったらどうするのだ」
「そうです!来るかどうかは、ご本人に委ねてもよろしいのでは?」

 ダンはこう言ったが、ラウルは思う。
――私の依頼を断るなど許さん。…だがあの男は来る。ユイのためならば――

「ダン。新堂に連絡を入れろ」
「かしこまりました」
 ダンは答えるなり病室を出て行った。

 会話を共に聞いていた医師が、おずおずと尋ねる。
「あのぉ~…それで、どうなさいますか?」
「帰るのはやめだ。このまましばらく滞在する。この先は新堂という者が担当するが、ここの機材や諸々を使用する許可をくれ」
「え、と…その方は一体?」
「ユイの主治医だ」
「そうでしたか!でしたら安心で!かしこまりました!」

 マフィアの奥方の担当を外れ、重責から解放された医師は途端に明るい声で答えたのだった。

・・・

 この日新堂は、石油王からの依頼でドバイにいた。
 オペを終えて、滞在先の超高層五つ星ホテルに戻ったところで、携帯電話が鳴る。

「この番号はルーマニアか?…はい、新堂ですが」
 出てみると、聞き覚えのある低音ボイスが鼓膜を刺激した。
「これはダンさん、どうもお久しぶりです」

『どうも。今よろしいですか』
「ええ。ちょうど一息ついていたところですので」
『では一旦切ります』
「はい?今大丈夫ですよ?」
『ですから、すぐにラウル様より掛け直します』

「はあ…分かりました」
 すぐに電話が切られた。

「先に用件を言えって!何なんだ?全く…」
 こう文句を付けつつも、新堂の中に湧き上がった嫌な予感は的中する事になる。
 すぐに再び携帯が鳴り出す。

「もしもし」
『新堂、久しぶりだな、フォルディスだ』
「ご無沙汰しております。私に連絡をしてくるという事は、ユイさんに何かありましたか?」
『そうだ。少し前から心機能が低下している。一度お前に診てもらいたい。頼めるか?』
「詳しく調べたんですか?」
『ユイは現在妊娠中なのだ。何かと制約があってまだしていない』
「そうでしたか…」

 しばし沈黙が流れて、ラウルが口火を切る。
『もう一度言う。ユイと腹の子に危険が及ばないよう、お前の力を貸してほしい』
「周産期の患者は専門外なんですがね」

『まさか、自信がないのか?専門外だから?お前はその程度だったか!』
「聞き捨てなりませんね、そんな事を言ったんじゃない。分かりました、行きましょう。今の仕事が片付き次第になりますが。緊急性はないのでしょう?」
『今のところは。それでいつ終わる?』
「あと、そうですね…問題が起きなければ3日程でしょうか」

 少しの間の後に返される。『お前は今どこにいるのだ?』
「ドバイです。ルーマニアでしたら5時間半あれば着くでしょう」
『そうか。ではそれでいい。空港に着いたら連絡をくれ。すぐに迎えを行かせる』
「分かりました」

 電話を終えて、新堂は大きくため息を吐いた。
「あれからもう10年か…。そりゃ、子供もできるよな。俺は何を動揺してるんだ?バカバカしい!」
 ラウルとユイの子になど興味はない。さらに幸せいっぱいの二人が目に浮かび、顔をしかめる新堂。

 だが問題はそこではない。ラウルは何も言わなかったが、自分に依頼をして来た理由は薄々分かっている。
「まだ分からない。だがもし例の遺伝性の心疾患だとすれば、子供は諦めるしかない」
 依頼内容には、ユイだけではなく宿している子も含まれていた。

――もう、ユイを助けてくれ、ではないのか…――
 愛する女よりオペの出来映えを気にする新堂でも、ユイの命が懸かっているとなると話は別である。

「フォルディスにしたら跡継ぎの方が大事か。まあ、そうかもな!」
 これが第1子と思い込んでいる事もあるが、子に対しては特別な感情があった。
「俺には絶対に手に入らない…どんなに大金を積んでも!現在の医学では不可能」

 新堂は遺伝子疾患により子を成せない。恋愛から距離を置く理由もここにある。

 孤児である上にこの事実。普通の男ならば崩壊するところだが、彼は違った。
 あらゆるコンプレックスは逆に彼を奮い立たせ、結果今のスーパードクターが誕生したのだから。
 そしてどんなに淡白で情に薄くて冷酷でも、この男の性根は腐ってはいない。

 ユイに出会った事で、これまで心の奥底に隠し続けていた願望が、徐々に明るみに出ようとしていた。

「またも厄介事に巻き込みやがって…いい加減にしてくれ!」
 それも今度は一番足を踏み入れたくない場面に立ち会わねばならない。

 新堂はさらなるため息を吐き出したのだった。

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