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第三章 試されるキズナ
20 まともなマフィア
しおりを挟むユイがフォルディス邸に戻っても、屋敷の様子に何ら変化はない。
ラウルはボスの業務を放棄してユイに付きっ切りのため、不在にしているのと変わらなかった。
「はぁ~。ユイ様が帰って来られたというのに、ボスは全然顔を出して下さらない。張り合いがない!」
「ユイ様、ボスとずっと過ごしてらっしゃるみたいだが、何をしてるんだ?」
「もしや子作りとか!」
「…バカ野郎っ、式もまだ挙げてないんだぞ?そんな事言って殺されるぞお前っ」
部下達は庭から遠巻きにボスの部屋を眺めながら、こんな話に花を咲かせる。
「きっとまだ事故の後遺症とかあるんだよ。ボスは献身的にユイ様のお世話を…なんて感動的なんだ!」
「お前、最近ダン化してるぞ?気づいてるか?」
「…マジ?」
こんな会話を地獄耳がキャッチした。
「俺がどうした?」
「うげッ、ダン!…どっから出て来た!?」
「ペチャクチャ喋くってないで仕事しろ!ユイ様のシゴキが恋しいのなら、この俺がしごいてやるぞ」
「遠慮しますっ!」
即答の部下達。
そんな面々を眺めやり、ため息をつくダン。
――いい加減、こいつ等にもユイ様の状況を説明しないとならんな。…ま、いいか。ラウル様がご判断される事だ――
あっさり答えを出したのは、勝手な事をするなと怒鳴り散らすラウルが見えたからだ。素晴らしきかな予知能力、である。
時を同じくして新堂の滞在する部屋では、ロシア語が漏れ聞こえていた。
「…とにかく今は、どちらからの依頼も受け兼ねます、他を当たっていただきたい!」
携帯を耳から離して新堂が舌打ちする。
「しつこい!」
こんな光景はいつぞやのユイと重なる。
世界各国から新堂和矢に舞い込む依頼は後を絶たず。
しかし今は身動きが取れない。いつ何時ユイに異変が起こるか分からないのだ。以前ラウルから、依頼の最中に他の依頼を受けるなと念を押されたからでは決してない。
「ユイをあの男に任せておく訳には行かない…だが」
ラウルは本当にユイの世話を一人でこなしている。口だけではなかった。ユイがかなり丁重に扱われている事は、日常の様子を見ていれば分かる。
新堂が当初心配した性事情も、今のところは実行されてはいないようだ。それが分かるのは毎朝の診察だ。めくるめく夜を過ごしたベッドの状態がどういうものか、知らない新堂ではない。
「案外、まともな男なのか?マフィアのクセに!」
マフィアに偏見を持つ新堂はまだ信用できない。ラウルという男の本質を知らないのだから仕方のない事だ。
以前の滞在時との違いはダンの態度だ。
新堂がユイに恋心がないと勝手に確信したダンは、現在全くの無警戒。むしろ今の方が危険な状況なのだが…。
もっとも、男女の機微に疎いダンには知る術はない。
何の変化もなく3週間が過ぎた。この間、ユイの体調に異変もなく、例の殺し屋の顔になる事態にも陥っていない。
だが安心していると問題が起こるのが世の常である。
深夜3時過ぎ。ラウルは隣りに眠るユイの荒い息遣いに気づき目を覚ました。
「…ユイ、どうした?」
仰向けに寝ているユイは、ベッドに入った時と全く同じ姿勢だ。違うのは表情だけ。とても苦しそうにしている。
「ユイ、どこか痛むのか?」
片肘を付いて顔を覗き込むも、苦し気な吐息だけでは何も判断できず。
ラウルは能力で部屋の照明を点けると、上体を起こして再びユイを観察する。
「ううっ…、んん」
光に反応したのか、吐息に交じって声が漏れて来た。苦痛の表情がさらに顕著になる。
異常を察したラウルは立ち上がると、サイドテーブルの電話を手に取った。
「…新堂、遅くに済まんが来てくれ。ユイが苦しんでいる」
短い返事が聞こえて電話を置く。
「ユイ、すぐに新堂が来る。もう少し耐えてくれ…」
――退院以来、こんな事は初めてだ。頭のケガに何か問題が?――
ユイの手を握りながら思案していると、新堂がやって来た。
ドアはノックされずに静かに開かれる。
「失礼します」
「早く診てやってくれ」
ラウルがユイの手を離して布団を捲る。
寝具にはシミ一つない。捲られた先からは石鹸のような心地良い香りが漂った。
「こうなる前に何か兆候は?」
「いや。何も。いつも通り静かに眠っていたのだが…」
「いつぐらいからか分かりますか?」
「苦しみ出したのは、恐らくそんなに長い時間ではないだろう」
ラウルに端的に質問しながら診察が進められる。
脈拍と呼吸数が早い以外、特に異状は見当たらない。
――とうとう手を出したのかと思ったが…違うようだ――
そうであったなら、大いにラウルを責められたのにと新堂は残念に思う。
この場合、共に寝ていたからこそ早期発見に至った訳で、むしろ感謝しなければならない。
「ユイ、頭は痛むか?苦しい箇所に手を当ててみろ」新堂は日本語に切り替えて質問を始める。
そんな様子を後方で静かに見守りつつ思うラウル。
――その言葉が理解できるのなら苦労しない!――
ところが、ユイの手が持ち上がって左側頭部に当てられたではないか。
「よし。そこが痛いんだな。分かった。今楽にしてやるから、もう少し頑張れ」
「ううっ、うう…!」
新堂は持参した愛用のドクターズバッグから、鎮痛剤の入った小瓶と注射器を取り出すと、手際良く処置を進めた。
「さすがに今回は拒絶されずに済んだな!」
肩を竦めてそんな事を言う新堂を眺めながら、ラウルの思案は続く。
――ユイは、新堂の指示には応じるのか。いや、もしかすると日本語だからか――
自分が何を言っても反応を示さないのは、言葉を理解していないだけかもしれない。こんな結論に達する。
「落ち着いてきたようです。もう大丈夫ですよ、フォルディスさん。…フォルディスさん?」
新堂の言葉に我に返り、ラウルが答える。「ああ…。遅くに呼び出して悪かった」
「いいえ。そのためにいるんですから遠慮なさらず」
「もう戻っていい。ご苦労だった」
急かすように部屋から追いやろうとするラウルに、新堂が付け加える。
「念のため検査した方がいいですね。新たな血腫などが出来ていると厄介なので」
「分かった。明日病院を手配させてすぐに対応する」
「お願いします」
「では」
新堂の目と鼻の先で、バタンとドアが閉じられた。
「やれやれ…!邪魔して悪かったな」
小さく首を左右に振った後に、ため息が零れる。このため息の理由は単純だ。同じベッドで眠る二人を目の当たりにしたのだ。心穏やかでなどいられない。
「在宅医療が聞いて呆れる!なぜ患者とベッドを共にできるんだ。バカか?」
耐え切れずにこんな小言が口から漏れ、ハッとして振り返る。
薄暗い廊下には誰の姿もない。
「こんな真夜中じゃ、さすがのダンさんも顔を出さないよな、はは…」
新堂は力なく笑いながら部屋に戻って行った。
翌朝、いつもの起床時間になってもユイは目を覚ましていない。
定刻の7時半、新堂がノックと同時にドアを開ける。そこにはやや寝不足気味のラウルの姿があった。
「おはようございます。あれから眠れましたか?」
「おはよう。…あんまり。ユイは静かに寝ていたよ」
「あの時間に強めの鎮痛剤を入れたので、まだ起きないでしょう」
「そうか…」
「勝手に診察しますので、フォルディスさんはそちらで寝ていていいですよ」
「いや…大丈夫だ」
まだベッドにいたラウルが立ち上がった。きちんと寝間着を身に着けている。
――…何を当たり前の事にホッとしてるんだ、俺は?――
自分がイヤになる新堂だが、気を引き締めてユイの診察を始める。
「…ダンか。私だ。急ぎでユイの検査をしたい。病院の手配を」
ラウルはサイドテーブルの電話を取って指示を出す。
「は?今日中に決まっているだろう。そんなに遠方でなくていい、優秀なドクターはここにいるのだ。設備さえ整っていれば。入院していた病院でもいい」
イラ立たし気に電話を置いたラウル。
思わぬ大声を出していた事に気づいて謝罪する。「済まん、騒音を立てたな」
「いえ。できればユイが眠っている間に済ませたいのですが…可能でしょうか」
新堂はもう一度念押しする。あの病院は警察病院だった。避けたいのは皆同意見だが、この際選り好みしていられない。当然ラウルも理解している。
「もちろん可能だ。ではすぐに朝食の用意をさせる」
こうして二人だけで朝食を済ませ、すぐに病院へと向かう事となる。
――最新設備の整った病院を探したかったが、時間切れか…もっと早くおっしゃっていただければ!――
何事も完璧にこなしたい有能執事(兼務)のダンは大いに悔しがった。
病院に到着しても、ユイが起きる気配はない。
「今のうちに血液検査をしておこう」
新堂がユイの腕に採血針を刺す。
その様子を見守りながらラウルが尋ねる。「他には何を?」
「X線撮影をします。…いや、CTにしましょう。より細かく調べたい」
――どんなに細かく調べても、微細な血種は見つけられないがな…――
「という事でフォルディスさん、済みませんがリングを外していただけますか」
「分かった」
ラウルがユイの左手から何事もなくリングを抜き取った。
――おお、本当に取れた。あんなにビクともしなかったのにどういう仕組みだ?――
新堂が首を傾げる中、ラウルは平然とリングをポケットにしまう。
「何か?」
「いいえ!ではフォルディスさんはここで少しお待ちください」
「ああ、よろしく頼む」
寝かせたストレッチャーごと部屋を出て行くのを、ラウルは静かに見送った。
「ようやく二人きりになれたな、ユイ?」
検査室にて淡々と作業を進める新堂。耳元でこんな冗談めいた言葉を囁いた時、ユイが身じろいだ。
「おいおい!反応してくれなくていい、もう少し待て、まだ起きるな?」
目を覚まして暴れられたら厄介だ。新堂は軽めの鎮静剤を追加した。
検査を終えてラウルの待つ部屋へ戻る頃には、ユイは覚醒していた。
「終わったか。ユイ、目が覚めたのだな。心配ない、ただの検査だ。もう帰れる、そうだな?新堂」
「はい。血腫などは確認できませんでしたのでいいでしょう」
――一まずは一安心だな――
不安げに瞬きを繰り返しているユイを二人が見下ろす。
ラウルがユイの左手にリングを嵌めた。その様子を見つめる新堂。
「では行くぞ。長居は無用だ」
ラウルの言葉にハッとなって頷く。「そうですね、ユイ、歩けるか?」
ユイに手を差し出した新堂を遮るように、ラウルが割って入る。そして慣れた様子でユイを立たせて支えた。
こんな二人の男の無言の対立など、今のユイにはどうでもいい。今すぐにこの恐怖をかき立てる場から去りたいと、ユイの本能が訴えている。
それは態度にも表れる。ドアだけを見つめ、ラウルの支えなど無視して前進する。
「そう慌てるな。今日のユイは珍しく積極的だ」
「よほど病院が嫌いなんでしょうね!」
二人は口々に言ってユイに笑みを向けた。
来た時とは違い、きちんと座席に腰を下ろしたユイと共に早々に屋敷へと戻る。
「腹は空いていないか?すぐに食事を用意しよう」
ラウルの言葉に、ユイは自分からダイニングに向かって歩いて行く。
「大分生活にも慣れてきましたね。フォルディスさんの献身的なサポートの賜物です」
「頭痛が治まったようで何よりだ。結局原因は何だったのだ?」
ユイの後ろを付いて歩きながら二人が会話する。
「きっかけが何かあるはずですが…まあ、怖い夢でも見たんでしょう」
――そんな事なのか?――
新堂の返答に、思わずラウルの足が止まる。
「フォルディスさん?」
「…ああ。そういう事ならば、私には何もしてやれないな」
「そうです。あなたに落ち度はありません。感情が動いている証拠とも言えます。前向きに捉えましょう」
「では今後も起こり得ると?」
「今までなかった事の方が不思議ですよ」
再び歩き出した二人がダイニングに入ると、ユイはすでに自分の席に大人しく座っていた。
「どうやら腹ペコのようですね」
「ああ。お前はどうする?昼食にはまだ早いが」
「私はまだ結構です。フォルディスさんは一緒に食事を摂ってください。朝食、あまり召し上がっていなかったようですので」
――良く見ている…――
「ではそうしよう。ユイも一人で食べるよりいいだろうしな」
ここで新堂は別行動となった。
当てがわれた部屋に戻ると、持ち帰った検査結果を広げながら考えを巡らせる。
「脳の後遺症に惑わされて、他の疾患を見逃しては困るからな…」
そういう理由で血液検査を行なったのだ。今のところ異常は出ておらず、改めて一安心する。
「それにしてもユイのヤツ、3週間ごとに何か起こるな。このサイクルには何か意味があるのか?」
事故から3週間で意識が戻り、さらに3週間後に激しい頭痛。次の3週間後が恐ろしい。
――3週間…21日周期か。生理周期にしては短いし。特に意味はないのか――
そんな事を考えていた矢先、こんな事が起こる。
その日ユイがトイレに入ると、中から壁を叩く音が響いた。こんな事は今までなかったため、ラウルは驚いてトイレに駆け込む。
「ユイ!どうした?」
躊躇いもなく扉を開けて中を覗き込むと、便座に蹲ったユイの頭しか見えない。
「ユイ?腹でも痛いか」
もう一歩踏み込んでしゃがみ込み、ユイの顔を窺う。
表情からは相変わらず何も読めないが、その視線の先に目を向けると、ショーツに赤い染みが付いているのに気づいた。
「…ああ、そういう事か。すぐにメイドを呼ぼう」
――さすがに私はしてやれない。対処の仕方を聞いておかねば――
さすがのラウルも女性の生理事情は把握していない。
急いで室内の電話を取り上げて、メイドに言いつけた。
「至急、サニタリーグッズを持って来てくれ」
そして再びトイレに戻る。
「そのまま少し待っていてくれ、ドアは閉めておく」気配りも忘れない。
部屋の外では、バタバタと忙しなくメイドが走り回っていた。
新堂もその異変に気付く。「何が始まった?」
そっとドアを開けて廊下を覗くと、ちょうどメイドがラウルの部屋に何かを持って入って行くところだった。
非常事態ならば自分が呼ばれるはずだが、と新堂は首を傾げる。
「呼ばれていないのに行く事もないだろう」
しばし様子を窺っていると、再びメイドが部屋から出て来た。
手にしていた洗濯物らしき衣類がチラリと見えて、すぐに何が起きたかを察する。
「そういう事か。ご苦労様!」
状況が分かり、そっとドアを閉じる。
女性同士の方が勝手がいい事もある。それらの事は入院中もナースに任せていた。
例え医者だろうが知識があろうが、手を出すべきでない。それがエチケットというものだ。
「あのフォルディスという男は、見掛け倒しじゃなく本物の紳士なのかも?」
性欲の塊の野獣から、紳士に格上げされたラウル。
あの男ならば、ユイを幸せにできるのかもしれないとすら考え始めてしまう新堂。
ラウルがマフィアであるという事を忘れかけていた。
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