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第三章 試されるキズナ

19 虚ろな瞳に映るもの(2)

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 ダイニングに入ると、すでに新堂が席に着いていた。

「私までご一緒して本当によろしいんですか?」予想外だった新堂が再確認する。
 軽く手を上げて、構わないと答えるラウルの意識はユイにしかない。
 そんな様子を眺める新堂。ユイの無反応にめげずに立ち向かうラウルの姿が、なぜか煩わしい。
――いつ根を上げるか見ものだな!――

 運ばれてきた料理に、真っ先に手を出したのはユイだ。目の前の皿に乗った彩り豊かなテリーヌを手掴みで取る。

「今日も始まったな!」新堂がそう呟いて笑う。

「違う、ユイ、そこにあるフォークを」
 口に運ぼうとした矢先にテリーヌを取り上げられ、ユイがラウルを見る。明らかな抗議の視線だ。
 皿に戻されたテリーヌに視線を戻すと、また手を伸ばそうとするユイ。
 透かさずラウルはその手を取って握り締めた。
「…!」またも妨害され、ユイは見るからにムッとしている。

 それを見ていた新堂は堪らず吹き出した。こんな光景は病院でも多々見受けられたのだが。
――何度見ても笑える!――
 生真面目な顔の二人がこんなコントのような事をしているのが、妙にツボに嵌る。

 ラウルは笑われても怒る事もなく、至って真剣な顔で言う。
「新堂。私達に構わず食事を進めてくれ」
「では遠慮なく」

 やがて、頑固なユイにようやくフォークを持たせる事に成功したラウルは、自分の皿にあるテリーヌを一口サイズに切り分けて口に運んで見せる。
「こうやるのだ。分かったな?」
 ラウルの優雅な仕草を見て、ユイはそれを真似る。ようやく念願のテリーヌはユイの口に収まった。

「しかしなぜ手掴みなのだ?今までそんな食べ方はしていなかった」
「これまでの習慣という以外にも、原始的な発想が生まれるのでしょう」
 大人しく食事を始めたユイに安堵して、ようやく食べ始めたラウルがこんな会話をしていると、またも問題が起こる。

「…ユイ、ナイフは必要ない。それ以上切り分けなくていい」
「病院ではナイフは登場しなかったからな…」
 新堂の呟きが続き、二人は無意識に身構えた。
 ユイがナイフを手にしている。持ち方も不自然だ。まるで子供が握るように左手で掴んでいる。

――やはり殺し屋の記憶が戻ってしまったのか?――
 ラウルが疑ったと同時に、ユイはナイフを持った手を振りかざした。
 危険を予感したラウルは、能力でナイフをユイの手から弾き飛ばす。

 音を立てて床に転がるナイフに、何が起きたのか分からず固まる新堂。この時にはもう、ユイから殺し屋の顔は消えていた。
 ユイは何度かゆっくりと瞬きをすると、何事もなかったように食事を続ける。

「…今、何が起きたんです?」
 ナイフはあらぬ方向に飛んで行った。ユイが投げたにしてはあり得ない方向に!
 首を傾げているのはもちろん新堂だけだ。
「気にするな。お前も食事を続けてくれ。おい、今後食卓にナイフは置くな」ラウルは近くで待機していたメイドに言いつける。

「かしこまりました!申し訳ございません!」
 平謝りしたメイドが、大慌てでナイフを回収して消える。

 そんなメイドの怯え切った様子に、しばし呆気に取られるラウル。

「私は伝達しただけなのだが…そんなに酷く叱っていたか?」ラウルは新堂に聞いてみる。本当はユイに聞きたいが、答えてもらえないのが分かっているためだ。
「ええと…どうでしょう」
 曖昧な回答しかもらえなくても、ラウルはどうでも良かった。考えるべきはそこではない。

――問題が一つ発生してしまったな…新堂には伝えておいた方がいいだろう――

 ユイ・アサギリの強さは半端ではない。善悪の判断も付かない状態では、何をしでかすか分からない。最悪は命の危険にも繋がる。警戒心は持つべきだ。


 食事を終えて、陽の当たるテラスに出て日光浴を始める。これは新堂の勧めだ。
「極力外へ出してください。太陽光を浴びる事は精神的安定にも繋がりますので」
「ああ、そうしよう。ところで…」

 ラウルが話し始めようとしたところで、新堂が先に言い出した。
「フォルディスさんはもう分かっているでしょうが、朝霧ユイというヤツを甘く見ない方がいいですよ」
「それはどういう?」
「さっきのナイフもそうですけど!まあ、私なんかよりも断然お強いフォルディスさんなら、心配ないですね」

 これに関してはラウルが有利だ。どうしたって殺し屋朝霧ユイは新堂の手には負えないのだから。

「…」ラウルは思わず無言になる。
 それはまさに今自分が忠告しようとしていた事だったから。
――これは驚いた。この男、すでに把握していたか…――
「お前も気をつける事だ」
「もちろんです。できるだけ武器になるような物を側に置かないでくださいね?それで今、彼女の銃は?」

――俺のメスは常に目の届くところにある――
 こう心で再確認してラウルの答えを待つ新堂。

「私が保管している。弾も抜いてあるから心配ない」

 これを受けて、新堂は気づかれない程度のため息を漏らした。
――やっぱりまだ、あの拳銃を持っていたんだな…――
 どこかで持っていない事を願っていた新堂。医者である彼にとって、この武器はどうあっても容認できない。

「こっちの気も知らず、気持ち良さそうだな…!」新堂がユイに目を向けて言った。
 籐の椅子に深く腰掛けたユイが、背もたれに体を預けて居眠りをしている。
「このあどけない顔からは想像もつかない人格が、こいつにはある。フォルディスさんとお似合いですよ」
 言い終えるや、新堂の懐からバイブ音が響いた。
「電話だ、また依頼か…あ、もちろん断りますよ?では私は先に失礼します」
「ご自由に」

 席を立った新堂が電話越しにまくし立てたのはフランス語だった。

「あの男も忙しい身のようだ」
 新堂の嫌味の数々をラウルは誉め言葉と受け取る。忙しない様子に同情さえして心の余裕を見せつける。

――お似合い、いい言葉だ。私の相手はユイしかいない――

 心地良い風がテラスに吹き込んで、ご機嫌なラウルの淡い金の髪と、眠り込むユイのロングウェーブを揺らして行った。


 ユイが目を覚ましたのは日が傾きかけて来た頃だ。
 目覚めるなりスクッと立ち上がったユイを、ラウルが見上げる。

「ユイ、目が覚めたか。気温が下がってきた、そろそろ中に…」
 言いかけて、ユイがソワソワと体を動かす仕草を見てピンと来る。
「…ああ、トイレタイムだな。行こう」
 差し出したラウルの手を珍しくガッシリ掴む。これで察したラウルは足を早めた。
「急ごう」
 
 ユイの様子から自室のトイレでは間に合わないと判断し、一番近くのトイレに誘導したものの、その前まで来て思案する。フォルディス邸のトイレ使用は退院してから初。勝手知る病院のとは仕様が若干異なる。
――中を覗く訳にも行かない。どうしたものか…――

 ラウルが考え込んでいる間に、ユイはスタスタとトイレに入ってしまった。扉がバタンと閉じられる。
「ユイ、何か困った事があれば言ってくれ。ここで待っている」
 ハタと考え言い直す。「何かあれば…壁でも叩け」今のユイは言葉を発しないのだ。

 数分後、水の流れる音がして何事もなくユイが出て来た。

――この程度は許容範囲内という訳か。何よりだ――

 こうして日常生活動作を一つ一つ確認して行かねばならない。こんな几帳面な作業はある意味、新堂よりもラウルの方が適任かもしれない。
 部屋の様子からも分かるように、新堂は仕事以外では案外ズボラである。

 ラウルはユイに安堵の笑みを向ける。その背に手を当てて、自室へと戻った。


 その後、ダイニングで新堂と共に夕食を摂り、またも例の手掴みコントを繰り広げてから、再び自室に引き上げる。今回はナイフは出されていなかったため、暴動騒ぎは起きずに済んだ。

 部屋の中央の大きなソファにちょこんと腰掛けたユイ。遠巻きに見守るラウルに、次なるミッションが迫る。
――いつもならばもうすぐバスタイムだが…――
 ラウルの思案が始まった矢先に、それを察したようにまたもユイがスクッと立ち上がり、バスルームの方に歩いて行った。

「やはり習慣付いた事は覚えているか。少し待ってくれ、まだバスタブに湯を張っていない。今から準備しよう」
 そう言いつつも、ラウルはユイが座っていたソファに腰を下ろした。
 またも能力で全てをやってのける。一大組織フォルディスファミリーのボスが、手ずから風呂の準備などするはずがない。

「湯舟でゆっくりした方がいいだろう?待てなければシャワーにするが、どうする?」
「…」
 バスルームの前で立ち止まり、無言のまま背でラウルの言葉を聞いていたユイが振り返る。そして無表情でラウルの横に腰掛けた。
「待ってくれるのだな。ありがとう、ユイ…」

 たったこれだけの事でも喜びを隠せない。ラウルはユイを抱き寄せて、頬にキスを贈る。
――反応などなくてもいい。十分意思疎通はできている――

 やがて支度が整いバスタイムとなるも、ここでもラウルの思案が始まる。
「ユイ、一緒に入るか?それとも一人がいいか?」一応聞いてみる。
 ユイは何も言わずに一人でバスルームに入って行く。答えが分からないラウルは、後に続いて浴室に入ってみる。
「一人で問題ないのだろうが、最初なので念のため私が一緒に入ろう。いいな?」

 服を脱ぎ始めたユイは無反応を貫いている。

――拒絶されないのは肯定しているのと同じだ――
 良い方に受け取り、ラウルも服を脱ぎ始めた。

 そして洗い場の鏡の前に向かう。ユイの真後ろに陣取ったラウルは、鏡に映る久しぶりのユイの裸体に息をのむ。
「やはりおまえは美しいな…」
 そのまま抱きすくめたい気持ちを何とか押しやり、ぼんやりとしているユイの長い髪を湯で浸す。
「いつも二人でこうして入っていた。そんなに時が経った訳でもないのに、懐かしいものだな」

 ラウルの感慨深い話など意に介さず、ユイが目の前に並ぶボトルの中からコンディショナーを掴んだ。
「ユイ、それではなく隣りだ」
「…」無言で別のボトルに手を伸ばすユイ。
「それはボディソープだ。反対側の隣りだ」
――やはり一人での入浴は無理だな…――

 ラウルが後ろからシャンプーに手を伸ばす。
 腕にユイの小振りながら形の良い胸が当たる。これをやりたいがために能力を使わなかったのだ。
 伸ばしたまま掴もうとしないラウル。久々の感触を楽しむ。
――これは不可抗力だぞ?――
 それに反応してラウルの象徴がムクムクと元気になってしまう。

「…ああユイ。ここでも何度も愛し合った。それも覚えていないか?」
 募る想いのあまり、ラウルの口から吐息と共にこんな問いかけが零れた。
――感覚から思い出すという事もあり得る――
 昂りは一気に膨らんで、もう収拾がつかない。象徴の先端がヒク付いている。このまま後ろからユイの尻を襲いそうだ。
 華奢な両肩を背後から押さえるラウル。

 一瞬、鏡越しにユイと目が合った。
 こんな無言のやり取りに、なぜかラウルは牽制された気がした。

「何でもない。少しバランスを崩しただけだ」
――理性と感情のバランスを――

 相変わらずの無表情で数度瞬きを繰り返したユイは、ラウルより先にシャンプーを掴み取り、乱暴に髪に振りかけてガシガシと頭を洗い始めた。

「…危なかった。ここは一度処理をしておこう」
 処理とは自慰行為の事である。そうでもしなければ、この後の入浴を無事に済ませられないと悟った。それは自分の為というよりもユイのために。

 望めばいくらでも相手が手に入る、曰くつきのマフィアのボスでもマスターベーションをする時はある。どんな女ともいつでも相性バッチリ、なはずはないのだ。満たされなかった場合の最終手段ではあるが。
 ストレスは溜めない持ち越さない。その場で解消すべしがラウルのモットーだ。

「これはなかなかの拷問だ!いつまで耐えられるか…」

 様々な葛藤の後、お互い体もどうにか洗い終えて仲良く湯舟に浸かる。
「何とか無事に一息ついたな…」
 ようやくラウルの気持ち(勃起)も落ち着いて、安心してユイの背後の定位置に収まる。

 いつもならばここで手始めに最初の恍惚を味わうところだが、それも厳禁だ。
 習慣というものは恐ろしい。またもムズムズと反応しかけた下半身を、ラウルは鋼の精神で抑えつける。
「ああ…早くおまえを愛してやりたい。…ユイはどうだ?」
 返されるはずのない答えと知りながら、言わずにはいられない。

 やり切れない想いが押し寄せて、目の前のユイを後ろからそっと抱きしめた。 
 素肌の感触が伝わって、目を閉じればユイの笑顔が脳裏に浮かんだ。

 ユイは今ここにいる。事故であのまま、永遠の別れを言い渡されていたかもしれなかったユイが。ただ側にいられる事さえ、決して当たり前の事ではないのだ。
「…こうして、いてくれるだけでいい。愛している、ユイ…」
 多くは望まない。何よりユイは恐らくそういった行為を望んでいない。

――他愛のない日常を共に過ごせる事を、今こうして共に湯に浸かれる事を楽しもう――
 そう思い至ったラウルは、心地良さのあまりユイを抱きしめたまま、滅多にしない転寝を始めた。そして夢の中で、抜かりなくユイとのセックスを楽しんだ。

「ん…、寝てしまっていたのか…」

 ザブンと湯が揺れて気がつく。ラウルの視界にユイのナイスプロポーションな後ろ姿が飛び込んで来た。
「…夢、だったか。いや、きっとすぐに正夢になる」
 いてくれるだけでいいとほんの少し前に思ったはずが、さすが無敵の男は容易には引き下がらない。どこまでもプラス思考だ。
 つい今しがたのエクスタシーを思い起こして、再び熱い吐息がラウルの口から漏れた。

――少し湯に浸かり過ぎたな…――
 気怠い体を起こして、能力でタオルを引き寄せる。

「ユイ、髪は私が乾かしてやろう」
 ユイの長い髪は案外乾くのが早い。緩くかかったウエーブのお陰で、空気を含みやすい事もある。さらにダメージの少ない髪はすぐに乾く。
 美容師にそう言われ嬉しかったと語っていたユイの笑顔は記憶に新しい。
「あれからまだそんなに経っていないのに…随分昔の事のようだ。早くおまえの笑顔が見たい」

 のぼせ気味のラウルは、うっとりとしながら目を細める。
「私はおまえの何から何まで、隅々まで、愛している」
 またも抱き寄せてしまいそうになるのを、今回はグッと堪えた。


 リビングルームでしばし過ごした後、やる事もないため早々に寝る事にする。
 いつもならば共に好物のワインを傾け、楽しい会話を交わしながら過ごすのだが。
「ユイ、今日は退院初日だ、疲れただろう。少し早いがベッドに行こう」

 寝室に連れて行くも、キングベッドの前でユイが立ち止まっている。

――拒絶されてしまうだろうか…――

 ラウルにそんな不安が過ぎったのは束の間だった。ユイは自分の定位置を覚えていた。左側から入って大人しく横になっている。
「そうだ、おまえはそちらに寝ていたのだ。覚えていてくれて嬉しいよ…」
 心からの笑顔でそう言いながら、その右側に入る。
「お休み、ユイ」
 二人の距離は空いたままだ。

 ユイを見つめながら、ラウルは超能力で少しずつ照明を落として行く。名残惜し気な自分を律するように、闇が部屋を満たして行った。

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