大嫌いは恋の始まり

氷室ユリ

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第六章 まだ見ぬ世界を求めて

  失われたもの(3)

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 数日後、状態を確認するために近所の病院へと連れて行かれた。

 抱きかかえられて車から降ろされる。それを見ていたのか、透かさず男性看護師が車椅子を押してやって来た。
「こちらへどうぞ」にこやかにそう言って、私を座面へと誘導する。
 無言の私に代わって彼が答える。「ああ、ありがとう。さあユイ、これに乗って」
「あ……あの、でもっ」

 こんな物に初めて乗る。けれど今の私には、躊躇う資格すらないようだ。
 俯いたままでいると、呆気なく車椅子に乗せられ何事もなかったように動き出していた。

「安心しろ、検査は全て私がやるから」私の耳元で新堂さんが囁いた。

 病院の待合はとても混雑している。
 受付で彼が手続きをする様子を遠巻きに眺めていると、隣りに腰掛けた老婆の視線が気になってチラリと目を向けた。

「おやおや……お嬢さん、車椅子は大変でしょう。まだ若いのに可哀想にねぇ」
 私を眺め回してはこんな同情を寄せてくる。
「私、そんなに可哀想?」
「自由に動けないってのは辛いもんだよ。私もこの年になって、体が言う事を聞いてくれなくてね!若い頃は良かったよ」
「……一緒にしないで。放っておいてくださいっ」

 ちょうどそこへ、手続きを済ませた新堂さんが戻って来た。
 私が表情を凍らせているのに気づいたのか、「ユイ?どうした」と尋ねられる。

 答えないでいると、彼が辺りを見回して隣りの老婆に視線を定めた。
「彼女に何か?」
 こんな冷酷そうな男に凄みを利かせて迫られたら、誰だって怖気づくだろう。
「いえね!何も私は別に、そういうつもりは……」
 老婆は居心地悪そうに席を立ち、そそくさと逃げるように去って行った。

「何を言われたか知らんが、あんなの構うな」
「別に、何て事ないわ。さっさと済ませましょ」何の感情も込めずにそう答えた。


 全ての検査を終えて、結果を纏めて帰宅する。

「明日からは、少し起きて生活してみよう。今日は疲れただろう、もう休め」
 この言い分からすると、検査結果はおおむね良好だったようだ。
「新堂さん。私、そんなに可哀想?お婆さんに慰められるほど可哀想に見えるんだ」

 ベッドに運ばれて、毛布を掛けてもらいながら会話する。

「何を言う。あいつは単に、おまえを妬んだんだよ。私のような完璧なナイトが常に側にいるユイをね。見たところ独り身のようだったから」
「完璧な、ナイトね」
 こんなに冷かし甲斐のある言葉をかけられたというのに、何も思い浮かばない。
「何かご不満でも?」
 そして彼も、私からの反論を待っているように見えた。

 けれど私は、「もう寝る」と一言だけ言って、そんな彼から目を反らしてしまった。



 翌日。

「おはようユイ。取りあえず、リビングで朝食を……」
 爽やかな笑顔で語りかける新堂さんに対して、「食欲なんてない」と返した私はどこまでも可愛げがない。
 以前のこの人が相手だったなら、こんな私は力づくで引きずり出されている事だろう。

 けれど、今の彼は優しかった。

「何か食べないと、力が出ないぞ?」
「何のための力よ」
「……それは、起き上がって、体勢を維持する力だろ」
「起き上がる、ことも、自分ではできないのよ!」ベッドの上で、ただモゾモゾしながら訴える。

 すると彼が、ベッドを起こして私の肩に手を添えた。

「そうやって、すぐに助けないで!甘やかさないで!」彼の手を唯一動かせる右手で激しく払って言う。
「だけどな……」一人では絶対に無理だと、彼の顔は言っていた。
「すぐには無理だよ。さあ行こう」
 そう言うと、新堂さんはあっさり私の体を抱きかかえたのだった。

 唇を噛み締めて無言になる私を、リビングのソファへと運び終える。

「さあ、摘まむだけでいいから、何か食べてみろ。今、紅茶を入れよう」
「いらないってば!私に構わないでよ!」
 ソファの座面に付いていた右手を顔に持って行った瞬間、支えがなくなった体はバランスを崩して見る間に傾く。そして無残にも、ソファにドサリと倒れ込んだ。

「大丈夫か?」
 すぐに彼が駆け寄って起こしてくれるけれど、尚も彼の手を払い退けてしまう。
「構わないでって言ってるでしょ!」

 新堂さんは無言で、そんな私の右腕を掴んだ。とても強い力だった。今の私では、こんな力比べで敵うはずもない。

「自分の体じゃないみたいに、重いの……。まるで、石でも縛りつけられてるみたい。まともに座ってる事もできないなんて!バカみたいっ!」涙が溢れてくる。
「私の座らせた位置が悪かったんだ、ごめんな。さあ、今度は大丈夫だよ」
 今度はクッションで左右を固め、体を固定してくれた。

「さあどうぞ」横に座って、ティーカップを渡される。
 仕方なくそれを受け取るも、新堂さんがじっと私を見てくる。早く飲めと言わんばかりだ。
 大きなため息を一つつくと、カップから一口だけ紅茶を飲んだ。温かい液体が、胃の中に伝わって行くのが分かる。

「ねえ。もしかして私、トイレに行きたいっていう感覚もないの?」
「定期的に連れて行くよ」
「……ないのね。飲むのやめるわ」カップを彼に押し付けて、そっぽを向いた。
「水分は取らないとダメだ。気にせずに飲め」
「いい。迷惑かけたくないし」
「迷惑だなんて思ってない」

「分かってる。あなたがここで私を傷つけるような事、言う訳ないものね」
「嘘じゃないよ」
 こう言った新堂さんは、どこか悲しそうに見えた。

 しばしの時間が流れて、私は再び体勢を保てなくなる。
 今度はソファから転げ落ちそうだ。慌てて新堂さんが私の体を支えてくれる。

「なっ、何これ……?」
「どうした?」
「足が、勝手に……っ!」
 私の足は勝手にブルブルと小刻みに激しく震えていた。

 激しく痙れんを起こしている私の両足に、彼の手が伸びる。
「落ち着いて。心配ない、すぐに収まる。大丈夫だ。ここに横になって」
「新堂さん……!怖い、助けてっ!」
 ソファに体を横たえられ、彼が両足を擦ってくれる。

 しばらくすると、激しい痙れんは、次第に収まって行った。

「痙縮だ。慢性期に入ると、麻痺した筋肉が本人の意思とは無関係に、痙れんを起こしたりする事がある」
 説明の後、症状が止まった事を教えてくれる。「どうやら、収まったみたいだな」

 自分の体なのに、自分の意思で制御できない体。……そんなものに何の意味がある?

「これからも、時々こういう事が起こるかもしれない。でも心配するな、今みたいに、すぐに収まる」
「分かった」
 私のあまりにあっさりした様子に、当然彼が不審がっている。だがそんなのどうでもいい。もう、何もかもどうでも!

 こうして私は、次第に何もしようとしなくなって行った。医者から見れば最悪のパターンだろう。



「どうしてあの時、私の事を助けたりしたの!」
 いつものように寝巻きに着替えさせてもらっている中で、またも怒りが爆発する。

「どうしてって。当然だろ?ユイを死なせる訳には行かない」
「だからどうして?」
「決まってるだろ、おまえが大切だからだ。一緒に生きてほしいんだ」
 こんな状況でなければ、この言葉はこの上なく私を幸せな気持ちにさせてくれただろう。けれど今の自分に、彼の想いを素直に受け入れる事はできなかった。

「こんなの、死んだも同然じゃない。私はもう、あなたのボディガードどころか、自分の事すらままならないのよ?」
「それでも、ちゃんと生きてるだろ?」負けずに彼が言い返す。
「せっかく連れ戻したのに、残念だったわね。もう用無しじゃない?私の事なんて、捨てちゃえばいいのよ……!」

 いっそ、そうしてもらった方がどんなに楽か。

「今日は体を起こしている時間が多かったから、疲れただろう。もう休みなさい」
 私の皮肉をこれ以上聞きたくなくて、話を遮ったのは明らかだった。

 立ち上がろうとする彼に訴える。「左腕が、さっきからとても痛むの……」
 こう言ったのは、新堂さんの隠し持った、役目を終えた注射器を偶然見てしまったせいではない。またファントム・ペインが始まったのだ。
 こうしてこっそり注射されるのは、きっとこれが初めてではないはず。それも、今私に必要なのは痛み止めではなく鎮静剤!

 一瞬ドキリとした表情をした新堂さんだが、「よし、少し擦っていてやろう」そう言うと、私の左腕を上腕から手首にかけて擦り始めた。
 肘から上の部分は、辛うじて感覚が残っている。
「ここは感じるか?」その感覚が残る部位を擦りながら聞いてくる。

「分からない!」
 答えたくない。どうせ、あなたには全てお見通しなんでしょうから?

 こうして何の進展もないまま、月日だけが過ぎて行くのだった。


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