110 / 117
第六章 まだ見ぬ世界を求めて
失われたもの(3)
しおりを挟む数日後、状態を確認するために近所の病院へと連れて行かれた。
抱きかかえられて車から降ろされる。それを見ていたのか、透かさず男性看護師が車椅子を押してやって来た。
「こちらへどうぞ」にこやかにそう言って、私を座面へと誘導する。
無言の私に代わって彼が答える。「ああ、ありがとう。さあユイ、これに乗って」
「あ……あの、でもっ」
こんな物に初めて乗る。けれど今の私には、躊躇う資格すらないようだ。
俯いたままでいると、呆気なく車椅子に乗せられ何事もなかったように動き出していた。
「安心しろ、検査は全て私がやるから」私の耳元で新堂さんが囁いた。
病院の待合はとても混雑している。
受付で彼が手続きをする様子を遠巻きに眺めていると、隣りに腰掛けた老婆の視線が気になってチラリと目を向けた。
「おやおや……お嬢さん、車椅子は大変でしょう。まだ若いのに可哀想にねぇ」
私を眺め回してはこんな同情を寄せてくる。
「私、そんなに可哀想?」
「自由に動けないってのは辛いもんだよ。私もこの年になって、体が言う事を聞いてくれなくてね!若い頃は良かったよ」
「……一緒にしないで。放っておいてくださいっ」
ちょうどそこへ、手続きを済ませた新堂さんが戻って来た。
私が表情を凍らせているのに気づいたのか、「ユイ?どうした」と尋ねられる。
答えないでいると、彼が辺りを見回して隣りの老婆に視線を定めた。
「彼女に何か?」
こんな冷酷そうな男に凄みを利かせて迫られたら、誰だって怖気づくだろう。
「いえね!何も私は別に、そういうつもりは……」
老婆は居心地悪そうに席を立ち、そそくさと逃げるように去って行った。
「何を言われたか知らんが、あんなの構うな」
「別に、何て事ないわ。さっさと済ませましょ」何の感情も込めずにそう答えた。
全ての検査を終えて、結果を纏めて帰宅する。
「明日からは、少し起きて生活してみよう。今日は疲れただろう、もう休め」
この言い分からすると、検査結果はおおむね良好だったようだ。
「新堂さん。私、そんなに可哀想?お婆さんに慰められるほど可哀想に見えるんだ」
ベッドに運ばれて、毛布を掛けてもらいながら会話する。
「何を言う。あいつは単に、おまえを妬んだんだよ。私のような完璧なナイトが常に側にいるユイをね。見たところ独り身のようだったから」
「完璧な、ナイトね」
こんなに冷かし甲斐のある言葉をかけられたというのに、何も思い浮かばない。
「何かご不満でも?」
そして彼も、私からの反論を待っているように見えた。
けれど私は、「もう寝る」と一言だけ言って、そんな彼から目を反らしてしまった。
翌日。
「おはようユイ。取りあえず、リビングで朝食を……」
爽やかな笑顔で語りかける新堂さんに対して、「食欲なんてない」と返した私はどこまでも可愛げがない。
以前のこの人が相手だったなら、こんな私は力づくで引きずり出されている事だろう。
けれど、今の彼は優しかった。
「何か食べないと、力が出ないぞ?」
「何のための力よ」
「……それは、起き上がって、体勢を維持する力だろ」
「起き上がる、ことも、自分ではできないのよ!」ベッドの上で、ただモゾモゾしながら訴える。
すると彼が、ベッドを起こして私の肩に手を添えた。
「そうやって、すぐに助けないで!甘やかさないで!」彼の手を唯一動かせる右手で激しく払って言う。
「だけどな……」一人では絶対に無理だと、彼の顔は言っていた。
「すぐには無理だよ。さあ行こう」
そう言うと、新堂さんはあっさり私の体を抱きかかえたのだった。
唇を噛み締めて無言になる私を、リビングのソファへと運び終える。
「さあ、摘まむだけでいいから、何か食べてみろ。今、紅茶を入れよう」
「いらないってば!私に構わないでよ!」
ソファの座面に付いていた右手を顔に持って行った瞬間、支えがなくなった体はバランスを崩して見る間に傾く。そして無残にも、ソファにドサリと倒れ込んだ。
「大丈夫か?」
すぐに彼が駆け寄って起こしてくれるけれど、尚も彼の手を払い退けてしまう。
「構わないでって言ってるでしょ!」
新堂さんは無言で、そんな私の右腕を掴んだ。とても強い力だった。今の私では、こんな力比べで敵うはずもない。
「自分の体じゃないみたいに、重いの……。まるで、石でも縛りつけられてるみたい。まともに座ってる事もできないなんて!バカみたいっ!」涙が溢れてくる。
「私の座らせた位置が悪かったんだ、ごめんな。さあ、今度は大丈夫だよ」
今度はクッションで左右を固め、体を固定してくれた。
「さあどうぞ」横に座って、ティーカップを渡される。
仕方なくそれを受け取るも、新堂さんがじっと私を見てくる。早く飲めと言わんばかりだ。
大きなため息を一つつくと、カップから一口だけ紅茶を飲んだ。温かい液体が、胃の中に伝わって行くのが分かる。
「ねえ。もしかして私、トイレに行きたいっていう感覚もないの?」
「定期的に連れて行くよ」
「……ないのね。飲むのやめるわ」カップを彼に押し付けて、そっぽを向いた。
「水分は取らないとダメだ。気にせずに飲め」
「いい。迷惑かけたくないし」
「迷惑だなんて思ってない」
「分かってる。あなたがここで私を傷つけるような事、言う訳ないものね」
「嘘じゃないよ」
こう言った新堂さんは、どこか悲しそうに見えた。
しばしの時間が流れて、私は再び体勢を保てなくなる。
今度はソファから転げ落ちそうだ。慌てて新堂さんが私の体を支えてくれる。
「なっ、何これ……?」
「どうした?」
「足が、勝手に……っ!」
私の足は勝手にブルブルと小刻みに激しく震えていた。
激しく痙れんを起こしている私の両足に、彼の手が伸びる。
「落ち着いて。心配ない、すぐに収まる。大丈夫だ。ここに横になって」
「新堂さん……!怖い、助けてっ!」
ソファに体を横たえられ、彼が両足を擦ってくれる。
しばらくすると、激しい痙れんは、次第に収まって行った。
「痙縮だ。慢性期に入ると、麻痺した筋肉が本人の意思とは無関係に、痙れんを起こしたりする事がある」
説明の後、症状が止まった事を教えてくれる。「どうやら、収まったみたいだな」
自分の体なのに、自分の意思で制御できない体。……そんなものに何の意味がある?
「これからも、時々こういう事が起こるかもしれない。でも心配するな、今みたいに、すぐに収まる」
「分かった」
私のあまりにあっさりした様子に、当然彼が不審がっている。だがそんなのどうでもいい。もう、何もかもどうでも!
こうして私は、次第に何もしようとしなくなって行った。医者から見れば最悪のパターンだろう。
「どうしてあの時、私の事を助けたりしたの!」
いつものように寝巻きに着替えさせてもらっている中で、またも怒りが爆発する。
「どうしてって。当然だろ?ユイを死なせる訳には行かない」
「だからどうして?」
「決まってるだろ、おまえが大切だからだ。一緒に生きてほしいんだ」
こんな状況でなければ、この言葉はこの上なく私を幸せな気持ちにさせてくれただろう。けれど今の自分に、彼の想いを素直に受け入れる事はできなかった。
「こんなの、死んだも同然じゃない。私はもう、あなたのボディガードどころか、自分の事すらままならないのよ?」
「それでも、ちゃんと生きてるだろ?」負けずに彼が言い返す。
「せっかく連れ戻したのに、残念だったわね。もう用無しじゃない?私の事なんて、捨てちゃえばいいのよ……!」
いっそ、そうしてもらった方がどんなに楽か。
「今日は体を起こしている時間が多かったから、疲れただろう。もう休みなさい」
私の皮肉をこれ以上聞きたくなくて、話を遮ったのは明らかだった。
立ち上がろうとする彼に訴える。「左腕が、さっきからとても痛むの……」
こう言ったのは、新堂さんの隠し持った、役目を終えた注射器を偶然見てしまったせいではない。またファントム・ペインが始まったのだ。
こうしてこっそり注射されるのは、きっとこれが初めてではないはず。それも、今私に必要なのは痛み止めではなく鎮静剤!
一瞬ドキリとした表情をした新堂さんだが、「よし、少し擦っていてやろう」そう言うと、私の左腕を上腕から手首にかけて擦り始めた。
肘から上の部分は、辛うじて感覚が残っている。
「ここは感じるか?」その感覚が残る部位を擦りながら聞いてくる。
「分からない!」
答えたくない。どうせ、あなたには全てお見通しなんでしょうから?
こうして何の進展もないまま、月日だけが過ぎて行くのだった。
0
お気に入りに追加
56
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
好きすぎて、壊れるまで抱きたい。
すずなり。
恋愛
ある日、俺の前に現れた女の子。
「はぁ・・はぁ・・・」
「ちょっと待ってろよ?」
息苦しそうにしてるから診ようと思い、聴診器を取りに行った。戻ってくるとその女の子は姿を消していた。
「どこいった?」
また別の日、その女の子を見かけたのに、声をかける前にその子は姿を消す。
「幽霊だったりして・・・。」
そんな不安が頭をよぎったけど、その女の子は同期の彼女だったことが判明。可愛くて眩しく笑う女の子に惹かれていく自分。無駄なことは諦めて他の女を抱くけれども、イくことができない。
だめだと思っていても・・・想いは加速していく。
俺は彼女を好きになってもいいんだろうか・・・。
※お話の世界は全て想像の世界です。現実世界とは何の関係もありません。
※いつもは1日1~3ページ公開なのですが、このお話は週一公開にしようと思います。
※お気に入りに登録してもらえたら嬉しいです。すずなり。
いつも読んでくださってありがとうございます。体調がすぐれない為、一旦お休みさせていただきます。
好きだった幼馴染に出会ったらイケメンドクターだった!?
すず。
恋愛
体調を崩してしまった私
社会人 26歳 佐藤鈴音(すずね)
診察室にいた医師は2つ年上の
幼馴染だった!?
診察室に居た医師(鈴音と幼馴染)
内科医 28歳 桐生慶太(けいた)
※お話に出てくるものは全て空想です
現実世界とは何も関係ないです
※治療法、病気知識ほぼなく書かせて頂きます
セレナの居場所 ~下賜された側妃~
緑谷めい
恋愛
後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。
本日、私の大好きな幼馴染が大切な姉と結婚式を挙げます
結城芙由奈
恋愛
本日、私は大切な人達を2人同時に失います
<子供の頃から大好きだった幼馴染が恋する女性は私の5歳年上の姉でした。>
両親を亡くし、私を養ってくれた大切な姉に幸せになって貰いたい・・・そう願っていたのに姉は結婚を約束していた彼を事故で失ってしまった。悲しみに打ちひしがれる姉に寄り添う私の大好きな幼馴染。彼は決して私に振り向いてくれる事は無い。だから私は彼と姉が結ばれる事を願い、ついに2人は恋人同士になり、本日姉と幼馴染は結婚する。そしてそれは私が大切な2人を同時に失う日でもあった―。
※ 本編完結済。他視点での話、継続中。
※ 「カクヨム」「小説家になろう」にも掲載しています
※ 河口直人偏から少し大人向けの内容になります
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる