大嫌いは恋の始まり

氷室ユリ

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第二章 いつの間にか育まれていたもの

16.南十字星のもとで(1)

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 私は今、とある美術館の副支配人と面会している。今回は正式な依頼だ。
 近所の喫茶店にて、交渉が始まっている。

「朝霧さん、お願いです、どうか引き受けてくれませんか!」
「だけど、責任者が反対してるんじゃねぇ。ダメでしょ」
 この人の上司に当たる支配人が、私への依頼を猛反対しているとか。
 それはある意味当然の事だ。若い女に大事な美術品を守らせるなど、以てのほか!なのだから。こんな状況は当に慣れている。

「今、巷を騒がせている海外の窃盗犯、もちろん知ってますよね?」副支配人が言う。
「エリック・ハント、だった?知ってるわ。お宅の美術品が狙われてるってね」
 今世間はこの男の話題で持ちきりだ。何しろ日本に初上陸(?)らしいので。

 答えてから、注文しておいたコーヒーにようやく手を伸ばす。
 店内にはこの良い香りがずっと漂っている。手元のカップでより濃厚な香りを楽しんでから、程良い温度になったコーヒーを味わう。

 私の両親はコーヒー好きだった。遠い昔の我が家には、いつも挽き立てのコーヒーの香りが漂っていた。
 私が幼かったあの頃はまだ、幸せだったように思う。だからこの香りで思い出すのは、決して嫌な思い出ではない。

「警察やICPO、さらに、あらゆるやり手の警備会社に警備を依頼しています」
 副支配人の声に、すぐに意識を戻す。
「だったら、それで十分じゃない」
 そう返しつつも実際そう思ってはいない。なぜならこのエリック・ハントは、いつでもそんな厳重警備体制の中から、獲物を獲得していたから!

 彼が狙うのは主に宝石。大抵は手の平に収まるサイズで、持ち出すのは容易だ。

「とにかく、責任者が反対してるなら無理。私が現場に入る事さえ許されないもの」
「ヤツの弱点は美しいものです。つまり、あなた……朝霧さんなら、きっとヤツに勝てると思うんです!」
 副支配人は、興奮と期待で赤らんだ顔で私を凝視する。
 この私に、色事掛けであの世界的に有名な怪盗を捕まえろと?
「そう言われてもねぇ……」

 ICPOまで来るとあっては、あまり立ち会いたくはない。そんな場では相棒のコルトも使えないではないか。
 それともう一つ。私は目立ちたがりの男が大嫌いだ。理由は間違いなく、あの目立ちたがりオヤジ、義男のせいだろうが!

「それで?参考までに聞くけど、犯行予告とか来てるの?」
「はい。そ、それが……、三日後の夜なんです!」こんな答えが即座に返された。


 色々言ったけれど、結局またも引き受けてしまったお人好しな私。こんな性格がイヤになる!
 報酬は後払い、つまり成功報酬という事になった。やれるものならやってみろという訳だ。そういう事ならやってやろうじゃない?

 引き受けた一番の理由は、売られたケンカを買ったなどという子供染みた感情からではない。この国の宝が盗まれるのは見過ごせない。
 それに、自分の腕を買ってくれた依頼人を放っては置けない。美しいと言ってくれた人に、冷たい態度は取れないではないか?


 そして問題の日。私は館内の隅で副支配人の秘書を装い、周囲に目を光らせた。
 日が暮れて夜も更けてくると、さすがに疲労が溜まり始めた。

 眠気覚ましに席を立つ。
 部屋を出た直後、何やら足元の床を転がって行ったような気がしたが、気にせず廊下を早足で洗面に向かった。
「ううっ、寒~い!ちょっと薄着だったかしら……」
 もうすぐ四月だというのに、夜は未だに肌寒い。

 持ち場に戻ろうと通路を急いでいると、気取った英語が前方から聞こえた。

【以下カッコ内英語】
「(フフッ!全然手応えがないな。もう少し楽しませてくれないと拍子抜けだ)」
 部屋には、武装した警官達とは違う軽装の男が一人だけ立っている。

「しまった……!ちょっとあなた達、何てザマ?」あちこちに倒れた警官達を見渡す。
 先ほどの転がった物体は催眠ガスだったようだ。ガスはたちまち、警備に当たる連中を一網打尽にしていた。

「(あなたがエリック・ハントね)」
 目の前の青い瞳のブロンド男、エリックが近づいて来る。その手にはすでに、今回のターゲットの美術品が握られていた。
 暗闇でもその存在が際立っている。男の手の中で月明かりに煌めく大きな宝石に、思わず目を奪われる。

「(こんな場所にレディがお一人で!良く見れば、この宝石のように美しい!決めたぞ、君も盗んで行くとしよう)」
「ちっ、ちょっと……?きゃあ!」
 私はエリックに軽々と持ち上げられてしまう。
「(離してよっ)」口では抵抗しつつ、されるがままで様子を見る事にする。

「(こっちには人質がいる!道を開けろ!)」
 エリックはこう叫ぶと、私を楯に現場からの脱出に成功する。

 副支配人の青くなった顔が横目に映った。

「(レディ、悪いがしばし、お休みの時間だ)」
 突然、顔に布を押し付けられた。
 しまった、クロロホルム!そう気づいた時にはもう意識はなく……何とも不甲斐ない幕開けとなってしまった。


 目が覚めると、床が揺れている。

「ここ、どこ?」起き上がって辺りを見回す。
「(ようやくお目覚めだね。美しい人……。君、名前は?)」
 立ち上がり、質問を無視して毅然とした英語で言い放つ。
「(エリック・ハント。今すぐに盗んだ物を返しなさい)」

 彼が私から目を離して軽く笑った。
「(やはり僕を知っていたんだね。拳銃を所持していたようだが、君はポリスか?)」
 ハッとして腰元に手を伸ばす。当然、コルトは奪われていた。
「(宝石も拳銃も、返しなさい!)」質問を無視して再び要求した。
「(拳銃を返したら、君は僕を撃つんだろ?)」両手を広げて言う。

「(さあね。場合によるわ)」
 回答を濁す私に「(ようやく質問に答えてくれたね)」と微笑む。
 それを無視して補足する。「(言っておくけど、私は警察関係者じゃないから気兼ねなく殺す事もできるのよ?)」

 実際に私は、すでに人を殺した事がある。対象はいつもどうしようもない悪党共だが。

「(おやおや!随分物騒な話をするんだね。君の武器は今こっちにある。僕を殺すのは難しいんじゃないか?)」
「(そうでもないわ。武器がなくても、殺す方法はいくらでもあるじゃない?)」
 私の言葉に一時は目を丸くしたエリックだったが、どういう訳か満足げに頷いた。

「(ここは船上みたいだけど、どこに連れて行くつもり?)」質問を続ける。
「(さあ、どこかな。着いてからのお楽しみだ)」
「(ふざけないで!今すぐ引き返して!)」
「(発ってもう十時間以上だよ。せっかくここまで来たのに。引き返すのか?)」
「なっ!何ですって?私、そんなに寝てたの……」驚きのあまり日本語が口から出ていた。

「(国を離れたくない理由でもあるのか?)」
「(ええ、まあね)」
 新堂さんの事が気になっているのは事実だ。あの人は案外狙われやすい。あまり離れたくない。
「(恋人か?)」エリックが真顔で尋ねてくる。
 これには即座に「(違うわ)」と答えた。

 新堂さんは恋人なんかじゃない。そう自分に言い聞かせておかないと、良からぬ事を考えてしまいそうだから……。

「(怪しいな!君みたいな美人に恋人がいないはずがない)」
 ニヒルな笑みを浮かべて言う。「(隠すなよ。男なんだろ?その理由っていうのは)」

「(だったとして、あなたに関係ある?)」説明が面倒になって、こう言い返した。
「(やっぱりそうなんだな。会ってみたいよ、君の男に。どんなヤツなんだ?)」
「(彼に会いたければ、大ケガでもするのね。何なら手伝いましょうか!依頼してあげてもいいわよ?ただし、引き受けてもらえるかどうかは分からないけど)」
 それと、報酬も自分で払ってよね、と心の中で続ける。

「(君のカレは、ドクターかい?)」
 私はそれとなく頷いた。
「(そんな事しなくても、向こうから出向いて来るさ。君が誘拐されたと知ればね)」
「(それはないわ)」
 来る訳がない。依頼でもないのに。しかも専門外となれば?

「(何て薄情な男だ!そんなヤツとは別れてしまえよ)」
「(だから。その人は恋人じゃないの)」
「(どうも複雑だ!もう少しお互いを知る必要がありそうだね)」
 エリックは笑顔をつくり、何かを企んでいるような顔をした。


 船はどこかの地へと私を運んだ。
 降り立った私は、未だに船に揺られているような感覚のまま、真っ暗な世界を呆然と見渡す。

「凄い星空……」
 空を見上げると、一面に細かな眩い光が瞬いていた。
「(見てご覧。あそこに南十字星が見えるよ)」
 エリックが指した水平線上には、斜めに傾いたクロスの形に星が並んでいる。それは、ここが南半球だという事を示していた。

「(しばらく、僕に付き合ってもらうよ?いいね、……ええと)」
 彼が口籠もった事で、まだ名乗っていなかったのを思い出す。
「(ユイよ。朝霧ユイ。付き合ってあげたら、返してくれる?)」
 こうなったらなるようにしかならない。コルトを人質に取られている以上、下手な事はできないのだから。

「(ユイか!もちろん返すさ、ユイ。だって僕の相棒はここにあるからね)」
 そう言ってオートマチック拳銃をチラつかせる。催眠ガスに薬品に、拳銃まで持っているとは!
「(さあ、お腹空いただろ?朝食をご馳走しようじゃないか)」
「(朝食って……まだ暗いじゃない)」
「(なあに、もうすぐ夜明けさ)」

 陽気なエリックに連れられて、街中のレストランへ向かった。

「(こんな時間にやってるの?)」
「(平気平気!僕のご用達の店なんだ)」
 到着したのは中華料理屋のようだ。
 店内に入ると、彼はチャイナドレスのウェイトレス達と順にハグを繰り返す。

「スカート短かっ!」思わず日本語で呟く。
 太ももを露わに、客を挑発しているかのような店員達に嫌悪感を覚える。
「(何してるのユイ、早く座って!)」
 入り口で躊躇する私を、エリックが手招きする。

 とんだ店だ……と思いながらも、取りあえずテーブルに着いた。
 少しすると思わぬ料理が運ばれてきた。
「(これなら君の口にも合うだろ。日本食だよ)」
「驚いた……。この店構えにあのウェイトレスで、日本食を提供しているなんて!」
 日本も中国も、ここでは一緒くたになっているらしい。ああ、嘆かわしい!

「(おや、食べないのかい?)」料理に手を出さない私を見て言う。
「(食欲ないの)」どうにも呑気に食事をする気にはなれない。しかも深夜に!
「(腹ペコじゃ、楽しい一日が始められないぞ!)」彼が私の口に、無理やり厚焼き玉子を押し込んだ。
「ちっ、ちょっと!……んもう、何が楽しい一日よ」
 仕方なく卵焼きを飲み込む。「その強引さ、何とかならないの?」

 そんな私を差し置いて、彼は楽しそうに食事を続けた。
「(ユイ、乾杯だ!)」ワイングラスを掲げて乾杯を促す。
「(乾杯する理由はないわ)」とあくまで逆らうも、「(僕達の出会いに!)」めげる事なく続けるエリック。
 こんな抵抗も束の間、美味しそうなワインを目の前にして心が傾いてしまう。

「(しょうがないわね。ワインは好きよ。いいわ、付き合いましょう)」
 私は一転、ヤケになってしこたま飲んでやった。
 そんな中、呆気なくエリックは酔い潰れてしまったではないか。
「人は見掛けに寄らないって言うけど……その通りね~。お酒、強そうなのに!」

 窓からは、白み始めた空が見えた。
「一日が、始まるんじゃなかったの?」

 無防備に眠り込んでしまった怪盗を見やりながら、手元のグラスを一気に飲み干したのだった。


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