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第二章 いつの間にか育まれていたもの
13.ガランドウの部屋
しおりを挟むもう時期、梅雨の季節がやってくる。
窓際に寄って空を見上げれば、六月の梅雨の走りの雨が朝から降り続いている。
超高層マンション最上階の我が家にて。
「雨、止みそうにないなぁ……」一人呟いた後、視線を下に向ける。
ちょうど黒のメルセデス・ベンツが一台、マンションの地下駐車場に入るのが見えた。
小さな雨粒の群れを、あの大きな黒のボディ一面に纏っている様子を思い浮かべる。
新堂の車はいつも綺麗に洗車されている。それに引き替え、自分の埃だらけで傷だらけ(!)の愛車……。苦笑して窓辺を離れた。
数分後、予想通りに彼がやって来た。
片手に大きなオレンジ色のユリの花束を抱えている。
「新堂さん。どうしたの?花なんて持って!」
「いて良かった。アポなしで来たんで、いるか不安だった」
「今ね、ちょうど新堂さんの車がここに入って来るとこ見てた。すぐに分かったわ」
「そうか。……これ、ユイに」
花束を差し出す彼を、思わず上目遣いで見てしまう。
「……そんなに警戒するなよ。世話になった礼だ」頭を掻きながら、やや照れた様子だ。
「ありがと。まあ、入って」
取りあえず花を受け取って中へ通した。
ケガを負ったこの人を部屋に招いて一緒に暮らしたのは、今からひと月程前になる。期間としては、三週間くらいだっただろうか。
「本当にその節は、色々としてもらって助かったよ」
「その事ならもういいってば!大した事してないし。って言うか、私にはできないもん」
大袈裟な礼を言われると逆に恐縮する。自分がしてもらったような事は何もできないので?
花瓶に花を生けながら、今回の礼が現金でない事について考える。この人も、少しは常識というものを分かってくれたのなら嬉しいのだが。
「それから、これ」
「何?」
キッチンにいた私は背伸びしてリビングを覗いた。
テーブルに金属物を置くカチャリという音が聞こえた。この部屋の合鍵を置いたらしい。一緒に生活していた時に渡してあったのだ。
合鍵を預けていた事などすっかり忘れていた。
「ああ。それ、新堂さん持ってていいわよ」そう言っておきながら複雑な気分になる。こういう事は恋人にする行為だ。
だがこの部屋の支払いをしたのはほとんど彼だし、この人にだってここに入る権利があるかもしれない?
「ほら、ウォーターベッド!新堂さんも気に入ってたでしょ。使いたくなったらいつでも来て」本音を隠すためにこんな事を言ってみる。
「そうか?なら、そうさせてもらうよ」
彼もあっさり受け入れてくれたから、ここは深く考えずにおこう。
キッチンでお茶を用意してリビングに運ぶ。
「しかし、いつまで降るのかね……」窓の方を見ながらポツリと呟いた彼。
「新堂さん、雨は嫌い?」
「ああ嫌いだね!第一に車が汚れる」
またも自分の薄汚れた愛車を思い浮かべて苦笑いする。
「これからでしょ。梅雨の本番は」
「うんざりだね!」
「ところで。あなたって良く狙われたりするの?」話題を変える。
「今回はたまたまさ」
「どうも心配だわ……。新堂さんてどこに住んでるの?いい加減教えてくれてもいいでしょ」
自ら申し出ておいて辞退した新堂和矢のボディガード。まだその承諾はもらっていないけれど。辞退しながらも、この人の身の安全が気がかりだ。
新堂が困った顔をしている。なぜか住居を言いたがらない。
毎回はぐらかされているだけに、今度ばかりは聞き出そうと躍起になる。正面に座って、無言のまま思いきり顔を近づけて覗き込む。
「……言う必要、あるか?」
まだシラを切るか。「あるの!」と今回は負けずに断言する。
しばらく睨めっこをした後、ついに彼が折れた。「分かった、教えるよ。その代わり……笑うなよ?」
「なぜ笑うの?意味分かんない!」
「よし。何なら、これから我が家へ招待しようじゃないか」ヤケクソな感じで言い放つ。
こうして私は念願叶って、上機嫌で共に部屋を出たのだった。
ベンツが向かった先は、細い路地裏の古びたアパート。そこはどう見ても、年収数億の外科医にも高級外車にも似つかわしくない場所だ。
「まさか、……ここ?」車から降りて恐る恐る聞いてみる。
「ようこそ我が家へ」
文字通り絶句だ。だってそこは、私の年齢よりも築年数が上回りそうな建物だったのだから……!
「どうした、早く入れよ。濡れるぞ」
アパートの前で、傘も差さずに立ち止まる私を見て彼が促す。
「え?ええ……はい」
どうにか返事をして彼を追って室内に入る。「お邪魔、しまぁす……」
「あっ、と!散らかってて悪いね」
透かさず彼が私の足元にあった書類の束を拾った。雨のせいか、紙は湿気を含んで張りが失われ、彼の手の上でしんなりとしている。
「適当に座ってくれ」
そう言われても、座っている場合じゃない。部屋の中に入ってさらに絶句した。
何しろ一Kの台所にはカップ麺の空容器が積み上げられ、シンクには洗われずに放置されたコップ。それもいくつも!この狭い部屋にこんな大人数のお客が来たとは思えない。
つまり、このコップ達が私に訴えていたのは……。洗うのが面倒で買い足したという驚くべき事実?
新堂は几帳面な性格ではなかったのか。……騙された!
何気なく小さな冷蔵庫を開けてみるも、中はカラだ。
「電源も入ってないじゃない……。私の冷蔵庫の方がまだマシだわ!」
ワインとアイスクリームで詰まっている自分の冷蔵庫を思い返して、食生活についてはあまり大きな事は言えないと考え直す。
「ここには寝に帰るだけなんだ。外泊が多くてね」
言い訳のつもりか。
「そうよね。あ~んもうっ!何からコメントしたらいいのやら!」
「順番にお願いするよ」ため息混じりに返ってきた。
「そうね、じゃ、まず。ここは危険すぎる。爆弾で呆気なく木っ端微塵よ?」
「容赦ないコメントだな!」
そう言いながらも、彼だって例の爆破された私の部屋を思い浮かべたはずだ。あれは三月のまだ朝晩肌寒い頃だった。もう三か月も経つのか。
鉄筋コンクリートの部屋がああなるなら、ここだったら間違いなく木っ端、微塵!
「あなた、自分の立場分かってる?世界的名医がこんな所に住んでるなんて!」
困った顔をする彼に構わず続ける。
「それから、あれは何?先生の食生活はどうなってるのかしら」キッチンを見てついに言った。やっぱり言わずにはいられない!
「手料理を用意してくれる人がいたら、解決するんだがね」
「新堂さん!」
「……それは冗談だが。忙しいんだよ、私は!それにあれは、ここにいる時だけだ」
「医者の不養生、なんて事にならないでよね?」本気で心配になる。
ところが彼はすぐさま言い切った。「その点は問題ない」
一体、何を根拠に?
「とにかく、ここは危険だわ。良くこんな場所で寝起きできたものね。気も休まらないじゃない」
「逆にな、こういう辺鄙な所は狙われにくいんだ」
こんな事を言う彼を睨むと、「違うか……」と小声で言い直すのが聞こえた。
「私がとっておきの部屋を探してあげる!今すぐ引越ししよう、引越し!」
「移動はすぐにでもできるよ。ご覧の通り、物がないんでね」新堂は両腕を広げて見せた。
ガランドウの、生活感ゼロの部屋。
「でも、コップはたくさんあるみたいよ」
「ん?……ああ。そう言えばそうだな」気のない返事が返ってくる。
「あなたの実家は、コップ屋さんとか!」洗うのが面倒で、というコメントは控えた。
当然返事はもらえなかった。
ここでようやく畳の上に腰を下ろす。
「それで、ここにはいつから?」改めて室内を見回しながら聞いてみる。
「学生時代からだ」
高校生という事はないだろうから、大学生だろうと勝手に判断して頷く。
「な~んか、本当に生活なんてどうでもいいって感じね……」
何も答えない彼を前に続ける。
「私に居所を知らせたくなかったのは、こういう事だったのね」一旦言葉を切り、安堵のため息と共に言う。「でも良かった。私が信用されてないんだと思ってたから」
立て続けにこう言った後、やっと彼が答えた。
「住む所などどこでもいい。依頼は世界中から来るんだぞ?一箇所に留まれる時間は短いんだ」
「そうは言っても、やっぱり戻って来れる場所って必要よ?」
「特に不自由は感じないが」
「心安らげる自分の居場所がなくても平気なんて……変よ!」
この人には本当に心がないのか?そんな事はない。そうじゃないと信じたい。
新堂和矢にだって、きっと心はあるはずだ!
こうして不動産屋を巡って物件探しを始めたのだが……張り切っていたのは私だけ。
「ねえねえ!ここなんかどう?」
「屋根付きの駐車場は必須だ」
あんなボロアパートに住んでいた人間が、どうしてこれだけ注文が付けられるのか。
「じゃあ、ここは?」
「高速のインターに出るのに不便そうだな」
本当に探す気あるの?と何度も口にしそうになりつつ、辛抱強く物件探しを続ける。
そしてとあるマンションを内見中、十数件目にして(!)ようやく彼が反応を示した。
「お、ここ、いいじゃないか」
「ええ!ここならどの建物からも死角になってる。セキュリティもしっかりしてるし」
ほっと一息つきながら、私の頭にインプットされた情報も付け加える。
この街の地理は把握してある。抜け道とか建物の並びとか、どこからどこが良く見えるかとか。なぜならそれらは、私の仕事にとても重要な情報だから。
「上等だ」と満足気な新堂の様子に、私も嬉しくなる。
始めのうちこそ興味なさそうだった彼だが、納得の行く部屋が見つかって良かった。
こうしてついに彼も、数年ぶり(?)に最新式のマンションに居を構える事となった。
家具も新たに揃えた。カーテンやブラインド、絨毯などはモノトーンで統一。もちろんステキな書斎だってある。
「ここなら仕事もはかどりそうだ。静かだな」と耳を澄まして言う。
「今のマンションは大抵静かよ。あそこが異常なの!」
何しろ木造アパートには、自分の他に住人がいたりする。と言っても幽霊とかの超常現象の話ではなく、ネズミとか鳥とかだが!
実は以前、依頼先で滞在した借家の屋根裏にハトが巣を作ったらしく、早朝に凄まじい足音やら羽音やら鳴き声がしていた事があり……本当に酷い目に遭った事がある。
そんな事を思い出して、一人で笑っている私を無視して彼が会話を続けた。
「ありがとう。お陰でようやく、人並みの生活が送れそうだ」
「え?人並みの生活?」
聞き返すも説明の素振りもなく、「ここの住み心地を、今晩一緒に確認してくれないか?」などと言ってくる。
前の疑問も去る事ながら、会話について行けない。
「……今、何て言った?」
「どんな住み心地か、ユイにも確認してほしい」
「私が確認してどうするのよ。住むのはあなたよ?気に入ってくれたんじゃないの?」
「ああ。気に入ったよ」上機嫌で答える。
「なら、いつもの冗談なんでしょ!」
またおかしなジョークを言っているのだ、そう思う事にした。
「今度、その住み心地の感想、聞かせてよね!それじゃ、私はこれで」
一方的に言葉を浴びせて、私はさっさと部屋を飛び出した。
前にも新堂を家に泊めた時に、一緒に寝るかと彼が言ってきた。そんなジョークを言う人とは思っていなかったので腰が抜けるくらい驚いた。
けれどそれが結局冗談で、本気にした私は恥かしい思いをした訳だ。あの苦い経験は忘れもしない。
「分かりずらいジョーク、やめてよね!」
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