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第一章 大嫌いな人を守る理由
9.ピンク色のユリ(1)
しおりを挟む三学期が始まり、再び学校へと通い始める。今は新堂の送迎はない。
「ふぁ~あ……またフケよっかなぁ」あくびをしながら呟き、机の横に掛けた鞄に手を伸ばす。
「ユイ~?たまには最後までいなさい!」
知子が透かさず言い返し、私の鞄を先に取り上げて胸に抱えた。
「ん?……ちょっと。アンタのカバン、何でこんなに重いの!」知子は大袈裟によろめいて見せる。
当然だ。そこに鉄の塊が入っているのだから?
「返して!鉄アレイ入ってるの。鍛えてるのよ」もちろん入っているのは鉄アレイではなく、大切な宝モノ。
早くコインロッカーに戻さねばと思いつつ、手放すのが名残惜しくてできずにいる。
「ホ~ント、ユイって変わった子!」知子が両手を広げて声を上げた。
対する多香子は冷静に諭してくる。「何でもいいけど。これ以上早退すると、本当に卒業するの厳しくなるよ?」
大抵途中で帰ってしまう私を心配してくれるのは有り難いのだが。
「だって……。マラソンの授業、張り切り過ぎて疲れちゃってさ~」
「この不良学生!」相変わらず手厳しい知子。
「あ、あれ……何だか、体調が急にっ!」試しに胸に手を当てて言ってみるも、「ダメダメ。バレてるよ、仮病でしょ!」多香子にあっさり見抜かれてしまった。
「ダメかぁ~」
受験生とはいえ体を動かすのは重要だという事で、我が校では体育の授業が省かれる事はない。この日は、五キロのマラソンがあった。
「マジに走るからだよ。順位って、単位に関係しないよ?」と知子。「参加する事に意義あり!ってね」多香子が続く。
「それにしても皆遅すぎ!体育の先生と二人で待ちくたびれたわよ」と嘆く私に、「当ったり前よ。歩いてたもん」と二人は同時に答えた。
「そもそも、何のためにか弱き女子に五キロも走れってのよね~。男子だけでいいじゃん?だいたい柔道の授業とかさぁ~、このガッコー、おかしいよね!」
この知子の言葉には、「ストレス解消には打って付けでしょ!」と声を大にした。
「あ~あ~。またケンカしたの、あのイケメン主治医センセイと?」
いきなり会話に加わったチエ。羨ましげに私を見て言う。
「ケンカって何?するほどの仲じゃないし!」
不機嫌になる私を、二人はおかしそうに笑っていた。
そんな私をその場に残して、いつの間にか話題は一転、勉強の話になる。
この時期になると、受験生は神経がピリピリし始める。ここ進学校にいる限り仕方のない事だが、そんな雰囲気が堪らなく嫌だ。
「ねえ多香子、この問題ってさぁ、どうも分かんなくて」
知子が参考書を開いて、指先でトントンと示している。
「どれ?……ああ、これね。簡単簡単!教えてあげる」クラスでも上位の成績を誇る多香子が答える。
「さすが秀才、恩に着る!」
こんな友人達をただ眺めるだけの私。こうして二人も受験に向けて、猛勉強の日々を送っているのだ。
それを横目に小さくため息をつく。「来る学校、間違えたよね、私……」
こんな調子で帰りそびれてしまい、珍しくホームルームの時間までいたのだが、最後の授業の辺りからは完全にぼんやりとなっていた。
「やっぱり、マラソンにリキ入れ過ぎたかなぁ」
そう呟いた時、後ろから声がかかる。「ユイはいいよね~。余裕って感じ?」
「そんな事ないって。多香子こそ頭いいんだから余裕でしょ?ご存知の通り、私はほら、卒業するのに必死なんだから!」
欠席しがちなせいで、卒業に必要な単位を取得できるかヒヤヒヤだ。
そんな私を尻目に、授業が終わると同時に下校する生徒達の流れに乗って、友人達もさっさと帰ってしまった。
「何だか、今日は疲れたな。……ホントに体がだるくなってきたわ」
いつの間にか、教室には私だけが取り残されている。
皆が受験勉強に必死な中、こうして呑気にしている自分にどうしても罪悪感を感じてしまう。
「何よっ、私だって大変なんだからね……?」
そんな事を思いながら机に突っ伏しているうちに、寝てしまったらしい。
「う……ん……」息苦しさで目を覚ます。何だか苦しい。
上体を起こしてみると、だるさが倍増しているばかりか呼吸をするのも辛い。いつもの呼吸困難とは様子が違う。
ただならぬ自分の状態に怖くなり、ポケットから携帯電話を取り出す。
「そう言えば、これ使うの初めてだな……」
新堂にショートメールを送ろうと思い立ち、覚束ない手つきで文字を打って行く。
〝とても体調が悪い。一人で帰れそうもない。教室まで来てほしい〟
電報のような文面を作り終えて、読み返してみる。
「連絡していいって言われてるもんね」
勢いをつけて送信ボタンを押した。
再び机に突っ伏して、荒い息を続ける事十分弱。何の音沙汰もない。
「使い方、間違えたかな……。もういいや、自力で帰るか」
そう思って立ち上がろうとしたけれど、体はさらに重くだるかった。どうやら熱があるようだ。それもこの感じでは結構高そうだ。その昔幼い頃、よく風邪で熱を出していた私は、そんな事が感覚的に分かる。
もうすでに日が暮れて薄暗くなった教室内。冷え込みはいよいよ厳しくなって行く。
「お母さぁん……」無意識にこんな言葉が漏れた。
それからどのくらい経ったのだろう。ぼんやりしていて良く分からない。
静まり返った教室に、ドアが開くガラガラッという派手な音が響き渡った。
「朝霧ユイ。まだいるか?」
ようやく新堂先生のご到着のようだ。
「先生……」顔だけをそちらに向けて、彼を確認する。
「遅くなって済まない。オペが長引いてね。どうした、大丈夫か?」
私の体を起こして、額に手を当てられる。
何も答えずに、呼吸の荒さで高熱を訴えてみた。
「こんな寒い所に、ずっといたのか」新堂がやや体を震わせて言う。
「……寒くないもん」
「熱があるからだ。風邪でも引いたか?」
彼は例の症状が再発したとは言わなかった。
「今日は何を?」と質問が続く。
「強いて挙げるなら、体育のマラソン?」
「何キロ?」
「五キロ」と答えた後に、しばし沈黙が続く。
しばらく間を置き、「それで、完走したのか」と新堂が改めて聞いてくる。
「当然でしょ。ブッちぎりで優勝よ」
急にテンションが高くなって元気に答える私に、彼は頭を抱えた。
「お陰で皆のゴールを待ってるうちに、体が冷えちゃった」
新堂がため息をついて、「病院へ行くぞ」と私の体勢を起こしにかかる。
「病院じゃなくて、家に帰りたい」
「ウイルス性の肺炎かもしれない。念のため調べる」
「家に……」
再び訴えようと口を開いたが遮られてしまう。
「おまえに拒否権はない。立てるか?」あっさり会話の主導権を持って行かれた。
ふらつく私は、支えられながら車へと向かう。
「保健室で待っていれば良かったのに」非難し始める新堂。
「今日、保健の先生、お休みなの」
「もっと早く来れれば良かった。済まなかったな」新堂が謝罪の言葉を口にした。
これには慌てて、「ううん。いいの。私が急に呼び出したんだし」と否定する。
もはや私の思考は正常ではなかった。横にいるのが誰で、どんな人物なのかも忘れるくらいに。
車に乗り込むと、私はそのまま病院へ連れて行かれた。
到着後ベッドに寝かされると、睡魔にあっさり負けて深い眠りについた。
数時間後、病院のベッドで目を覚ます。
「新堂先生……」
「起きたか。あと少し放置していたら、本当に肺炎になっていたところだったよ」私を見て静かに言う。
「風邪じゃなくて?」
「おまえの肺は、炎症を起こしやすくなっている。風邪のウイルスが、肺に入るところだったんだ」私のために分かりやすく解説してくれる。
「昼頃まで、全然普通だったのよ……。肺炎って!」大袈裟だと思いながら訴える。
「ユイは我慢強いから、少々の不調は感じなかったんだろう」
「それって、褒め言葉かしら?」
「どうとでも。熱が下がるまでは、ここで様子を見る」と答えて私に近づく。
「どうとでも」同じセリフを言ってみる。
私に新たにもう一本の点滴針が刺し込まれる。いつものように抵抗する気力もない。
体が底なし沼に沈んで行くような感覚が、どうしても消えない。
「頼むから、無茶をしないでくれ。こんな調子じゃ、いつまで経っても治らないぞ?」
沼の水面から聞こえてくる新堂の声。
「無茶なんてしてない。こんなの普通よ。学校がつまらないだけ」
意味不明な事を言っている自分に気づくけれど、どうでも良くなる。
「五キロも走っておいて普通か!」
呆れてため息をつく彼が見えた。私を見て、いつまでも首を横に振っている。
先生は、私の何を否定しているの……?沼底に沈められたまま身動きもできずに、ただこんな訳の分からない事を考え続けるのだった。
翌日。懸念された肺炎になる事もなく、熱は無事に下がり、その日の午後には退院が許可されて新堂のマンションへと〝帰宅〟する。
「先生……、体中が痛いんだけど!」動きが制限されるくらいの痛みだ。
「高熱を出したせいだ。そのうち良くなる」
「熱は下がったよね?まだ痛い!」ベッドに横になるのも辛くて訴える。
「体がまだウイルスに対抗しているサインだ。おまえの免疫システムが正常な証拠。我慢しろ」
「ふう~ん……。この筋肉痛、動かしてたら良くなるんじゃない?」
「あのなぁ」新堂が呆れた様子で私を見つめる。
「大人しく安静にしてろって事だ!つべこべ言ってないで早く寝ろ」
いつまでも体を横たえる気配がない私に痺れを切らしたらしく、声に怒りの色が見え始めた。
力尽くでベッドに押し付けられるも、負けずにムダな抵抗をする。
「痛いってばっ!もう少し、優しくできない訳っ?」
「おまえが言う事を聞かないからだろ」
安静にしろって、自分で言ったくせに!
やっぱりこの人は、どんな時でも一筋縄では行かない。
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