大嫌いは恋の始まり

氷室ユリ

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第一章 大嫌いな人を守る理由

4.キケンな賭け(1)

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 闇世界の冷血男、新堂との交渉から三日目。タイムリミットまで、今日を入れてあと五日しかない。
 早朝に連絡を入れた後、私は中里新薬研究所に足を急がせた。
 約半年ぶりの再会だったが、この男は相変わらず大きなアメ玉を転がしていた。

「やあ、久しぶいらな。あしゃぎい!」中里の片側の頬が不自然に膨らんでいる。
 座り慣れた丸椅子に腰を下ろして頭を下げた。「ごめんなさい、突然」
「ようやく決心してくれたって事らよな?」
「ええっと……」

 歯切れの悪い私の回答に、中里が話題を変えた。
「時に……。お袋さんはどうなんだ?」
「その絡みで!お願いなんだけど」意を決して口を開く。もう私に迷っている時間はない。

「その仕事って、五日以内に決着つけられる?」
「五日だって?また無茶を言ってくるね。なぜそんなに急ぐ?」
「ちょっと事情があって」詳しい話をするつもりはない。
 幸い突っ込まれる事はなかった。そんな事よりも深刻な問題を抱えていそうだ。
「こちらも早い方が助かるが。何せ今まで時間を食っちまったからな……」
 恨めしい目つきが私に向けられる。

「他の治験者を見つけられなかった腹いせは、やめてほしいものだわ!」
「悪い悪い!冗談さ。だがそれはそうと、お前……体調悪そうだぞ?本当に大丈夫か」
 私の顔を改めて観察しながら言ってくる。
「ちょっとくらい血が少なくたって、問題ないでしょ」

 しばらく見定めるように目を細めて私を見ていたが、やがて中里が答えた。
「貧血か……。若い女性には良くある事だな、まあいいさ」
「それじゃ商談成立ね!時間がないの、早く済ませて。それで報酬だけど……」一旦言葉を切って様子を伺う。
「ああ。要望を聞くよ」すぐに返事がきた。

「前に、二千万でもって言ってたよね?」
「良く覚えてたな」
「それでお願いします!」

 沈黙が続く。いいのか悪いのか分かり兼ねる表情で不安になる。

「まあいいだろう」
 この言葉を聞いてホッとする。「……良かった。それと、もう一つお願い。できたら前払いで貰えない?」
「二千万はさすがにすぐには用意できないな」
「そう、よね……」
「そんなに急ぎか?」

 私自身がどうなるか分からない状況だ。当日、約束の新堂との交渉に行けるかも定かではない。代金だけでも用意しておきたかったのだが。

「まあ……、今日は無理だが、明日には用意するよう努力しよう」
「ホント?ありがとう!」
「言っとくが、朝霧だから、こんな要求を飲んだんだぞ?それと。次はないからな」
「分かってる。恩に着る、中里さん!大好きっ」

 思わず抱き付きそうになったところで、椅子ごと後退りされた。
「……バカ。そういう言葉を簡単に使うな」
「ゴメン、つい……」

 おかしな雰囲気になってしまい、さらなる要求を続ける。「もう一つお願い。五日後、私にもしもの事があったら……」
「今からそんな事を言うもんじゃない。縁起でもない!」
「いいから聞いて!そのお金、片岡総合病院に運んでほしいんだけど、それも頼める?」
 無言の中里に向かって、もう一押しする。「万が一よ」

 そんな折れない私を見てか、またしても要求を飲んでくれた。
「ああ、分かったよ。それじゃ、始めるか」
「ありがとう」これで目途が立った。


 こうして私の危険な賭けが始まった。
 初日もすでに、夜を迎えている。

「案外何ともないじゃない。このまま終わったりして?こんなんであの額を稼げるならラッキーね!」
 ちょうど良く休息も取れて一石二鳥と、思わずベッドでニヤついてしまう。
 そんなところを、部屋に入って来た中里に見られる。
「すでにワルの顔になってるぞ、朝霧」
「あら、お互い様よ。あなただって、もうすぐ一儲けできるんだものね?」


 そんな余裕たっぷりだったのも束の間、二日後の夜、私は微熱を出した。

「ねえ……風邪、引いたのかもよ?」少々荒い息をしつつ、診察をする中里に言う。
「いや。安易にそんな診断はできない。しばらく中断だな」
 順調に進んでいたのに中断なんて、時間がもったいない!プラス思考の私はそんな事しか考えない。
「大丈夫だってば!」
 だがこの要望は通らなかった。「とにかく様子を見よう」

 そしてその数時間後、異変は起こった。
 急に息が苦しくなり始めて、緊急ボタンで中里を呼び出す。

「中里さん、何だか、苦しいんだけど……」
「いつからだ」
 駆けつけた彼が、私の指先に酸素を測る機械を取り付けて尋ねる。

「さっきよ。ちゃんと吸い込んでるのに、うまく息ができないの……!」
「……数値が低いな」指先の機械から数値を読み取って呟く。
「中里さぁん……」私はどうなるのだろう?急に不安が襲ってくる。
「大丈夫だ。今、酸素を持ってくる。すぐに良くなるよ」

 そう言って出て行く中里の背中を確認したのが、私の覚えている最後の瞬間だった。
 やはり、そう簡単には行かないらしい。



 目が覚めた時、私の視界には白い天井が映った。

 そのすぐ横には、なぜか片岡先生がいる。
「ユイちゃん、分かるかい?ここは僕の病院だよ」優しいいつもの声が耳に届く。
 声を出そうとしても、思うように息が吸えない上に、力も入らない。
「二日間も眠っていたんだ。まだ苦しいね。もう少しの辛抱だからね」
 私の心を読んだように先生が言ってくれた。

 そこへ、もう一人誰かが入って来た。
「失礼します」
 それは白衣を着た新堂だった。見間違いでなければ!なぜこの男が?
 入って来た途端、二人が何やら言い争いを始めた。

「全く。君の気紛れにはいつも振り回されるよ!まさかこの依頼を受けるとは……。あれだけこの子達に関わるなと言っただろう?」
 どうやら、片岡先生はお怒りの様子。
「気紛れとは失敬な。きちんと契約は交わしましたし、院長の許可も取ったはずですが?」
 対する新堂は、例の淡々とした口調だ。

「それと。誤解しないでください、こうなったのは単なる偶然です。私も好きで関わっている訳ではありません」すぐさま否定の言葉を追加する。
「できる事なら、関わってほしくはなかったね!」
「おや、いいんですか?それはつまり、見殺しにするという事になりますが?母娘共々!」
「黙りたまえ!」

 いつも穏やかな片岡先生が怒鳴り声を上げている。こんな光景が、どうしても現実とは思えない。

「患者の前ですよ、院長」
 しかも、この男にたしなめられているなんて!やっぱりこれは夢に違いない。
 それにしても何の話だろう……。私の事、なのだろうか?

「まあいい、過ぎた事だ。君の腕だけは認めてやる」
 新堂がこの言葉を受けて、嫌味な笑みを浮かべた。
「ユイちゃん、この男と何かあったら、遠慮なく僕に言うんだよ?また見に来るからね」そう言って離れて行く片岡先生。

 行かないで!と必死に呼び止めたけれど、この声は届かなかった。
 ドアが閉まり、二人きりになってしまう。

「全く憐れな連中だ!」新堂がドアに向かって吐き捨てるように言う。
 こんな新堂の冷酷さと白衣姿が耐え難い恐怖を私に与えて、またしても気が遠くなって行く。
 振り返った新堂は私に目を向けると、ポケットから両手を出しておもむろに腕組みをした。

「さてと。君には聞きたい事が山ほどあるが……まだ無理だな」
 意識の定まらない私を見下ろして言う。
「君としては、なぜ私がここにいるのかと聞きたいんだろう?」
 薄笑いを浮かべながら一人語る新堂は、どこまでも私を不快にした。
「中里恭介とは、医学部の同期でね。あいつに君を助けてくれと依頼されたんだ」

「どっ、同期……!?」
 世の中って、何て狭いんだろう……。まさかそこで繋がっているとは。
「ああ、それと。ヤツから現金を預かっている」全く表情を変えずにそう続ける。
「そのお金……!」寄りにも寄って、この男に預けるとは!

〝朝霧、しっかりしろ。お前だけは、どうしても死なせたくない!〟
 記憶の彼方で、中里さんのこんな言葉を聞いた気がする。

「それで、中里さんは?」
 体を起こそうとしたところで、乱暴にベッドに押し付けられる。
 動いたせいか急激に気分が悪くなった。咳も出始めて、次第に息が苦しくなる。
「ここにはいない。いいか、君は絶対安静だ」

 今の私に反論の余地はなかった。
 それにしてもこの威圧的な態度は、私の大嫌いな医者の典型的姿ではないか!

 もっともっと言い返したかったけれど、……悔しながら意識はここまでだった。


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