上 下
42 / 82
第参話──九十九ノ段

【廿伍】罰

しおりを挟む
 篠山栴檀は戸惑った様子だった。しかし零の手の短刀を認めると、弾かれたように腰を浮かせた。

 その彼の前で、零は粛然と立ち上がる。
「まだ私で良かったと思ってください。……あなたのお姉さんの最期を見届けましたが、そりゃあ無惨なものでしたよ。あなたの罪は、彼女以上に重い。太乙様なら、体を八つ裂きにしていたでしょう。しかし彼女は、人間に直接手を下す事はできないので、代わりに私が来ました」

 淡々としたその言葉におののいた栴檀は、長火鉢を蹴り倒して、背後の襖まで退いた。
 零が一歩前に出る。

「私は血を見るのは嫌いですのでね。八つ裂きになどはしません。ですがせめて、心から悔やんで欲しいとは思います。生きている事を後悔するくらいの懺悔を、見せて欲しいですね」

 襖に背を預けた栴檀が震え声を上げる。
「な、何者だ、貴様は……!」
 零は小首を傾げ、光のない目を栴檀に落とした。
「さぁ、分かりません。せめて人間であって欲しいとは思います」
「…………」
「怖いですか? 怖いですよね。なら、謝りましょうよ。あなたのお姉さんは、謝っていましたよ、ごめんなさいと」
 再び零が前に出る。寄り掛かった重みで襖が倒れ、栴檀は隣室に転がり込んだ。

 そこは、作業部屋のようだった。栴檀が絵に専念するための部屋だろう。作業机や画材の棚が配置されている。
 だが目を引くのは、部屋の中央に置かれた屏風絵。

 ――そこに描かれているのは、七色の布で逆さまに吊るされた女。

 乱れた着物から太腿や乳房が露わとなり、滴る鮮血がそれらを彩る。
 絶望に包まれたそのまなこすがるように見る先は、天井から糸を垂れる、女郎蜘蛛。
 無念を託すような彼女の美しい瞳の色は、灰色――鯉若のものだ。

 だがその画風は、現在の篠山栴檀のものではない。古典的な日本画の筆致――九十九段の天井にある、錦鯉の絵に似ている。

「……君の推理にはひとつ、間違いがある」
 ヨロヨロと栴檀が立ち上がり、屏風に手を添えた。
「私が師匠を殺した理由だ。……私はこの屏風を、どうしても手に入れたかったのだよ」

 狂気じみた声が、甲高く室内に響く。
「どうだ? 美しいだろ? あの女は最後、命果てる寸前に、瑪瑙の間にこうして吊るされたのだ。事情を聞いたあの鬼畜は、画材を手に、あの部屋へ向かった。そして、描いたのだよ。……私が、私が描きたかった!」
 震える手をかざし、栴檀は叫ぶ。
「これを愛と呼ばずに何と呼ぶだろう! 私はこの女に惚れた。そして、いつか私の絵で、この女を描いてやろうと思った。そのために、この屏風がどうしても欲しかった。ところがだ。あの鬼畜は俺に、十万円なら譲ってやろうと宣った。おまえのような綺麗な顔なら、陰間でもやればすぐだろうとな!」

 零は無表情にそれを眺める。栴檀はキキキ……と笑い声を漏らしながら続けた。
「だから殺した。そして、顔を捨てたのだ、画家として生きて行くために。――だが、何度描いても、納得のいく絵が描けない。こうも冷酷に、この女の断末魔だけは描けないのだよ」
 屏風に寄り掛かるように、栴檀は膝を折った。

 冷淡に見下ろす零の口が動いた。
「それは、あなたの中に、生き生きと微笑む彼女の姿がずっと、あったからでしょう」

 ――玄関、そして妓楼の襖絵のような、清々しい思い出が。

 魂が抜けたように項垂れる栴檀を前に、零は短刀を抜き放つ。
 月を切り抜いたような一閃は、栴檀の体を、そして屏風の鯉若を両断して、再び鞘に収まった。

 畳に血が広がる。
 屏風を濡らす血飛沫は、まるで彼女自身のものように流れ落ち、やがてゆっくりと弟の上に倒れた。
 その下に横たわる、仮面が外れ顕となった栴檀の顔に、深い懺悔の色が浮かんでいるように見えるのは、零がそう思いたいだけだろうか。

 居間からパチパチと火が爆ぜる音がした。倒れた火鉢の火が座布団に引火したようだ。
 零はそのままそれに背を向け、屋敷を後にした。


 ◇

「――おはようございます!」
 桜子の元気な声が事務所に響く。
 対してハルアキは、ゲッソリと青白い顔をしていた。

 翌日の犬神怪異探偵社。
 いつものように紅茶を飲みながら新聞を眺めていた零は、ハルアキの様子に目を細めた。
「どうかしたんですか?」
 ハルアキはのそのそと応接椅子に座り込むと、背を丸めて膝を抱えた。
「ものすごく接待をされた」
「…………」
「シゲ乃と申す大家、それに住人の女共に、浅草じゅうを連れ回された。十二階に浅草オペラ、浅草寺に不忍池……」
 ハハハと零はカップを置き、椅子に身を預け腕組みをした。

 前の晩が遅かったため、昨日は休みとしたのだ。桜子が下宿に連れ帰った時はどうする気かと思ったが、休日を満喫してきたようだ。

「それは良かったではありませんか」
「良くなどない! 女物の着物を着せられたのじゃぞ!」
「濡れた服を洗濯しなきゃならなかったもの。着替えに、大家さんのお孫さんのお古を借りられただけ、感謝なさいよ」
 桜子の言葉に、ハルアキは頭を抱える。
「その上、そなたの寝言が酷くて眠れなんだわ……余は疲れたぞ……」
 長椅子にゴロンと寝そべるハルアキに、桜子が呆れた目を向けた。
「その割には、随分と楽しんでたじゃない。人形焼きとか雷おこしとか、いっぱいご馳走になって」
「断ってはならぬと無理をしたのじゃ! ……うう、気持ち悪い……」

 そんなハルアキを横目に、桜子は零の机へとやって来て、ポンと菓子箱を置いた。
「大家さんからお土産よ。……何かね、知り合いの娘さんが絵の勉強をしてるらしくて、適当なモデルがいないか、探してるそうなの」
 と言って、桜子は零に顔を寄せた。
「――ヌードモデルを」
「いや、それは……」
「勿論、断っておいたわよ。こんな貧相な人より、もう少しマシな人、探せばいくらでもいるわよって」
「…………」

 それから桜子は、机に広げられた新聞記事に目を止めた。
「そういえば、篠山栴檀って人、亡くなったそうね、火事で」
「そのようですね……」
 零は桜子の目から隠すように、新聞を畳んで引き出しに入れた。
 その様子に細めた目を向け、桜子は声を低める。
「小間使いの男の子の話じゃ、その直前に、来客があったそうね。背の高い男。警察は、そいつが事情を知ってるんじゃないかって、探してるみたいよ」
「そうですか」
「一応、遠回しに関係者なんだし、あなたも調べたら?」
「私は探偵ですからね。お金にならない仕事はしませんよ」
 そう言いながら、零は菓子箱から人形焼きを取り出し、パクリと頬張った。

「……それと、今回の依頼人のお榮さんには、何て報告するの?」
「竜睡楼の瑪瑙の間から発見された骸骨の中に、失踪した鱒三さんのものがあるか、警察が調べています。その結果が出たら、警察から、彼女に連絡が行くでしょう」
「それじゃあ、依頼料が貰えないじゃないの? 言ってる事が矛盾してるわよ」
 ……さすがに桜子は鋭い。零は溜息混じりに頭を掻いた。

 警察は、瑪瑙の間の骸骨について、篠山栴檀が何らかの方法で殺害し、その場へ遺棄していた、としたようだ。――桜子にも、そう伝えるつもりである。
 その篠山栴檀の死によって、真相は闇に葬られた。
 これ以上、捜査が進展する事はないだろう――篠山邸から立ち去った、謎の男の正体を含め。

 桜子も人形焼きに手を伸ばす。
「それにしても、変な夢を見た気がするのよね。……なぜか、巨大な甲虫になってね、街を壊して回るのよ」
 零はハルアキに目を向けた。桜子、そしてシゲ乃にも、彼によって忘却の術を掛けられているのだが、今の彼が使う術は、あまり頼りにならないようだ。
「凄く馬鹿馬鹿しいんだけどね、なかなか爽快だったわ」
「活動写真なんかにしたら、面白いかもしれませんよ」
 零がそう返すと、桜子がパチンと手を打った。
「そうだわ、今度活動写真を観に行かない? 浅草電気館に」
 零は目を丸くした。……まさか、桜子にそんな誘いを受けるとは思わなかった。

 こんな風にごく普通に、『人間』として生きていて、果たして許されるのだろうか?

 だがすぐに桜子は、そんな零の視線からプイと目を逸らした。
「ガキンチョがどうしても行きたいって駄々をこねてたんだけど、昨日一日じゃ時間がなくて。保護者として付き合ってよね」

 ハルアキは先程から反応しない。眠ってしまったようだ。
 桜子がハルアキに上着を掛ける。
 普段は見せない優しい横顔を見て、零は思った。

 ――この穏やかな日常も、きっと、運命なのだ。

 零は微笑んだ。
「そうですね、行きましょう」



 ──第参話 完──
しおりを挟む
感想 8

あなたにおすすめの小説

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

京都式神様のおでん屋さん

西門 檀
キャラ文芸
旧題:京都式神様のおでん屋さん ~巡るご縁の物語~ ここは京都—— 空が留紺色に染まりきった頃、路地奥の店に暖簾がかけられて、ポッと提灯が灯る。 『おでん料理 結(むすび)』 イケメン2体(?)と看板猫がお出迎えします。 今夜の『予約席』にはどんなお客様が来られるのか。乞うご期待。 平安時代の陰陽師・安倍晴明が生前、未来を案じ2体の思業式神(木陰と日向)をこの世に残した。転生した白猫姿の安倍晴明が式神たちと令和にお送りする、心温まるストーリー。 ※2022年12月24日より連載スタート 毎日仕事と両立しながら更新中!

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?

すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。 「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」 家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。 「私は母親じゃない・・・!」 そう言って家を飛び出した。 夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。 「何があった?送ってく。」 それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。 「俺と・・・結婚してほしい。」 「!?」 突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。 かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。 そんな彼に、私は想いを返したい。 「俺に・・・全てを見せて。」 苦手意識の強かった『営み』。 彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。 「いあぁぁぁっ・・!!」 「感じやすいんだな・・・。」 ※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。 ※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。 それではお楽しみください。すずなり。

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

下っ端妃は逃げ出したい

都茉莉
キャラ文芸
新皇帝の即位、それは妃狩りの始まりーー 庶民がそれを逃れるすべなど、さっさと結婚してしまう以外なく、出遅れた少女は後宮で下っ端妃として過ごすことになる。 そんな鈍臭い妃の一人たる私は、偶然後宮から逃げ出す手がかりを発見する。その手がかりは府庫にあるらしいと知って、調べること数日。脱走用と思われる地図を発見した。 しかし、気が緩んだのか、年下の少女に見つかってしまう。そして、少女を見張るために共に過ごすことになったのだが、この少女、何か隠し事があるようで……

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。