上 下
39 / 82
第参話──九十九ノ段

【廿弐】太乙

しおりを挟む
 ――死を望んではおらぬであろうな。

 ハルアキの言葉への返答を避けたのは、零の心に、否定できないものがあったからだ。

 太乙のしもべとして妖と対峙するその苦悶の中で、常にそれを望んでいると言っても過言ではない。

 ――自由ならざる身。

 彼もまた、鯉若と同じく、雁字搦めの宿命の中で足掻いている。
 その苦悶を、死によって終わらせられるのならば、どれほど良いだろうか。

 鯉若は、その苦悶を愛に逃げた。
 弟への偏愛という愛情が、彼女の救いであった。

 ならば彼にだって、救いのひとつくらい、あったって良いではないか。

 ――記憶にない罪への罰。
 久遠に続くこの牢獄から、逃れるという希望。
 ささやかで朧げな灯くらい、この心に宿しても構わないではないか。

 蜘蛛の脚が動く。踏み付ける一撃を躱し、零は身構えた。
「……ですが、痛いのは嫌です。どうせ死ぬなら、楽な方法でお願いしたいです。それに、死ぬ時は、一緒の約束ですよ」

 漆黒の鞘を構える。そこに収めされた短刀を抜き放てば、だがそれは、三尺を超える大太刀となって現れた。

 ――陰の太刀。

 月を切り抜いた色に輝くその刀身に映る零の右目に、太陰太極図が浮き出る。
 太乙の眷属けんぞくとしての証。
 ……この印がある限り、彼に、自由などないのだ。

 束ねた髪が靡く。ほどけ乱れたその色が白へと変化する。
 自我を主に明け渡したその体が、階段を蹴って高く跳んだ。

 投網のように絡む蜘蛛の糸を刃が斬り裂く。
 解けた隙間を抜け、零であったモノは蜘蛛の頭上へ到達する。
 着物をひらめかせ、一閃が凪ぐ。防ごうと構えた黒い脚が斬り落とされ、緑色の体液が舞い散った。

 ガチガチガチガチ。

 怒りに震える八つの目に、もはや花魁の面影はない。
 すっかり蜘蛛に吸収され、本能のままに爪を突き出す。
 それをひらりと躱した体が背後を狙う。黄色と黒の毒々しい縞模様に、刃が突き立てられた。
「――――!!」
 悲鳴に似た空気の振動が耳を裂く。咄嗟に飛び退いたそこに、鞭のような糸が幾重にも通り過ぎる。

 脇を滑る階段に身を置き、彼は大蜘蛛の様子を窺った。
 ……だが、斬り落とした傷跡から再び脚が生えるのを見て、再び階段を蹴った。

 流れる階段を飛び移りながら閃く刃は、時に強靭な糸を、時に黒く鋭い爪を弾きながら、碧い空間を舞い踊る。
 大蜘蛛の目はその素早い動きを睨み据え、煌々と光る。

 交わされる殺気の応酬は、だが長くは続かなかった。

 突如、階段の動きが変わった。
 それは、籠を編むように複雑に組み上げられていく。零であったモノを、そこに封じる算段だろう。
 そうはさせぬと、狭められた隙間から彼が飛び出す。――だがそれが、大蜘蛛の狙いだった。

 その刹那、四方から蜘蛛の糸が飛んだ。
 隙なく張られた、鋼のように強靭な鞭撃を避ける術は、彼にはなかった。

 血飛沫が散る。
 鮮やかな着物に包まれた体が分断する。
 腕が飛び、胴が裂け、脚が切断される。

 体から離れた陰の短刀を、大蜘蛛の頭から伸びた白い手が受け止めた。
 その手に導かれるように、肩が、頭が、上半身が、黒い産毛から現れる。

「……残念だよ、一緒に死ねなくて」

 柄を掴んだ腕ごと、月の色をした刃を持ち直すと、鯉若はその刃先で、空間に身を任せる頸を斬り落とした。

 無表情な顔が血で染まる。
 その瞳の中で、太極魚は行き場を惑い、闇に消えた。



 ――途端。
 空間に何かが蠢いた。
 階段の裏、彼方の影。
 それは砂浜を洗う波のように、瞬く間に碧を消し去り、空間を満たした。

 靄。

 糸のような靄が渦を巻き、階段をし折り、呑み込んでいく。

「……何? 何なんだい?」
 戸惑う鯉若の手の中で、零の腕が動いた。
 ビクッと手を離し、見開いた目をそれに向ける。そして彼女は息を呑んだ。

 ――糸のような靄が、零の体と腕を繋いでいる。
 断ち切らたはずの胴や脚、そして頸も同様だった。
 それはするすると互いを結び付け、やがて何事もなかったかのように、ひとつの体に繋がった。

 ……しかし、元の姿ではない。
 毛先が見えないほどに長く髪は伸び、空間を満たす靄と繋がっている。
 鮮やかな着物の色は霞み、白地に裏黒の緩やかな衣装がその身を包んでいた。

「…………」
 呼吸が震える。
 その名は知らずとも、ただならぬ気配を、鯉若は感じていた。

 は、すっかり繋がった手の内にある陰の太刀の血を払うと、ゆっくりと顔を上げた。

 双眸そうぼうに光る、太陰対極図。



 ――太乙。



 あの世とこの世の境界を護る番人。
 言わば、この世に魂ある者全ての監視者である。

 初雪のような濁りのない肌に、凍て付いた水底のように揺蕩たゆたう黒髪。その長い毛先は徐々に色を失い、空間に溶け込んでいる。
 それは、この異空間自体が彼女そのものである事を示していた。
 光も闇もない領域に君臨する孤高の存在。
 その姿に抗える魂など、この世にはない。

 は色のない口を動かした。
「素直にあの世へ逝けば良かったものを」

「…………」
 鯉若は声すら出ない。強烈な圧が、彼女の恐怖を支配していた。
 そんな存在が、なぜ、ここに?
 なぜ、なぜ、なぜ、なぜ……!

 だが太乙は、彼女の混乱した意識になど興味がなかった。
 おもむろに手を伸ばす。すると靄が寄り集まり、彼女の、大蜘蛛の体を雁字搦めに拘束した。

「い、嫌……」
 恐怖に震える嘆願は、氷よりも遥かに冷たい声に打ち消された。
「ほう、この後に及んで未だ足掻くか」
 靄――太乙の髪が、鯉若を締め付けた。軋む体に耐えかねて、鯉若は悲鳴を上げる。
 それを見て、太乙は宣った。
「安心せい。楽には消さぬ」

 髪の束が蜘蛛の脚を、一本、また一本と引き千切る。緑の体液は光の粒子と化し、空間に溶けていく。

「止めて……助けて……ごめんなさい……ごめんなさい……!」
 全ての脚をもがれた蜘蛛の体を、髪がぐいと締め上げた。産毛に包まれた腹はひび割れ、体液が噴き出す。
「嫌あああ!」
「そなたがくろうた者共も、そう申したか?」
 涙に濡れ震える唇は反論できない。
 太乙は続ける。
「これは罰じゃ。貴様の罪に見合う罰じゃ。受け入れよ」
 縞模様の腹が弾け飛ぶ。凄まじい絶叫にも、太乙は表情ひとつ動かさない。

 大蜘蛛の頭から、ぬるりと鯉若の体が抜け落ちた。
 元の大きさに戻った彼女の下半身は、そこにはない。
 腕で這いずり太乙の足元に平伏した鯉若は、消え入りそうな声で繰り返す。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」

 その体を白い髪が絡め取り、蓑虫のように、雁字搦めに吊り上げた。
 辛うじて動く目だけを動かし、彼女は細い声を絞り出す。

「あたしは……どうやって……生きれば良かったのかな……」

 太乙はじっと灰色の目を見返し、答えた。
「知らぬ」

 飛沫となり、鯉若の体が飛び散った。

 その欠片が空間に溶け、消え去ったのを見遣り、太乙は太刀を鞘に収めた。
しおりを挟む
感想 8

あなたにおすすめの小説

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

京都式神様のおでん屋さん

西門 檀
キャラ文芸
旧題:京都式神様のおでん屋さん ~巡るご縁の物語~ ここは京都—— 空が留紺色に染まりきった頃、路地奥の店に暖簾がかけられて、ポッと提灯が灯る。 『おでん料理 結(むすび)』 イケメン2体(?)と看板猫がお出迎えします。 今夜の『予約席』にはどんなお客様が来られるのか。乞うご期待。 平安時代の陰陽師・安倍晴明が生前、未来を案じ2体の思業式神(木陰と日向)をこの世に残した。転生した白猫姿の安倍晴明が式神たちと令和にお送りする、心温まるストーリー。 ※2022年12月24日より連載スタート 毎日仕事と両立しながら更新中!

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?

すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。 「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」 家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。 「私は母親じゃない・・・!」 そう言って家を飛び出した。 夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。 「何があった?送ってく。」 それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。 「俺と・・・結婚してほしい。」 「!?」 突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。 かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。 そんな彼に、私は想いを返したい。 「俺に・・・全てを見せて。」 苦手意識の強かった『営み』。 彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。 「いあぁぁぁっ・・!!」 「感じやすいんだな・・・。」 ※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。 ※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。 それではお楽しみください。すずなり。

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

片翅の火蝶 ▽半端者と蔑まれていた蝶が、蝋燭頭の旦那様に溺愛されるようです▽

偽月
キャラ文芸
  「――きっと、姉様の代わりにお役目を果たします」  大火々本帝国《だいかがほんていこく》。通称、火ノ本。  八千年の歴史を誇る、この国では火山を神として崇め、火を祀っている。国に伝わる火の神の伝承では、神の怒り……噴火を鎮めるため一人の女が火口に身を投じたと言う。  人々は蝶の痣を背負った一族の女を【火蝶《かちょう》】と呼び、火の神の巫女になった女の功績を讃え、祀る事にした。再び火山が噴火する日に備えて。  火縄八重《ひなわ やえ》は片翅分の痣しか持たない半端者。日々、お蚕様の世話に心血を注ぎ、絹糸を紡いできた十八歳の生娘。全ては自身に向けられる差別的な視線に耐える為に。  八重は火蝶の本家である火焚家の長男・火焚太蝋《ほたき たろう》に嫁ぐ日を迎えた。  火蝶の巫女となった姉・千重の代わりに。  蝶の翅の痣を背負う女と蝋燭頭の軍人が織りなす大正ロマンスファンタジー。

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。