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第参話──九十九ノ段

【拾伍】廓ノ証人

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 シゲ乃は窓際の座布団に腰を下ろし、小引き出しから煙管キセルを取り出した。
「アタシが昔、吉原で遣手やりてをしてたって話はしたっけね」
 慣れた手付きで火皿に煙草を詰め、火鉢をから火を移す。そして一服吸うと、ふうと紫煙を吐き出した。
「その写真にある、大門の奥の提灯がぶら下がった妓楼ぎろうさ。大勢の遊女の抱えてね、その時は必死だったさ」

 シゲ乃は語る。
 遣手とは、妓楼で遊女の教育や管理、客との対応などを取り仕切る女性である。
 その遣手も、元はといえば遊女。遊廓の裏の裏まで知り尽くした、そういう存在だ。

「吉原に一歩入れば二度と出られない。それが当たり前だと思ってたさ。だけどある時、旦那が金を使い込んで出て行っちまってね。店が立ちいかなくなったら、あっさりと追い出されたんだよ」

 図らず吉原を外から見るようになったシゲ乃は、そこで遊女たちの処遇の厳しさを、改めて思い知った。

「あそこは人間の住む場所じゃない。そう心から思ったさ。……そんな牢獄の看守をしてたんだよ、アタシは。それを知っちまったら、心の端っこに埋もれてた良心ってのが燻りだしてね。たとえ一人や二人でも、あの大門の中に入らずに済むように世話をしてやろうって、下宿屋を始めたって訳さ」

 桜子はじっとその独白を聞き入っている。
 ハルアキもその隣に胡坐をかき、細く開いた窓から逃げていく煙草の煙を目で追った。
「ごめんよ、子供に聞かせる話じゃなかったね。……それでね、そんな遊女の中でも、とびきりの美人がいてね。それが鯉若ちゃんだよ」

 ――彼女が吉原に売られてきたのは、まだ八つの時だった。
 当時から群を抜く美貌をしており、その将来性を見抜いたシゲ乃は、彼女を花魁に育て上げるべく、特別な教育を施した。
 読み書き算盤そろばん、唄に踊りに楽器はもちろん、茶道に華道、囲碁将棋、和歌や絵画といった芸術分野の知識まで、ありとあらゆる教養を仕込んだ。
 花魁は吉原で最高位の遊女。政府の高官や銀行の頭取など、知識人の相手をするため、高い教養が必要なのだ。
 鯉若は頭も良く、それらの知識をみるみる会得していった。
 そして、禿、新造しんぞと経験を積んだ後、花魁となったのが十八であった。

「花魁と聞けば聞こえはいいけどね、並の遊女とは比べ物にならない重責があるのさ。身の回りの世話をする禿や新造を食わせなきゃならないし、あの豪華な衣装も自前なんだよ。自分の身売りの時の借金と、花魁であり続けるためのカネ。カネ、カネ、カネの雁字搦め。蜘蛛の巣に捕らえられた蝶も同然なのさ」

 ――蜘蛛の巣。
 ハルアキの脳裏に、珊瑚の間で聞いた禿の言葉が浮かんだ。

 鴨居の写真に懐かしい目を向けながら、シゲ乃は続ける。
「鯉若ちゃんはあの通りの美人だろ? すぐに売れっ子になってね。うちの妓楼だけじゃなく、吉原を背負う看板になったさ。あの写真はその当時、観光客向けに作った宣伝チラシ用の写真だよ」
「綺麗な人だと見惚れてましたけど、そんなに重いものがあったなんて……」
 桜子の言葉に、シゲ乃は微笑んだ。
「あそこには、足枷がない人間なんていないのさ」
「花魁の横にいる、あの女の子たちも?」
「そうだよ。あの子たちは、他の遊女が産んだ子さ。そういう子は、くるわの外じゃ生きていけないからね、禿になるんだよ」
「…………」
「この子たち、双子でね。確か、小鮎と小依って名だったね」

 ハルアキと桜子は顔を見合わせた。
 屏風に描かれた彼女らもまた、実在していたのだ。

 桜子は震えた声を絞り出した。
「その子たちは、どうなったんですか?」
 するとシゲ乃は、悲しい顔を彼女に向けた。


 ◇

 ――それは、明治十一年の出来事だった。
 妓楼の使用人である妓夫ぎゅうが色を失った顔をして、シゲ乃の元に駆け込んできた。

「てえへんだ! 鯉若が、足抜けしやがった!」

 足抜けとは、遊女が遊郭から逃げ出す事。
 遊女は妓楼にとって大切な商品。それを失う事は大損害である。しかも、妓楼の顔である花魁となれば尚のこと。

 すぐさま、彼女の世話をしていた禿たちが呼ばれ、厳しい詮索を受けた。
 ――それは、言葉だけでなく、体にも。
 妓夫たちから激しい折檻を受けた禿たちは、泣き叫び許しを乞うた。
「何も知りません! あちきは、何も知りません!」
 だが止まぬ拷問は、彼女たちの命を奪った……。


 ◇

「…………」
 息を呑む桜子の目に涙が光る。
 ハルアキも言葉を失い、眉をしかめた。
「小依ちゃんなんて、右手を踏み潰されてね。見るに堪えない有様だったさ。……それを止められなかったアタシの立場を、どれだけ悔やんだ事か」

 小依の右手の痣。あれは、その時のものなのだろう。
 ハルアキは目を閉じた。

「……それで、鯉若花魁は……」
 蚊の鳴くように震える桜子の声に、シゲ乃は答えた。


 ◇

 鯉若を贔屓ひいきにする上客に、とある画家がいた。
 彼は画壇に君臨する大物。
 若い画家を引き連れて、足繁く揚屋あげやに通ううち、彼は鯉若を身請けすると決めた。

 ――ところが。
 鯉若にはその時、想い人がいた。

 遊女が恋愛など以ての外。鯉若に、身請けを断る権利などなかった。

 鯉若の想い人は、身請けする画家の弟子。
 身請け先で彼と顔を合わせる事は、身を裂くような苦しみになるだろう。
 弟子である彼もまた然り。
 悲嘆した二人は、心中の約束をし、鯉若は足抜けをしたのだった――。


 ◇

「ところがね、心中相手が約束の場所に来なかったんだよ」
 シゲ乃は遠い目を曇らせた。
「待ち合わせ場所はじきに分かった。妓夫たちが駆け付けると、鯉若ちゃん、ひとりで待ってたそうだよ」

 足抜けは重罪。
 しかも、身請けが決まった身である。
 その身にかけられた金子きんすの重みだけ、罰を受ける必要があった。

 そして罰を与えるのは、既に二人の少女を殺めた男たち。

「…………」
 シゲ乃はそれ以上、何も言わなかった。
 だがハルアキには手に取るように分かった。
 ――血塗りの襖絵。
 それが全てを物語っていた。
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