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第参話──九十九ノ段

【捌】開カズノ襖

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 深々と頭を下げて女将が退出する。
 二人残された零と桜子は、魅入られたように、蒼い光景の中で立ち尽くした。

「……凄いわね……」
 桜子は、水中から水面を見上げるように、天井で揺らめく明かりを眺めている。

 零は、座敷の四面に配された襖をぐるりと眺めた。
 大小様々な種類の魚が、金泥や銀泥の鱗を輝かせ、蒼を背景にしても劣らぬ鮮やかさで見事に描かれていた。
 その構図は大胆かつ緻密に、立体的に構成されており、一歩踏み出せば、絵の中へ踏み込めそうな錯覚を覚える。
 襖を仕切る柱には美しい螺鈿が施され、立ち上る渦が表現されている。
 そして床の間に鎮座するのは、天井を突くほどに大きく枝を張った珊瑚。この蒼い空間にも染まらぬ紅が、圧巻の輝きを見せていた。

「こんなに素敵なお部屋、初めて見たわ……」
「えぇ、まるで竜宮城です」

 桜子は、部屋の中央に並べられた座布団に腰を据えた後も、落ち着かない様子で部屋を見回す。
 部屋の広さは八畳ほど。だが天井に広く配された照明と、奥行きのある襖絵のために、無限の空間にいるかのような感覚になるのだ。

 零は襖に歩み寄り、そっと引手に指を掛けた。
 細く開いた隙間から外を伺い見れば、座敷を取り巻く濡れ縁の外に、手入れされた庭園が広がっている。
 そのすぐ向こうには、黒々とした森。幻想世界から現実世界に戻ったような心持ちだ。

 襖を閉めて座敷に目を戻せば、桜子が帽子を横に置きながらこちらを見ていた。
「ねぇ、気にならない?」
「何がです?」
 零は桜子の向かいに腰を下ろした。すると彼女は声を低める。
「――なかったわね、瑪瑙の間なんて部屋」

 それは零も気付いていた。九十九段の下から順に、座敷の名前を確認しながら上ってきたが、座敷は六つだった。

 桜子は肩掛け鞄から絵葉書を取り出す。
「もしかして、この瑪瑙の間の写真、同じ名前の他の旅館かどこかと勘違いしてるんじゃないかしら」
「いや、それはないでしょう。はじめから部屋が六つなら、わざわざ七宝にちなんだ名前にする必要ありませんからね」
「それもそうね……」
「つまり、ない、と考えるべきかと」

 零は畳のへりを九十九段に見立て、その左右に順番に絵葉書を並べていく。
「それに、気になる事がもうひとつ」
 零は珊瑚の間を写したとされる絵葉書を手に取り、部屋をぐるりと見渡した。
「――この襖絵、この部屋にはありません」

 写真にあるのは、恐らく竜宮城を表現したのだろう、伝統的な絵柄の乙姫が、珊瑚の枝に腰を下ろして妖艶な眼差しをこちらに送っている図である。
 ところがこの座敷の襖絵には、ぐるりと魚が描かれているのだ。
 一枚一枚の鱗が遠くに近くにキラキラと瞬き、生きているかのように写実的に。

 零は絵葉書と室内を見比べ、おもむろに立ち上がる。
「乙姫が座っている珊瑚の枝ぶりが、よく見ると、床の間の珊瑚と対になっているようです。……となると、写真の襖は、床の間の側の、この面に当たるのではないかと……」
 そう言って零は、床の間の右側に並ぶ襖に手を掛けた。
 ところがである。襖はビクとも動かない。
「……何してんのよ」
 桜子もやって来て引手を引く。だがやはり、襖が動く様子はない。
「建付けが悪い、という訳ではなさそうですね」
「裏から板でも打ち付けてあるのかしら」
 桜子は零と顔を見合わせた。
「……もしかして……」

 それは、零も同感だった。
 ――この襖の向こうに、瑪瑙の間があるのだろう。
 瑪瑙の間は、何らかの理由により、開かずの間として封じられているのだ。

 桜子は襖の隙間に目を当てるが、何も見えなかったようで、首を横に振って座布団に戻った。
 零も座布団に腰を据え、手にした絵葉書を畳に戻すと、「瑪瑙の間」と書かれた絵葉書をそのすぐ上に移動させる。
「想像でしかありませんが……」
 零は絵葉書の列を見下ろしながら腕組みした。
「襖絵は一度、描き換えられたのでしょう。それは恐らく、瑪瑙の間が封じられたのと同時に」
 零の指が置かれた写真を覗き込み、桜子が眉根を寄せる。
「となると、それには何か、理由があるはずよね」
「はい。七つしかない座敷のひとつ――いや、正味ふたつを、人目に付かぬようにしなければならないほどの理由が……」

 その時、襖が開き、女中が連れ立ってお膳を運んできた。
「どうぞ、ごゆるりと」
 丁寧に頭を下げて退出した女中を見送った後、気勢を削がれた心持ちで、二人は黙々と料理に手を付けた。

 零はぼんやりと小鉢に箸を付けながら考える。
 ――九十九段の怪。
 その指し示すものに、篠山栴檀に関わりがある事は、間違いないだろう。
 彼がこの竜睡楼で手掛けたもの。それは、錦鯉の天井絵と吉原の屏風、そしてここ、珊瑚の間の襖絵。
 そのどれか、もしくは全てに、へと導く何かがあるに違いない。
 しかし、現状分かるのは、瑪瑙の間があったであろう事と、その入口と思われる場所のみ。果たして、これらは妖とどう繋がるのか。
 どちらにせよ、見込みが甘かったという点は、認めざるを得ない。
 怪異の正体が分からなければ、零には対処のしようがないのだ。
 現場を見れば、その手掛かりが、何かしら掴めるだろうと考えたのだが……。

「……ねえってば!」
 桜子の声にハッと顔を上げれば、むっつりと頬を膨らませた彼女の顔があった。
「何か?」
「何か、じゃないわよ。せっかくこんな高級料亭に来たんだし、少しは楽しみなさいよ」
 と、彼女はお銚子を差し出した。
「はぁ……」
 零がお猪口で受けると、桜子も手酌で一気にあおる。
 そしてお銚子をドンとお膳に置き、据わった目を零に向けた。
「前から言いたかったんだけど」
「な、何ですか、急に……」
 桜子は赤らめた目元を細めた。
「少しは人の事を信用なさいよ」
「……はぁ」
「あんた、私の事、鬱陶しいと思ってるでしょ」
「あ、いえ、け、決してそのような……」
「なら、なんでいつも私を置いてけぼりにする訳?」
 桜子は酔っているのだろう。だが構わずに、桜子は再びお猪口を空にした。
「いつだってあんたはそうなのよ。いっつもひとりで抱え込んで」
「…………」
「危ないから誰も連れてかないって事は、自分ひとりが危ない目に遭えば済む、って、考えてる訳よね」
「いや、その……」
「そういうところが気に入らないの!」
 もしかしたら、桜子は酒癖が悪いのかもしれない。しかし、こうなってしまっては仕方がない。
 零は言葉を受け流そうと首を竦めた。
「格好付けてるだけで、結局、人が信じられないんでしょ。……いい? 人間てのはね、誰かに頼らないと生きてけないの。そういう風にできてるの」

 上目遣いに睨む桜子の言葉はだが、零の鼓動をドクンと早めた。
 ――遠い記憶の片隅に眠る、あの声。

 だが当の桜子は、そんな零に訝しい目を送った。
「何? 私変な事言った?」
「……い、いいえ、全く……」
 慌てて手にしたままのお猪口に口を付け、盛大にむせ返った零に、桜子は冷ややかな顔を向けた。
「お部屋は見たんだし、お料理を食べたら帰るわよ。危ないんでしょ? 長居は無用よ」
「しかしですね、それは……」
「お姉さんの言う事が聞けないの?」

 零は頭を搔いた。そして思った。
 酒に弱いのならば、もっと飲ませれば、眠ってくれるのではなかろうか。 

 零は笑顔に表情を変え、自分のお銚子を差し出した。
「分かりましたよ、お姉さん」
 お酌を受けて口にすると、桜子はニコリと微笑んだ。
「それで良いのです、弟よ」

 ……それから何杯かお猪口を空ける。だが、桜子に酔い潰れる気配はない。
 ますます機嫌良く、桜子は故郷の会津の話をしだした。
 零は桜子にお酌をしながら、引き攣った笑みを浮かべた。
 ――未だ気配がないとはいえ、敵陣のただ中である。いつ何が起こるか分からない。

 すると都合の悪い事に、お銚子が空になった。
 途端に桜子が不機嫌になる。
「ここのお銚子、小さいわね。会津じゃ徳利で出てくるものよ。全然足りないわ」
「いや、このくらいにした方が……」
「何? お姉さんに口答えするの?」
「いいえ何でもありません」

 おかわりを貰ってくるわ、と桜子は立ち上がろうとして、フラリとよろめいた。
 ――その瞬間、が目に入り、零は身構える。

 蜘蛛。
 天井から伸びた糸の先で、八本の脚を伸ばして、逆さまにぶら下がっている。
 途端に感じる気配。……押し殺した視線が、ざわざわと四方で蠢き始めた。
 ――来たのだ。

 蜘蛛は糸をゆらりと揺らし、桜子の首元へ取り付こうとする。
 それを見て彼は察した。
 ――やはり、狙いは零である。
 妖が人に取り憑く際の理由。それは、標的を動きにくくするため。
 つまり、標的にとって身近な人物を人質に取り、攻撃を防ぐ目的だ。
 ……そうなってはたまらない。

「伏せて!」
 零はお膳から箸を取り、腕を伸ばして糸を断つ。
「キャッ!」
 押し倒された桜子は座布団に尻餅を付いた。

 一方、蜘蛛はポトンと畳に落ち、カサカサと素早い動きで、襖の隙間から階段へと消えた。
 恐らく、彼を誘っているのだろう――九十九段に。
 なかなか動きを見せない彼に業を煮やし、この部屋を追い出しにかかったのだ。

 ――つまり、この楼に巣喰う妖は、この部屋に直接の干渉ができないのだ。
 この部屋の役割。それは、妖のにえとなるに相応しいかどうかの見極め。
 零は見事、そのお眼鏡に適った、という訳だ。
 ならば、この部屋に居る限り、桜子の身は安全だろう。

「もう、急に何よ」
 桜子は不機嫌に零を見上げた。幸いにも、蜘蛛には気付いていなかったようだ。――いや、桜子には見えなかっただけかもしれない。
「あ、いえ、……蛾が、飛んでいましたので」
 桜子を助け起こしながら、零は彼女の背中に呪符を貼る。

 妖のとの親和性を断つため、常に持ち歩くようにと、以前、結界の効果を持つ呪符を入れた御守袋を桜子に渡しておいた。
 しかし先程の蜘蛛の様子を見るに、持ち忘れているか、あるいは効果が薄らいでいるか、そのように感じた。
 念には念を入れておくべきだろう。

「そんなのいないじゃない。……お酒を貰いに行くわ」
 再び立ち上がろうとする桜子の肩に手を置き、零は引き止める。
「私が行きますよ。その足取りで階段は危ないですから」
「何よ、私が酔ってるとでも言うの? 馬鹿にしないで」
「いや、待っててください。――必ず、戻りますから」
 そう言って零は、桜子を座布団に座らせる。
「だからね、そういうところが……」
「いいですね」
 やや語気を強め、零がニコリと桜子を見下ろすと、彼女はぷいと目を背けた。
「分かったわよ……」
 零は立ち上がり、襖に向かう。

 ――その肩で、蛾が鮮やかな模様の翅を広げた。
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