自らを越えて 第一巻

多谷昇太

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丹沢行(3)new birthへの旅

山上のミゼラブル(悲惨)…なのか?

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さて、ここまで来ると三ノ塔はもう近い。そこで昼食となるのだろうが俺にとってはここまでの奇跡の連続のみならず、かの山頂においても「山上の垂訓」ならぬどのような「山上のre birth(新生)」が、あるいは真逆の「山上のミゼラブル(悲惨)」が待っているのか…〝自らを超え行く〟登山はいままだ続行中である。
「うふふ。相変らず恥ずかしがり屋の村田君…あ、いや、村田先輩ですなあ。大伴さん、心配いらないです。女の感で先輩の固さがほぐれて来たのが分かります。かく云うあたしも何か皮が一枚めくれたような気がします。ありがとうござんした」そうミカが云うのに「いえいえ、どういたしまして。実はこれも登山のひとつの目的なのよ。塔制覇だけじゃなくってね。それぞれが欠点を直し、違いを超えて仲良くすることもね。な?カナ」と受けて且ついま一人にふる。しかしそのいま一人が「あたしは塔制覇の方がよかったなあ。仲良くばっかりじゃあ生きて行けないよ。弱ければ叩かれる、踏みつけられるだけさ。独りだけでも強く生きて行ける根性だよ。根性。こいつ…いや、この人(つまり俺)なんざあその反極みたいで…ウジウジしてさあ」と云うのに「こら、カナ。それが欠点だと云っているのよ。どうしてそう人を面前で貶すの?あんたの云うその根性の中身がそれならそんなもの…それに、今まで一人だけで生きて来た風に云うな。まったく。普段からお父さんやお母さんに盾突いてばっかりで…その矯正もかねるんだぞ、今日は」と早くも大伴さんが(山上の)垂訓をする。カナの額に青筋が浮かび「へん。そう云う朗子(あきこ)さんだって命令口調ばっかりでさ、あんたこそ普段から人を決めつけて強引なんだよ。勝手にメンバーを加えたり、ストレッチだのエールだの強引に人にやらせたりしてさ。自分の意向や指示がすべて正しいわけ?何がバレー部のエールだよ…」「まあまあまあ」必死にミカが止める。カーッと来た感じの大伴さんだったがF8の滝でのミカ(つまり泣き出した)を慮ったものかカナに云わずに「村田君」と俺に話をふって来た。ドキンとする俺。
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