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煉獄冥土編

修行の日々

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 お腹が空いた。下痢が止まらない。そして寒い。


 枯れた草木で作った原始人のような服で全身を覆ってはいるものの、全く防寒機能を果たしていない。縫い目の隙間から冷風が容赦なく皮膚をたたきつけ、身体の熱という熱をことごとく奪っていく。


 さらにもう一つ付け加えるなら、私は今、地べたで仮眠をとっている。


 氷と水しか存在しないこの然水氷園ぜんすいひょうえんにおいて本気の睡眠は凍死を意味するが、ただの仮眠程度でも、体温で融けた氷水が自前の草木製の服に染み込み、冷風と相まって体温を奪う速度に拍車をかけているのである。


 したがって、常に寒い。腹は冷え切り、常に下痢は止まらず、氷雪地帯であるためほとんど食料もなく、常に胃袋は空の状態だ。


 魔生物を狩れれば腹は満たせるが、魔生物は強大だ。たった一体で国すらも滅ぼせる天災に立ち向かう力などない。然水氷園ぜんすいひょうえんを支配する、悪夢のような極寒に耐え抜いて生きるのが精一杯だ。


 それでも自分が生物であるという現実は、容赦なく私を死へと追い込む。


 凍死からはいくらか逃げられても、餓死からは逃げられない。なんとかして胃袋を満たし、氷雪しか存在しない世界の中で餓死しない程度に栄養を摂取する必要がある。


 だが、私はほとんど食料の心配などしていなかった。何故なら食料など、自分の目に届く範囲にたくさんあったからだ。


「くそ、ぐぁ!!」


 私は淡々と、手に持っていた槍で``食料``を狩りとった。肌色をしたその生物は、血を垂れ流しながらぐしゃりと地面に倒れる。


 すばやく今日の``食料``にかけよった。周囲の警戒は当然怠らない。最も狙われやすいのが、狩りを成功させ、ようやく食事にありつけると気が抜けたその一瞬。目の前の食料と同じ末路を辿るわけにはいかない。血の匂いをかぎつけて``ハイエナ``どもがやってこないうちに、さっさと拠点に帰らねば。


 胸部を見事に貫通した食料を担ぎ上げる。血が一瞬雨のように滴り落ち、自分の体にべちゃべちゃとこびりつく。血はまだ生暖かく、鉄の匂いが鼻腔を貫いた。肩についた血を手で掠め取り、舌で舐めてみる。最初の頃は忌避した鉄の味も、今では慣れたものだ。美味しいと感じるようになれると、癖になる。


 食料から滴る新鮮な血を舐めたことで、私の空腹は更に増した。身体が、脳が、全ての意識が、空腹を満たす、ただそれだけの意志に最適化されていくのを感じる。


 刹那、後方、左右から迫る気配を、私は見逃さなかった。


 知らない者が多いかもしれないが、人間は満腹時よりも空腹時の方が、集中力が高い状態になる。それは人間が生物であり、空腹という一種の飢餓状態の中で生存しようとする本能が起因するのだが、今の私はまさしくその空腹の影響か、異常なまでに研ぎ澄まされた五感と異様な集中力に支配されていた。


 もう``ハイエナ``が寄ってきたか。聡い奴らだ。まあ当然といえば当然だが。


 気づいていないフリをしつつ、拠点を目指す。


 こうなることは分かっていた。だったら拠点まで誘導してやる。どうせお前ら``ハイエナ``も、食料にしてやればいいだけのことだ。


 奴らは私が拠点に入るまで襲う気はない。気づいていないフリをしている私の後をつけ狙い、私が拠点に入るところで襲って私もろとも拠点にある私物も根こそぎ強奪する腹だろう。


 相手は複数、私は一人。最も``末っ子``の私だ。複数人で叩き潰すといったところか―――。


 歩く事数分。拠点が目の前に迫った。拠点は``ハイエナ``どもにバレないよう、巧妙に雪と氷でカモフラージュしてある。仮に手当たり次第掘り起こそうとすれば事前に仕掛けておいたトラップの餌食となり、もれなく胃袋の足しになるといった寸法だ。


 私は槍に突き刺さったままの``食料``を、地面から生えた小氷山に向かって無造作に投げる。私二人分の身長はある小氷山にたたきつけられた食料は、べちゃりと凍土に落ち、氷の地面を赤く染め上げていく。


 さて、そろそろか―――。


 左から一人、ワンテンポを遅れて右から一人。後方からも一人きたはずだが、左の奴と右の奴で弱らせ、最後にトドメをさす連携作戦で襲撃するつもりらしい。


 じわじわと近づいてくる左からの気配。それはもはや、気配というより殺気そのものに等しい。相手も私同様、生き残るのに必死なのだ。そうでもしなければ、待っているのは凍死か餓死のいずれかのみ。


 殺して生きるか、凍死か餓死。それら三択を迫られたとき、ほとんどは殺してでも生き残るという身勝手な理屈を躊躇なく選ぶものだ。たとえ魂を悪魔に売り渡し、人間をやめることとなったとしても、人間は元より生物である。生きる物として、自ら死をそう簡単に選ぼうとは誰も思わないのは当然の帰結―――。


「死ね」


 音もなく、声も張り上げることもなく、完全な不意打ちを狙いにきたそれを、私は何の躊躇もなく、血がべっとりとついた槍で力の限り両断した。


 ばきゃ、と骨ごと相手が砕け散る音が鼓膜を揺らす。次に、何の前触れもなく懐に入ってきた右からの``ハイエナ``を、霊力を使って即興で錬成した氷の刃物で顔面をえぐり潰した。


 ぎうああああ、一瞬と叫んだが、すぐに手がだらんと落ちる。私はそこから、空かさず氷の刃物に霊力を送り込むと、氷の刃物は右の``ハイエナ``の頭部を炸裂させた。


 時々、執念深い``ハイエナ``は急所を粉砕されながらも殺意を垂れ流し反撃してくる気合の入った奴がいる。そういう手合いにやられないためにも、トドメは入念にしておかねばならない。


 そして最後の一人、私にトドメをさす予定の``ハイエナ``。いるのは分かっている。どうやら左と右が私をやり損ねたことを悟り、攻めあぐねているらしい。


 このままだと逃げられる。拠点の場所を知られた以上、生かして帰してやる気はない。一撃で仕留める。


 即座に氷の刃物を錬成する。投擲しやすいように、小さい槍型を脳内で思い描く。相手は残された一人のようだが、私はその最後の一人の気配に、違和感を覚えた。


 逃げる様子がない。むしろ、ゆっくりと近づいてきている。じわじわと殺気を込めて不意打ちを狙っているわけではなく、本当にただ歩いて近づいてきているような感覚。


 何の真似だろうか。まるで殺してくれと言っているような気配。無論、そんな気配で絆される私ではないが、容易に手出しできない状態だ。


 少しずつ距離が縮まり、人影が露になっていく。相手は体格からして女。無駄のない肉付きと、高い背。相手はかなりスレンダーな身体をしている。


 外見では華奢そうだが、霊力で筋力を強化している場合がある以上、外見による物理攻撃力の判断は、意味を成さない。


 距離はもはや、眼と鼻の先までに縮まる。お互い、やろうと思えば隠し持った武器で殺せる範囲にまできたとき、相手は両手を挙げながらほんの少し手前で足を止めた。


 女は私と同じ、草木製の服装をしているが、若干肉付けがされている。魔生物の肉か。同胞から剥ぎ取ったのか。それは分からないが、草木製の上に肉のコートを着て、寒さを凌いでいるようだ。私が着ている服よりもグレードは高い。


 髪は丸坊主。おそらく``ハイエナ``に襲われたとき、髪があると鷲掴みにされやすくなるため、それを防止するために全て剃り落としているのだろう。


 身体的特徴から、無駄を排して合理的に生きていることが伺える。この女はおそらく、私の知らぬところでかなりの死線をくぐってきたのだろう。女であるのに髪を全て剃り落としていることから、その気合が伝わってくる。


「待って。殺さないで。私よ、私」


 両手を挙げ、降伏の意志を必死に示す女に、私は記憶をまさぐった。


 確かこの女は、私から見て二十人ぐらい年上の姉だったはず。五十人の当主候補の中で実力もかなり上の方で、そこそこの腕利きなら余裕で組み伏せられる力を持っていた。


 さっき私が殺した二人は、おそらく実力で組み伏せ手下にした奴ら。駒がやられたから取引に持ち込むつもりか。いや―――。


「あなた、強くなったのね。末っ子なのに、凄いわ」


 突然笑顔で褒めちぎってくる姉。


 実の妹に向けるような、朗らかとした明るい笑顔。温和で優しい声音。まるで二人しかいない空間の中、頭を撫でて褒めてくれているかのような情景を思わせる。


 だが私は、それらがただの紛い物であることを悟っていた。


 他の``ハイエナ``たちは、褒められる事に飢えている。誰しも気取られないように心の壁を作ってこそいるが、高い実力をもった兄、姉に褒められるとついつい無意識に理性が絆され、隙が生まれてしまうのである。


 今は殺しあう仲でも、かつては合同で修行を乗り越えてきた姉貴、兄貴分。弟、妹にとって、彼らは無意識的にせよ安息の存在でもあるのだ。猫なで声で、なおかつ屈託のない笑顔でほだされてしまえば、人間としての感情が、隙を生ませる。


 あざとい。私は直感的に思った。姉や兄貴分だからこそ許される芸当であり、当主候補の中で最も末っ子である私には、決して許されない禁忌の所業。


 年下ならではの弱みにつけこんで、手軽に甘い汁を啜ろうとする魂胆。私の眼には、彼女の笑顔の裏に潜む嘲笑が透けて見えた。不快感が募る。秒速の勢いで、その不快感は怒りへ、怒りから侮辱へ、侮辱から殺意に豹変していく。


 心の中で、吐露した。淡々とした、しかしギラついた感情に塗れた本音を。


―――――``殺す``―――――


 微かな風切り音を鼓膜が捉えた。右から一つ、左から一つ。空腹で集中力が増している状況でなければ、聞き逃してしまうくらい小さいが、明らかに私を挟み込むように急接近してきている。


 なるほど、そういうことか。


 片手に槍、片手に氷の刃物を装備する私は、左右からほぼ同時に飛んできたそれを巧みに跳ね返した。甲高い金属音が鳴り響き、凍った地面に突き刺さる。


 急接近してきたのは、氷で作った透明度の高い小型の投げナイフ。それも風切り音を最小限に抑える工夫がなされたこだわりの一品である。


 これを投げたのは、降伏の意志を示すため両手を挙げて近づいてきたとき。あの一瞬で投げ、音もなく私のような妹、弟分を、手間をかけず確実に息の根を止めるため、左右から脳味噌を美味しくスライスしてやろうという魂胆だったのだろう。


 おそらくこの武器で``食料``と化した妹、弟は数知れない。想像する必要もないくらい、投げナイフには並々ならない殺意がこめられている。お前を食料にして食って、生き残ってやるという殺意が―――。


御玲みれいだったかしら、悪く思わないでよね!」


 空かさず、前方から殺気が迫る。


 分かっていた。ナイフでの暗殺が失敗した場合を想定していないはずがない。投げナイフで殺せれば重畳、殺せなければナイフを防御するのに気を取られているその一瞬の隙を突いて、トドメを刺す。合理的にして定石な戦術だ。


 姉貴分に値する女は細長く先端が尖った暗器を取り出し、殺意をむき出しにして私に迫る。


 さっきまでの笑顔が嘘のように、女の顔は食欲と殺意で醜く歪んでいた。むしろ自分が立てた作戦が軒並み失敗したせいで、化けの皮が剥がれたのだろう。所詮当主候補の本性など、こんなものだ。期待する者が馬鹿を見る。


 目の前の妹が、もはやただの食肉にしか見られなくなった姉とは裏腹に、私の精神は極めて静かだった。


 刺突に特化したレイピア型の暗器が私の脳天を貫く寸前、私は地面に意識を向けた。その瞬間、姉の喉、胸、腹、そして両腕にそれぞれかなりの太さの氷柱が突き刺さる。


「けぽっ……!?」


 口から血反吐が、喉、胸、腹からは血が滴り落ち、血に彩られた氷柱には臓腑が装飾のようにまとわりついている。両腕は貫かれた勢いで吹き飛び、姉は氷柱に斜め四十五度で磔にされた形になった。


 私は悠々と首の骨を鳴らす。


 良く言うなら極めて合理的で定石な戦略。悪く言うなら型通りすぎる。しまいには作戦が失敗したからとはいえ、獲物を前にして理性を失ってしまう精神。それゆえ、対処は容易だった。


 喉、胸、そして腹を貫かれ、もはや凍土に飾られた人間標本と化した姉は血走った眼を私に向け、血反吐を垂れ流しながら、地面に打ち上げられた魚のように口を動かす。


 まだ油断ならない。相手はまだ生きている。トドメを刺すまで気を抜いてはならない。手に持っていた暗器は腕ごと吹き飛ばしたが、まだ両脚に暗器、もしくは口腔内に仕込み針を持っている可能性もある。


 余計な動きをされては面倒だ。目標は脳味噌。一撃で終わらせる。


「あぅ……ぉ……あ……み……れ……い」


 真下の地面を、真っ赤な沼地に染め上げる姉は、とめどなく溢れ出る吐血の中で微かに声を出し、更に眼を血走らせる。


 死に損ないの、最期の威嚇。死を悟って尚、その殺意に揺らぎなく、手段さえあれば殺すという眼で、私を睨みつけてくる。


 だが、そのギラギラ黒光る瞳の奥は弱々しく揺らめいていた。今更死への恐怖に怯えているわけでもない。死して尚も私を殺したいという欲望は薄らいでいないはずだが、一体何に恐怖しているのか。


 そのときの私は理解できなかった。常に自分も何者かに寝首をとられる立場にあるにもかかわらず、私には彼女が何に恐怖しているのか、何に怯えているのか、何に虚勢を張っているのか、皆目分からなかったが、彼女の最期の一言で、その全てを理解した。


「あ……んた……は……ばけ……も……の……ね……」


 そう。このとき、私は初めて``化物``と揶揄された。


 心外だった。化物になりたくてなったわけではないのに、何故異形呼ばわりされなければならないのか。生き抜くただそれだけのために女として大切な髪の毛まで剃り落とした存在に言われるのは、甚だしく腹に据えかねた。


 胸の奥底から湧き上がる怒り。呼吸が荒ぶり、自然と拳に力が入る。目の前が真っ赤になった。


 がきゃ、という音がする。気がつけば、姉の下顎を引きちぎっていた。即座にそれをどこかへ投げ捨て、びろん、と垂れ下がっている舌を力の限り引きちぎり、氷を纏わせた右腕で、力いっぱい顔面を殴りつけた。


 ぐわしゃ、という炸裂音とともに姉の頭部はざくろのごとく砕け散る。過呼吸気味の息を整え、胴体だけとなった死体を氷柱から取り出す。


 私はさっき引きちぎったばかりの姉の残骸をじっと見つめた。腹が鳴る。そういえばずっと空腹だったか。


 生のまま口に頬張る。鉄の味しかせず、堅くゴリゴリとした硬い触感しなかったが、久しぶりに食料にありつけたのか、それとも殺して気が晴れたのか。そのときの食事は何故だかものすごく気が晴れたような、そんな気がした。
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