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 憎まれるのは女だと言う。
 愛する女を奪われた男は、自分を捨てた女を憎み。
 愛する男を奪われた女は、男を盗った女を憎む。
 結局憎まれるのは「おんな」で──例に漏れず、リンカさんが震える手で刃を向けたのは、私のほう、だった。

「──っ!」

 身体から冷や汗がドッと出た。駐車場の無機質な照明を反射して、鈍く光る包丁。喉に真綿でも詰め込まれたかのように、声も出なくなってしまう。

「リンカ、思うの……あなたが悪い、って」

 震える体と裏腹に、醒めた声でリンカさんが言う。

「シンちゃんを縛り付けて、10年以上時間無駄にさせておいて──こんなふうに狂わせて、楽しい?」

 謙一さんが背中で私を庇う。リンカさんの姿が、すっかり見えなくなる。──それでも聞こえる、リンカさんの声。冷たいコンクリートに、こだまして。

「リンカ」

 呆れたように伸二が彼女の名前を呼んだ。苛つきを孕んだ、雑な発音。
 リンカさんが息を飲む。

(あんな風に)

 混乱と恐怖で心拍数が増す中、それでも胸が痛んだのはなぜだろう。
 あんな風なトーンで、好きな人に、愛してる人に名前を呼ばれたら……それはきっと実際に身体を傷つけられるより、痛くて辛いかもしれないと──こんな時なのに、考えてしまった。

「なに考えてるんだ、お前。ていうか、なんでここに──」
「リンカ、シンちゃんの怪我、心配で。ちょうどここ来たときにシンちゃんが車で出たのを見たの」

 だから待ってたの。
 そう、リンカさんは淡々と続けた。

「なんか、お昼の感じからね、リンカ、シンちゃん奥さん連れてくるんじゃないかなぁって思ってて──だから、念のため、お部屋から持ってきてたんだよ」

 持ってきておいて良かったよ、とリンカさんは呟くように続ける。

「あなたがいなくなれば、シンちゃんの目も醒めると思うな、リンカ」

 こつ、こつ、とヒールの音。

「あなたがいなくなれば、リンカがその場所にいられる。リンカの場所になる。リンカが愛して、もらえる」

 駐車場に響く声は、すこし裏返っている。
 そうして、ゆっくりと近づいてきていて──。
 謙一さんの背中に緊張が走る。背中越しに、低い声が小さく聞こえた。

「……麻衣。非常階段の場所は分かるか? 左手にある」
「っ、はい」

 煌々と光るエレベーターホールの左手──非常口マークが緑色に光る、そこ。

「逃げるぞ」
「はい」

 間髪入れずに、謙一さんが私の腕を引く。引かれるように、私も走り出す。

「逃げるの? 卑怯者! 卑怯者!」

 リンカさんの悲鳴じみた声の残響。
 非常階段の入り口で、私を前に押し出して謙一さんは言う。

「麻衣、先に」
「──っ、謙一さん!?」
「いいから!」

 押し問答している暇はない。もつれそうになる足を叱咤しながら、階段を駆け上がる。すぐ後ろには、謙一さん。その背後の足音が、多分リンカさんで──。

(もうすこし──!)

 一階までいけば、すぐ外に出られる。
 なのに、途中の踊り場で、私の足は何かにひっかかる──多分、滑り止めの小さな段差に。

「……あ」
「麻衣!」

 慌てたように、謙一さんが私を支える。

「死んで!」

 リンカさんの引きつった声。
 謙一さんが私を背中に庇うようにして、リンカさんに向き直る。

「や、っ……謙一さん……っ!」

 悲鳴のように彼の名前を呼ぶ。階段の白白としたLED。反射する刃の銀色。

(やめて!)

 喉が張り付いてしまったかのように声が出ない。

(その人は、私の唯一なの)

 奪わないで──!
 心臓が爆発してしまいそうなほどの拍動。
 けれど、次の瞬間に、私はほうと力を抜いた。思わずへたりこむ。
 リンカさんが振り上げた包丁──それを手首ごと捻って、謙一さんが押さえつけていた。
 ひどく乾いた音を立てて、リンカさんの手から落ちた包丁。それが階段を滑るように落ちていくのが、スローモーションのように視界にうつる。

「……っ、いったぃ……」
「悪いが手加減するほどの力量はない」

 謙一さんが低く言った。

「見様見真似なものでな」
「、みっ」

 見様見真似で刃物を持った相手に──!
 今更ながら血の気がどっと引く。真っ青な私に気がついて、謙一さんは穏やかに言う。

「大丈夫だ、麻衣」
「……は、い」

 カタカタと身体が震えた。
 もしあの鈍い銀色が、謙一さんを傷つけていたらと思うと。──私から、あの温もりを奪っていたかもしれないと、思うと。

「……離しなさいよ」
「無理だ。……麻衣、先に逃げろ」

 謙一はちらり、と背後を見た後私に向かってそう告げた。

「えっ、と」

 間抜けなことに、一瞬間が空いてしまう。逃げる? ……そうだ、逃げないと。伸二から──でも。

「ダメ、です。謙一さん置いて、なんて」

 震える指先で、なんとか鞄を開けてスマホを取り出した。

(はやく、はやく!)

 いそいで、私!
 気が急いてうまく暗証番号をタップできない──と、気がつく。
 電源ボタン連打で緊急連絡ができるはずだ!

「すぐ、警察、呼びますから……っ」

 そう言った矢先──階下から、ゆっくりとした足音が聞こえる。謙一さんが険しい顔で私を見る。

「麻衣! 行け!」
「リンカ、余計なことしてくれたな」

 伸二が取り押さえられているリンカさんを、謙一さんごと見下ろす。手には──手には、さっきリンカさんが取り落とした包丁。
 悲鳴を飲み込んで、駆け出した。
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