47 / 51
刃
しおりを挟む
憎まれるのは女だと言う。
愛する女を奪われた男は、自分を捨てた女を憎み。
愛する男を奪われた女は、男を盗った女を憎む。
結局憎まれるのは「おんな」で──例に漏れず、リンカさんが震える手で刃を向けたのは、私のほう、だった。
「──っ!」
身体から冷や汗がドッと出た。駐車場の無機質な照明を反射して、鈍く光る包丁。喉に真綿でも詰め込まれたかのように、声も出なくなってしまう。
「リンカ、思うの……あなたが悪い、って」
震える体と裏腹に、醒めた声でリンカさんが言う。
「シンちゃんを縛り付けて、10年以上時間無駄にさせておいて──こんなふうに狂わせて、楽しい?」
謙一さんが背中で私を庇う。リンカさんの姿が、すっかり見えなくなる。──それでも聞こえる、リンカさんの声。冷たいコンクリートに、こだまして。
「リンカ」
呆れたように伸二が彼女の名前を呼んだ。苛つきを孕んだ、雑な発音。
リンカさんが息を飲む。
(あんな風に)
混乱と恐怖で心拍数が増す中、それでも胸が痛んだのはなぜだろう。
あんな風なトーンで、好きな人に、愛してる人に名前を呼ばれたら……それはきっと実際に身体を傷つけられるより、痛くて辛いかもしれないと──こんな時なのに、考えてしまった。
「なに考えてるんだ、お前。ていうか、なんでここに──」
「リンカ、シンちゃんの怪我、心配で。ちょうどここ来たときにシンちゃんが車で出たのを見たの」
だから待ってたの。
そう、リンカさんは淡々と続けた。
「なんか、お昼の感じからね、リンカ、シンちゃん奥さん連れてくるんじゃないかなぁって思ってて──だから、念のためコレ、お部屋から持ってきてたんだよ」
持ってきておいて良かったよ、とリンカさんは呟くように続ける。
「あなたがいなくなれば、シンちゃんの目も醒めると思うな、リンカ」
こつ、こつ、とヒールの音。
「あなたがいなくなれば、リンカがその場所にいられる。リンカの場所になる。リンカが愛して、もらえる」
駐車場に響く声は、すこし裏返っている。
そうして、ゆっくりと近づいてきていて──。
謙一さんの背中に緊張が走る。背中越しに、低い声が小さく聞こえた。
「……麻衣。非常階段の場所は分かるか? 左手にある」
「っ、はい」
煌々と光るエレベーターホールの左手──非常口マークが緑色に光る、そこ。
「逃げるぞ」
「はい」
間髪入れずに、謙一さんが私の腕を引く。引かれるように、私も走り出す。
「逃げるの? 卑怯者! 卑怯者!」
リンカさんの悲鳴じみた声の残響。
非常階段の入り口で、私を前に押し出して謙一さんは言う。
「麻衣、先に」
「──っ、謙一さん!?」
「いいから!」
押し問答している暇はない。もつれそうになる足を叱咤しながら、階段を駆け上がる。すぐ後ろには、謙一さん。その背後の足音が、多分リンカさんで──。
(もうすこし──!)
一階までいけば、すぐ外に出られる。
なのに、途中の踊り場で、私の足は何かにひっかかる──多分、滑り止めの小さな段差に。
「……あ」
「麻衣!」
慌てたように、謙一さんが私を支える。
「死んで!」
リンカさんの引きつった声。
謙一さんが私を背中に庇うようにして、リンカさんに向き直る。
「や、っ……謙一さん……っ!」
悲鳴のように彼の名前を呼ぶ。階段の白白としたLED。反射する刃の銀色。
(やめて!)
喉が張り付いてしまったかのように声が出ない。
(その人は、私の唯一なの)
奪わないで──!
心臓が爆発してしまいそうなほどの拍動。
けれど、次の瞬間に、私はほうと力を抜いた。思わずへたりこむ。
リンカさんが振り上げた包丁──それを手首ごと捻って、謙一さんが押さえつけていた。
ひどく乾いた音を立てて、リンカさんの手から落ちた包丁。それが階段を滑るように落ちていくのが、スローモーションのように視界にうつる。
「……っ、いったぃ……」
「悪いが手加減するほどの力量はない」
謙一さんが低く言った。
「見様見真似なものでな」
「、みっ」
見様見真似で刃物を持った相手に──!
今更ながら血の気がどっと引く。真っ青な私に気がついて、謙一さんは穏やかに言う。
「大丈夫だ、麻衣」
「……は、い」
カタカタと身体が震えた。
もしあの鈍い銀色が、謙一さんを傷つけていたらと思うと。──私から、あの温もりを奪っていたかもしれないと、思うと。
「……離しなさいよ」
「無理だ。……麻衣、先に逃げろ」
謙一はちらり、と背後を見た後私に向かってそう告げた。
「えっ、と」
間抜けなことに、一瞬間が空いてしまう。逃げる? ……そうだ、逃げないと。伸二から──でも。
「ダメ、です。謙一さん置いて、なんて」
震える指先で、なんとか鞄を開けてスマホを取り出した。
(はやく、はやく!)
いそいで、私!
気が急いてうまく暗証番号をタップできない──と、気がつく。
電源ボタン連打で緊急連絡ができるはずだ!
「すぐ、警察、呼びますから……っ」
そう言った矢先──階下から、ゆっくりとした足音が聞こえる。謙一さんが険しい顔で私を見る。
「麻衣! 行け!」
「リンカ、余計なことしてくれたな」
伸二が取り押さえられているリンカさんを、謙一さんごと見下ろす。手には──手には、さっきリンカさんが取り落とした包丁。
悲鳴を飲み込んで、駆け出した。
愛する女を奪われた男は、自分を捨てた女を憎み。
愛する男を奪われた女は、男を盗った女を憎む。
結局憎まれるのは「おんな」で──例に漏れず、リンカさんが震える手で刃を向けたのは、私のほう、だった。
「──っ!」
身体から冷や汗がドッと出た。駐車場の無機質な照明を反射して、鈍く光る包丁。喉に真綿でも詰め込まれたかのように、声も出なくなってしまう。
「リンカ、思うの……あなたが悪い、って」
震える体と裏腹に、醒めた声でリンカさんが言う。
「シンちゃんを縛り付けて、10年以上時間無駄にさせておいて──こんなふうに狂わせて、楽しい?」
謙一さんが背中で私を庇う。リンカさんの姿が、すっかり見えなくなる。──それでも聞こえる、リンカさんの声。冷たいコンクリートに、こだまして。
「リンカ」
呆れたように伸二が彼女の名前を呼んだ。苛つきを孕んだ、雑な発音。
リンカさんが息を飲む。
(あんな風に)
混乱と恐怖で心拍数が増す中、それでも胸が痛んだのはなぜだろう。
あんな風なトーンで、好きな人に、愛してる人に名前を呼ばれたら……それはきっと実際に身体を傷つけられるより、痛くて辛いかもしれないと──こんな時なのに、考えてしまった。
「なに考えてるんだ、お前。ていうか、なんでここに──」
「リンカ、シンちゃんの怪我、心配で。ちょうどここ来たときにシンちゃんが車で出たのを見たの」
だから待ってたの。
そう、リンカさんは淡々と続けた。
「なんか、お昼の感じからね、リンカ、シンちゃん奥さん連れてくるんじゃないかなぁって思ってて──だから、念のためコレ、お部屋から持ってきてたんだよ」
持ってきておいて良かったよ、とリンカさんは呟くように続ける。
「あなたがいなくなれば、シンちゃんの目も醒めると思うな、リンカ」
こつ、こつ、とヒールの音。
「あなたがいなくなれば、リンカがその場所にいられる。リンカの場所になる。リンカが愛して、もらえる」
駐車場に響く声は、すこし裏返っている。
そうして、ゆっくりと近づいてきていて──。
謙一さんの背中に緊張が走る。背中越しに、低い声が小さく聞こえた。
「……麻衣。非常階段の場所は分かるか? 左手にある」
「っ、はい」
煌々と光るエレベーターホールの左手──非常口マークが緑色に光る、そこ。
「逃げるぞ」
「はい」
間髪入れずに、謙一さんが私の腕を引く。引かれるように、私も走り出す。
「逃げるの? 卑怯者! 卑怯者!」
リンカさんの悲鳴じみた声の残響。
非常階段の入り口で、私を前に押し出して謙一さんは言う。
「麻衣、先に」
「──っ、謙一さん!?」
「いいから!」
押し問答している暇はない。もつれそうになる足を叱咤しながら、階段を駆け上がる。すぐ後ろには、謙一さん。その背後の足音が、多分リンカさんで──。
(もうすこし──!)
一階までいけば、すぐ外に出られる。
なのに、途中の踊り場で、私の足は何かにひっかかる──多分、滑り止めの小さな段差に。
「……あ」
「麻衣!」
慌てたように、謙一さんが私を支える。
「死んで!」
リンカさんの引きつった声。
謙一さんが私を背中に庇うようにして、リンカさんに向き直る。
「や、っ……謙一さん……っ!」
悲鳴のように彼の名前を呼ぶ。階段の白白としたLED。反射する刃の銀色。
(やめて!)
喉が張り付いてしまったかのように声が出ない。
(その人は、私の唯一なの)
奪わないで──!
心臓が爆発してしまいそうなほどの拍動。
けれど、次の瞬間に、私はほうと力を抜いた。思わずへたりこむ。
リンカさんが振り上げた包丁──それを手首ごと捻って、謙一さんが押さえつけていた。
ひどく乾いた音を立てて、リンカさんの手から落ちた包丁。それが階段を滑るように落ちていくのが、スローモーションのように視界にうつる。
「……っ、いったぃ……」
「悪いが手加減するほどの力量はない」
謙一さんが低く言った。
「見様見真似なものでな」
「、みっ」
見様見真似で刃物を持った相手に──!
今更ながら血の気がどっと引く。真っ青な私に気がついて、謙一さんは穏やかに言う。
「大丈夫だ、麻衣」
「……は、い」
カタカタと身体が震えた。
もしあの鈍い銀色が、謙一さんを傷つけていたらと思うと。──私から、あの温もりを奪っていたかもしれないと、思うと。
「……離しなさいよ」
「無理だ。……麻衣、先に逃げろ」
謙一はちらり、と背後を見た後私に向かってそう告げた。
「えっ、と」
間抜けなことに、一瞬間が空いてしまう。逃げる? ……そうだ、逃げないと。伸二から──でも。
「ダメ、です。謙一さん置いて、なんて」
震える指先で、なんとか鞄を開けてスマホを取り出した。
(はやく、はやく!)
いそいで、私!
気が急いてうまく暗証番号をタップできない──と、気がつく。
電源ボタン連打で緊急連絡ができるはずだ!
「すぐ、警察、呼びますから……っ」
そう言った矢先──階下から、ゆっくりとした足音が聞こえる。謙一さんが険しい顔で私を見る。
「麻衣! 行け!」
「リンカ、余計なことしてくれたな」
伸二が取り押さえられているリンカさんを、謙一さんごと見下ろす。手には──手には、さっきリンカさんが取り落とした包丁。
悲鳴を飲み込んで、駆け出した。
0
お気に入りに追加
2,602
あなたにおすすめの小説
冷徹御曹司と極上の一夜に溺れたら愛を孕みました
せいとも
恋愛
旧題:運命の一夜と愛の結晶〜裏切られた絶望がもたらす奇跡〜
神楽坂グループ傘下『田崎ホールディングス』の創業50周年パーティーが開催された。
舞台で挨拶するのは、専務の田崎悠太だ。
専務の秘書で彼女の月島さくらは、会場で挨拶を聞いていた。
そこで、今の瞬間まで彼氏だと思っていた悠太の口から、別の女性との婚約が発表された。
さくらは、訳が分からずショックを受け会場を後にする。
その様子を見ていたのが、神楽坂グループの御曹司で、社長の怜だった。
海外出張から一時帰国して、パーティーに出席していたのだ。
会場から出たさくらを追いかけ、忘れさせてやると一夜の関係をもつ。
一生をさくらと共にしようと考えていた怜と、怜とは一夜の関係だと割り切り前に進むさくらとの、長い長いすれ違いが始まる。
再会の日は……。
ダブル シークレットベビー ~御曹司の献身~
菱沼あゆ
恋愛
念願のランプのショップを開いた鞠宮あかり。
だが、開店早々、植え込みに猫とおばあさんを避けた車が突っ込んでくる。
車に乗っていたイケメン、木南青葉はインテリアや雑貨などを輸入している会社の社長で、あかりの店に出入りするようになるが。
あかりには実は、年の離れた弟ということになっている息子がいて――。
極上の一夜で懐妊したらエリートパイロットの溺愛新婚生活がはじまりました
白妙スイ@書籍&電子書籍発刊!
恋愛
早瀬 果歩はごく普通のOL。
あるとき、元カレに酷く振られて、1人でハワイへ傷心旅行をすることに。
そこで逢見 翔というパイロットと知り合った。
翔は果歩に素敵な時間をくれて、やがて2人は一夜を過ごす。
しかし翌朝、翔は果歩の前から消えてしまって……。
**********
●早瀬 果歩(はやせ かほ)
25歳、OL
元カレに酷く振られた傷心旅行先のハワイで、翔と運命的に出会う。
●逢見 翔(おうみ しょう)
28歳、パイロット
世界を飛び回るエリートパイロット。
ハワイへのフライト後、果歩と出会い、一夜を過ごすがその後、消えてしまう。
翌朝いなくなってしまったことには、なにか理由があるようで……?
●航(わたる)
1歳半
果歩と翔の息子。飛行機が好き。
※表記年齢は初登場です
**********
webコンテンツ大賞【恋愛小説大賞】にエントリー中です!
完結しました!
ヤクザの若頭は、年の離れた婚約者が可愛くて仕方がない
絹乃
恋愛
ヤクザの若頭の花隈(はなくま)には、婚約者がいる。十七歳下の少女で組長の一人娘である月葉(つきは)だ。保護者代わりの花隈は月葉のことをとても可愛がっているが、もちろん恋ではない。強面ヤクザと年の離れたお嬢さまの、恋に発展する前の、もどかしくドキドキするお話。
【R18】豹変年下オオカミ君の恋愛包囲網〜策士な後輩から逃げられません!〜
湊未来
恋愛
「ねぇ、本当に陰キャの童貞だって信じてたの?経験豊富なお姉さん………」
30歳の誕生日当日、彼氏に呼び出された先は高級ホテルのレストラン。胸を高鳴らせ向かった先で見たものは、可愛らしいワンピースを着た女と腕を組み、こちらを見据える彼の姿だった。
一方的に別れを告げられ、ヤケ酒目的で向かったBAR。
「ねぇ。酔っちゃったの………
………ふふふ…貴方に酔っちゃったみたい」
一夜のアバンチュールの筈だった。
運命とは時に残酷で甘い………
羊の皮を被った年下オオカミ君×三十路崖っぷち女の恋愛攻防戦。
覗いて行きませんか?
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
・R18の話には※をつけます。
・女性が男性を襲うシーンが初回にあります。苦手な方はご注意を。
・裏テーマは『クズ男愛に目覚める』です。年上の女性に振り回されながら、愛を自覚し、更生するクズ男をゆるっく書けたらいいなぁ〜と。
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
【R18】根暗な私と、愛が重すぎる彼
夕日(夕日凪)
恋愛
私、乙川美咲は冴えない見た目と中身の女だ。
だけど王子様のような見た目の誠也は、私を『可愛い、好きだと』言って追い回す。
何年も、何年も、何年も。
私は、貴方のお姫様になんてなれないのに。
――それはまるで『呪い』のようだと私は思う。
王子様系ヤンデレ男子×ぽっちゃり根暗な病んでる女子の、
ちょっぴりシリアス、最後はハッピーエンドなお話。
3話完結。番外編をたまに追加します。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる