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「ヒーロー」

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 慣れていたはずの助手席は、ひどく居心地悪かった。

「なぁ覚えてるか? 初めてデートしたときさぁ」

 伸二は無表情のまま、ぺらぺらと「ふたりの思い出」を話す。カーステレオから流れるのは結婚式で使った音楽。指先が冷えて、背中を冷たい汗がつたう。

(どう、しよう……)

 あの地下鉄の改札の前で、伸二は人形みたいに笑って言ったのだ。

『麻衣はいいかもな』
『……なにが?』
『不倫しててもな、所詮平社員だもんな』
『どういう──』
『柳常務はどうかな?』

 プラスチックみたいな瞳が私を射すくめる。

『部下に手を出して不倫して』
『……っ、伸二』
『なぁ、麻衣。どうだろう? 責任問題になるんじゃないか?』

 喉がねばついて、なにも言葉が出てこなかった──そうして、言われるがままに伸二について歩く。
 謙一さんに、迷惑は……かけられなかった。

(私の、せいで)

 私の、浅慮が招いた事態だった。
 そうして、近くのコインパーキングに停められていた、伸二の車に乗り込む。そうしてしばらくして──伸二は唐突に語り始めたのだ。
 私たちがいかに出会い、「愛」を育んできたのか、を。

「……ね、どうするつもりなの」

 どこへ向かっているか──は簡単に分かった。見慣れた道筋。一緒に暮らしていた、あのマンションへ向かっている。

「どうする?」

 きょとんとした声音で伸二は言った。

「どうするもこうするも──麻衣に思い直してもらうために努力する」
「……あ、のね。もう無理、だよ」

 膝の上で手を握り締めた。ぎゅっ、と。

「私、好きな人ができたの。愛して、る、人が」
「へぇ」
「だから、伸二とはもう無──」
「で?」

 乱暴に伸二はブレーキをかけた。シートベルトが一瞬突っ張って、ゆるむ。は、と息を吐き出した。信号は黄色から赤に変わる。

「だからなに?」
「……なに、って」

 反駁しながら、落ち着こうと息を吸う。
 車の中の酸素が、ひどく低い気がしてくらくらした。

「知ってるよ。柳謙一。麻衣の会社の常務サン」
「……そう、だけど……」
「そいつはオレより大事なの? 麻衣」

 伸二がこちらに向かって、身体を乗り出す。

「命の恩人の、オレより?」
「──それ、は」

 私は首を振る。

「大事とかじゃなくて、……謙一さんと、一緒にいたいの。好きなの」
「へぇ」

 興味なさそうな顔で伸二はちらっと私を見た。

「どこが?」
「──え?」
「どこが好きなんだ」

 なぜそんなことを聞くのか分からなくて、私はしばらく逡巡する。ややあって、唇を動かした。

「……ヒーロー、みたいなところ」

 それは直接的に助けてくれるってことだけじゃなくて……正義の味方みたいに、それこそ「ヒーロー」みたいに、信じていられるところ。
 まっすぐに私を見つめてくれるまなざし。それを思い出して──私は後悔、した。

(……、まただ)

 謙一さんに、頼るべきだった。連絡するべきだった。迷惑はかけたくないけれど、おなじくらい心配もかけるべきじゃなかったのに。
 伸二のこととなると、考えが浅くなる。離婚を決めて飛び出したときも、結局はそう。あんなに反射的に行動する人間だっけ、私は──。
 それはやっぱり、どこかまだ──伸二に依存しているから? 自ら頭を動かさないようにしてるとしか思えない。
 自分で自分が、分からなくなる。

(謙一さん、謙一さん……!)

 呼吸が浅くなって、思わず胸の辺りを押さえた。
 信号が青に変わる。
 アクセルを踏んで、伸二は──笑った。嗤った。大きく、楽しげに。

「あっは、麻衣。麻衣、落ち着けよ。バカだなぁ相変わらず、なぁ、麻衣」
「な、にを……笑って」

 唇が痺れたようにうまく動かない。

「そんなの気の迷いだよ! そうだろ?」

 ひきつけを起こしたかのように哄笑しながら、伸二は何度もハンドルを叩いた。そうして笑う。気管支が裏返ったような笑い声。

「お前にオレ以上の存在が現れるのか!? お前がいま生きてるのは誰のおかげなんだよ? なぁ、麻衣。麻衣。麻衣──」

 伸二は何度も私の名前を呼ぶ。
 それから嘲笑うように続けた。

「お前のヒーローはだよ。なぁ。いじめられっ子の、自殺志願の、可哀想なオレの麻衣」

 ひゅっと息を飲む。

「お前を助けたのはオレなんだから」

 ゾッとした。震えそうな身体を叱咤して、私は声を出す。

「……っ、そん、なの……もう無理だって! あんな不倫しておきながら」

 あの日知った真実が心を抉る。
 セックスを強請った同じベッドで、伸二は別のひとを抱いていて。
 私を馬鹿にして、2人で楽しんでいた。

「だーかーらー!」

 ばんばん、と伸二は強くハンドルを叩く。その度に、車が少し蛇行した。

「──っ!」

 恐怖で身が竦む。
 身を縮めた私に気がついて、伸二はふっと力を抜いた。そのまま、ゆっくりと路肩に止まる。ほう、と息をついた。

「……だから、違うんだって麻衣。なぁ麻衣。やっぱ馬鹿だなお前は、オレがいないとダメだよな、ほんとうに」

 一転、穏やかな口調で伸二は言う。

「ちょっとしただったんだよ、他の女ともシてみたかっただけ。遊びだったんだよ。言っただろ? ──でも、もうお互い様だよな」

 伸二は薄く笑う。

「オレたち、お互いしか知らなかったもんな。仕方ないよな。よ、麻衣」

 笑いを貼り付けたまま、伸二は私に手を伸ばす。髪の毛に触れる。身体を引いた。

「やめ、て。さわらないで……」
「バカな麻衣。可哀想な麻衣。──オレの、麻衣」

 逃すもんかと低く笑う声が、ただ耳の中でざわざわと鼓膜を揺らした。
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