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失うものは何もない

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 なんだか上手く丸め込まれたような気がする。
 そんな後悔と混乱は、しかしシャワーを借りてさっぱりしてみれば、なんだかヤケッパチな気分も相まって「なるようにな~れ」という心境に至っていた。

(どうせ失うものもない、バツイチアラサーなんだから!)

 そのうち常務の目も覚めるかもしれない。
 ていうか、覚めるだろう。だって私ですよ。
 やたらと広い洗面所でドライヤーを借りて髪を乾かし終え、とりあえずキャリーケースに突っ込んでいた服に着替える。
 リビングに戻って、私は口をあんぐりと開いた。ダイニングテーブルには豪華な朝食がセッティングされていて、美味しそうな匂いで私を誘っている。

「……!?」
「市原」

 常務、ウッキウキしてた。この人の満面の笑み、初めて見たな。ていうか、エプロンがやけに似合う……。

「食欲は?」
「あ、あります」
「良かった。簡単なものだが」

 座ってくれ座ってくれ、とダイニングテーブルに座らされる。
 フレンチトーストに、ポーチドエッグ付きのチキンサラダ。美味しそうなスープ。オレンジジュースが、瀟洒なグラスに並々と。

「簡単……?」

 私がちょっとシャワー浴びてる間にこれを用意する、って……結構手際が良くないと無理なのでは?

「無駄に一人暮らしが長いからな……と、無駄じゃない。全然無駄じゃない、こうして市原と朝メシ食べられるんだから俺の一人暮らし歴全然無駄じゃなかった」

 常務は嬉しげに私の目の前の席に座る。
 ……朝飯、というけれど時計はすでに午前11時。朝食というよりはブランチだ。

「体調はどうだ?」
「はぁ、元気です……その、常務は」

 なんとなく聞き返すと、常務からは「絶好調だ」と返ってきた。そうですか……。
 そんな常務は期待を込めた目線で私を見つめている。うう……。そんな目で見なくたって……。
 私は「いただきます」をしてから思い切ってフォークをとった。サラダを食む。

「……おいし!」
「良かった!」

 常務、ニッコニコ。

「実はドレッシングも作ってみたんだ」
「え!? ほんとですか」

 目を瞬く。めちゃくちゃ美味しいんですけど!?
 なんだかその一口で、私の食欲は増してしまったようで──あっという間に完食してしまった。

(おおう……)

 じ、自分が怖い。離婚当日に別の男性からプロポーズ(?)された上にお試し婚(なんだそれ)することになり、モリモリ朝食食べてご機嫌だなんて──なんだかなぁ。

「あのう、常務」
「なんだ?」
「ところでお試し婚って、なにするんですか」

 実際に籍を入れるわけでもない──というか、法的に入れられない。再婚禁止期間中の、100日間。

「そうだな。一緒に暮らす」
「ですか」

 ……いいんだろうか、こんな高級マンションに転がり込んで。いや、助かるけれども。

「そして、主に俺が市原を甘やかそうと思っている」
「……それだとお試し、にならないのでは」

 お試し期間終わって、仮に本当に結婚したとして──いきなり冷たくなられたら。

(あ、それ、キツい……)

 また同じことの、繰り返し。
 私が黙ったのに気がついた常務が、ハッとしたように「違う!」と語気荒く叫んだ。

「違ってだな、いやもし、……もしも、市原が俺と添う道を選んでくれたなら、の話だが……死ぬまで甘やかす」
「……?」
「なにもしなくていい。一緒にいてくれるだけで」

 テーブルの上、ぎゅっと拳を握りしめて常務は言う。

「それだけで、俺は満たされるんだ」
「……それだと、ダメだと思います」

 私は背筋を正す。

「そんなのは、良くないです。私──私は、夫婦は対等にあるべきだと」

 私の言葉に、常務は少しだけ目を瞠る。それから心底嬉しそうに笑った。へにゃり、と言っても良いくらいの蕩けた笑顔。

(……!?)

 会社のひとたち、この顔見たらこの人偽物だと思うんじゃない!?
 そんな風に思っていると、常務は「つまり」と口を開いた。

「市原も俺を甘やかしてくれる、と」
「……ええと」

 そう、なるのか?
 そうなるんだろうか? 常務、異常にポジティブすぎない? ていうかまた私丸め込まれそうになってない?
 混乱しているうちに、常務は立ち上がり、エプロンを解いた。

「なら、さっそく甘やかしてくれないか」
「え」

 ぎくり、と肩を揺らす。
 なに、それ──なにされるの!?
 どっ、どっ、と心臓が嫌な音を立てた。

(え、でも、──手は出さない、って)

 嫌なことはしなくていい、って……さすがにまだ、抱かれたくはない! さっき離婚したばっかりだよ!
 そんなことを思いながら、頭のどこかで疑問に思う。

(「まだ」って……)

 自分の考えたことに驚いて、きゅっと唇を噛んだ。

(まだ、ってなぁに)

 つまり私は──離婚当日に、恥知らずなことに──この人に、いつか抱かれても良いと思っているってこと?
 考えがぐちゃぐちゃしている私に、常務が近づいてくる。反射的に目を閉じた。
 けれど、触れられたりする気配はなくて。

(……あ、れ?)

 恐る恐る目を開ける。
 私の座っている椅子のすぐそばで常務は不思議そうに跪き、言った。

「実は……お揃いのマグカップが欲しい」
「──え?」
「憧れていたんだ」

 うっとりと常務は言う。

「お茶碗とお箸と、バスタオルと……色違いで揃えたいのだがどう思う? 生憎今日は午後から会議に出なくてはならないのだが」

 私は目を瞬いて──自分がとても薄汚れた人間のような気がして、それを打ち消すようにコクコクと頷いた。
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