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柳常務はお酒が強い

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「……というわけです、常務」
「その。大丈夫、なのか?」
「はい?」

 私は横でなにやら強そうな焼酎ロックを飲んでいるやなぎ謙一けんいち常務に向かって、軽く首を傾げた。
 もうすぐ40になるらしい──とはいえまだ見た目は十分に若々しい柳常務とは、時折飲む仲だ。
 「色々」あって知己ではあった柳常務と初めてこの立ち飲み屋で居合わせて、約2年、ほど。
 最初は驚いてうまく話せなかったけれど、気がついたら意気投合していた。

(鬼常務、ねぇ)

 仕事中の柳常務は厳しいどころか苛烈だと言われているし実感もするけれど、こうして二人で会っていると、ただ親切な上司だなぁという印象だ。やや堅物すぎるきらいもあるけれど、社内の女子たちからするとそこがまた魅力的、らしい。

『常務って、まだ独身でしょ? イケメンなのに。絶対遊び慣れてる~』
『イケメンていうか、イケオジ?』
『先輩がた、常務はイケオジには一歳足りませんから!』
『そうなの? でも相手にしてもらえるならさぁ、遊びでも良くない!?』
『わかるー!』
『むしろ冷たくあしらわれたい!』

 とかキャイキャイ言ってる子たちには、常務と時々飲んでるのは内緒だ。特に「イケオジには一歳足りない!」と叫んでいた後輩には。

(あの子、歳上大好きだものなぁ……)

 狙ったオジサンは外さない、とかなんとか……。すごい人もいたものだ、と思うけれど──なんとなく、この常務との穏やかな時間を邪魔されるのは嫌だった。
 もっとも、単に行きつけの立ち飲み屋さんが同じだった、というだけで、それ以上の関係はもちろんのこと、ない。一切ない。アホ伸二と違って私には節度というものがある。

(──というか、柳常務が私に下心を抱くこと自体がない、ですよね)

 断言できる。
 柳常務は──まぁ客観的に見て、顔がいい。女性陣に騒がれるだけのことはある。
 背も高くてスタイルも良いし、なによりこの若さで上場企業の常務という役職つき。
 元々は外資系の商社にお勤めだったらしいけれど、数年前に後継候補のひとりとして我が社に転職してきた。

(つまり、顔もよければお金もある──と。異性ながら、羨ましい)

 こんな立ち飲み屋さんで鉢合わせするとは思わなかったけれど、話を聞けば「お洒落なところは肩身が狭い」のだそうで──どちらかといえば磊落な性格を知ってしまうと、まぁそんなものかもしれないな、と思う。
 そんな人だから「遊び慣れてる」って噂にどれくらいの信憑性があるかはわからないけれど──そんな柳常務が、なにが悲しくて「もう女に見れない」とまだ結婚2年目の夫に言われる女に手を出さなければならないのか。
 自嘲的に笑って、私は熱燗に口をつける。ああ、お酒美味しい。
 目の前ではおでんがクツクツ煮えて、美味しそうな出汁の香りをさせている。
 そんなこんなで柳常務は、おでんの熱気あふれる立ち飲み屋さんにて、延々と私の愚痴を聞かされているのである。
 かわいそうだけれど、生きていればそんな夜もあると思って耐えていただきたい。

「……驚きすぎて、……悪い、俺からは何のコメントもできない」
「たまたま会ったが運の尽き! ここは愚痴を聞いてください常務!」

 あのメッセージを見た翌日の昼休み(つまり今日の昼)には、区役所へ離婚届を貰いに走った。
 そうしてその夜(つまり、ついさっき!)伸二にそれを叩きつけた。文字通り、叩きつけたのである。

『スマホ見た! あとは伸二が書くだけだから!』

 呆然としている夫──おそらく近日中には元夫、になっている男を部屋に残し、私はキャリーケースひとつで家を飛び出た。あとの荷物は私の新居が決まり次第、送ってもらう予定なのです。
 むしゃくしゃしすぎて、この立ち飲み屋さんまで足を運べば、ちょうど常務に遭遇して。

「それは、……俺としては無計画だと思うぞ。住む場所くらい確保してだな」
「大丈夫です。今日はとりあえず飲み明かそうと思うのです」

 幸い今日は金曜日。明日の仕事はお休みだ。

「……そうか。これからどうするんだ?」
「しばらくはビジホ暮らしですかね……」

 長期滞在ならば割引が効く。早めに新居を見つけるのは前提として、まぁなんとかなる──というか、それくらいは伸二に払わせたい。

「市原。勘違いということはないのか?」
「勘違い、ですか?」

 常務は眉を寄せて、真剣にうなずく。

「宛先間違いだとか、悪戯だとか。色々あるだろう」

 細かい内容まではさすがに話せていなかったためか、同じ男だからか、常務は珍しく歯切れが悪くそんなことを言う。

「……いいえ常務。それはありません。ハメておられたので。ハメこんでおられるところ、ばっちり写っておられましたので」

 ああいう写真とか動画って、なんのために撮るんだろう?
 常務はポカンとしたあと、赤面して咳き込んだ。顔に似合わず(失礼?)じ、純情でらっしゃる!?

「大丈夫ですか!?」
「っ、いや、……済まない。言いにくいことを」
「いえ、いいんです」

 常務は目線をウロウロさせて、それから私を見つめた。まだ耳朶が赤い。……可愛いひとだな!?

「旦那さんからは話、聞いたのか」
「──いえ」

 スマホの電源自体、落としていた。
 少し考えて、電源を入れる。……と同時に、震えるスマホ。

「わ、電話」
「旦那さんか」
「はい……」
「……心配されているんだろう」

 常務が言いにくそうに言う。
 むうと眉を寄せて、スマホ片手に立ち飲み屋さんを出た。ぴゅう、と木枯らしが吹く。手早く終わらせよう。

「もしもし」
『っ、麻衣、あの、俺……っ、ごめん! ほんとに! 違うんだ』

 私は目を眇める。いつぶりに伸二から私の名前が聞けたのかな。
 そう思うけれど、なんの喜びも浮かばなかった。

『あいつとは遊びで。本気で愛してるのは麻衣だけで!』
「ふーん? 嫁は抱けなくても浮気相手とは一回じゃ終われないくらいセックスするんだ? ナマで。 私が子供欲しがってるの、薄々気がついてたよね」

 というか! こいつ、ずっぽりハメこんでらしたのに、なんの言い訳だ!

『だから、それはっ』
「私はもう無理」
『……会って、話がしたい』
「離婚届、出してくれたらね! そうじゃなきゃ絶対に会わない!」

 画面を思い切りタップ。かけ直される前に電源を落とす。

「無理、無理、無理」

 会いたくない。会ったら、だって、──期待しちゃうじゃん。
 ほんとかもって、愛されてるのは私なのかもって、期待、しちゃうじゃん……。

(ないのに)

 もう2年も触れてもらえなかった。他の女の子とはセックスできるのに。
 "女じゃなくなった奥さん"なんだ、私、は……。
 晩秋の風が、頬にやけに冷たく吹き荒ぶ。カサカサと枯れ葉が舞う。
 ふと、頬に温かさが触れた。

「……あ、常務」
「悪い。心配で」

 常務は珍しく、口籠るように言う。
 その手は私の頬に触れていて。

「……? あ、ごめんなさい」

 泣くつもりなんか、なかったのに。
 私は強いはずなのに。
 なんでか止まらない涙を、常務の無骨な指が拭っていく。
 常務は──常務は、ひどく辛そうな顔をしていた。

(……? なんで、そんな)

 悲しい、顔。
 そんな顔をさせるほど、ひどい顔しているのかな、私。
 自分の手でゴシゴシと目を拭った。それから常務を見上げて、にっこりと笑う。

「大丈夫です、ほんとうに──でも、もうすこしだけ、お酒……付き合ってもらえませんか?」
「……付き合う」

 肩をすくめて、常務は眉間を解く。
 そんな仕草がやけに似合うのは、常務は外国暮らしが長かったからかもしれない。
 常務は立ち飲み屋さんの扉を開けてくれながら、私の頭をぽん、と撫でた。

「無理して笑うな」

 低くて、掠れたその声はやたらと優しくて──甘えるように、私は小さく頷いた。
 で。
 そこから、記憶が曖昧だ。
 呆然と部屋を見回す。

「どこ、ここ……」

 目を覚ましたのは、シンプルな部屋だった。
 真っ白なシーツ。紺色の寝具と、お揃いのようなカーテン。隙間からは朝日──どころか、もうお昼かも。
 広い部屋だった。その部屋に鎮座している大きなベッドで、私は起き上がる。
 ベッドの他には、ちょっとした観葉植物と間接照明がひとつずつ。それから、加湿器ひとつ。それだけ。

「えー……?」

 お酒でだろう、痛む頭をなでながら私はおずおずと自分の服装を確認する。
 昨日着ていたままの服装。ストッキングですら、そのままだ。変なことにはなっていなさそうで、ホッと息を吐く。

「誰の家……?」

 やけに居心地のよいベッドから降りて、そうっとドアを開く。長い廊下。……え、ほんとに誰の家?
 廊下の突き当たりにある部屋から、テレビの音がした。ふらりとそちらに向かい、ドアをノックした。

「あ、あのう」
「……ああ、起きたか?」

 その声にぎくりと肩を揺らした。

(え? え? え?)

 ガチャリと開くドア。
 そこで私を見下ろしていたのは──初めて見る私服姿の、柳常務、そのひとだった。
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