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「笑って欲しい」

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 入籍した帰り途、楢村くんは駅ビルにあった旅行代理店の前で、ふと立ち止まる。

「……新婚旅行、どこ行きたい?」
「え」

 行くんだ。
 ぱちぱちと目を瞬く。楢村くんが私の右手を離して、店頭に置かれていたパンフレットを何枚か手に取る。
 私は離された右手に、さっきまでぎゅうっと繋がれていた右手に温もりがなくなってしまったことが──寂しくて、楢村くんの服の裾を摘む。

「瀬奈?」
「っ、迷子になったら、困るから……」

 平日だ。
 神戸でいちばん繁華な駅とはいえ、迷子になるような人混みじゃない。
 だからこんなのは──嘘だってすぐ分かるだろう。でも素直に甘えられない。いじっぱりで強情な私。
 するりと手に温もりが帰ってくる。繋ぎ直される、私の右手と楢村くんの左手。

「せやな」

 楢村くんは私を見ずに言う。

「迷子なったら、困るもんな」
「……うん」

 私は唇をもごもごと動かして、それから適当にパンフレットを選ぶ。たまたま手に取ったのは、イギリス旅行のものだった。

「瀬奈」
「なぁに」
「……なんでもない」
「なんでもない、なしだって……」

 楢村くんを見上げる。楢村くんは整った眉をきゅうと寄せた。

「どうやった? イギリス」
「えっと……?」
「どんくらい行ってたんやっけ。ロンドン?」
「えっと、一年だけ。ロンドンじゃなくて、オックスフォードの近く……シェイクスピアの故郷」
「シェイクスピア」
「うん。でも全然詳しくないんだけどね」
「……友達とか、できたん」
「? うん、それは……まあ、普通に」
「つき」
「月?」
「……付き合ったり、した、人とか」

 楢村くんの声が尻すぼみになる。私は小さく首を傾げて──それからゆるゆると振った。

「いないよ」
「そか」
「私──」

 ラックに並んだ色とりどりのパンフレットを眺めながら、きゅっと楢村くんの手を握った。

「私、楢村くん以外、知らない」
「──っ」

 楢村くんが息を飲む。それからゆっくりと、息を吐いた。

「──良かった」
「良かった?」

 ん、と楢村くんは目を細めて言う。

「他のやつが瀬奈に触れたかもと思っただけで──嫉妬で頭どうかしそう」
「嫉妬……?」
「俺のやのにって」

 痛いくらいに、楢村くんは私の手を握る。強く、強く。

「──変なの」

 私がぽつりと漏らした言葉に、楢村くんは唇をほんの少し、歪めた。

「変?」
「そうでしょ? 楢村くん、私のこと──別に、好きじゃない」
「好きや」
「うそ」
「ほんまに好きなんや」

 楢村くんの言葉に小さく目を閉じて、騙されないぞって強く思う。だってもう傷つきたくないもの。

「……南の方に行きたいな」

 ぽつり、と口を開いた。

「南? ……ハワイ?」
「とか。セブ島とか。海外じゃなくてもいいや。石垣島とか」
「どこでも行こ」

 楢村くんは真剣な口調で言う。

「瀬奈の好きなところ、どこでも。そんで、笑って欲しい」
「笑う?」

 ん、と楢村くんは頷く。

「瀬奈の行きたいとこ、やりたいこと、全部しよ。全部──そしたら、笑ってくれるか」
「笑ってない? 私」

 笑ってると思うんだけれどな──

「笑ってない。俺の前では──ずっと」
「そう、かな」
「俺は瀬奈の笑顔が見たい。見れたら死んでもいい」
「大袈裟」

 そう言って、笑ってみせる。

「ね、いま笑ったでしょう?」

 笑いながら彼を見上げて──けれど楢村くんは「そういうんやなくて」とわずかに眉を下げただけだった。
 それから口を開く。

「……ネコカフェ行く?」
「う、ん」

 楢村くんが猫の話をする。
 その声は私に喜んで欲しいっていうのが滲んでて、私は胸が痛い。
 楢村くんが繋いでる私の手をきゅうと握る。

「そのあと、かき氷?」

 ふふ、と眉を下げた。

「もうかき氷の時期じゃないかな」

 楢村くんはわずかに眉を動かす。──困ってる、みたいだった。

「……ロイヤルミルクティーが美味しいお店があるんだけれど?」
「そこ行こ」

 即答だった。

「紅茶も好きなんやな」
「うん」
「ほか、何が好きなん瀬奈──」

 楢村くんは私の手を引く。

「全部覚えるから全部教えて」
「……別に覚えなくていいけど」
「俺が覚えたいんや」

 楢村くんの声に、私は明後日の方向を見上げる。
 秋の陽射しが、きらきらと輝いていた。
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