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潮騒

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 ざあ、ざざあ、という波の音。
 そらは満天の星、それから白く丸い月。
 墨のように暗い海の、遥か向こうに福岡市内だろうか、街の灯がぼんやりと瞬く。
 ばしん、という白球がグローブを往復する音が響いた。

「肩あったまってきたか?」
「まぁね」

 健とヒカルだ。僕、翔、華、日和でそれを並んで見ていた。

「じゃあ、俺座るわ」
「は?」
「投げてみろよ」

 健は座り、グローブをした左手を前に出した。

「軽くな」

 さすがにミットねーから、と健。

「でも」

 ヒカルは困ったように言う。

「投げるの久しぶりやし、危なかよ」
「コントロール信用してるよ」

 ほれ、という健にヒカルの目が輝く。

(投げたいんだ)

 キャッチャーに向かって。
 ヒカルは、すうっと息を吸った。それからゆっくりと振りかぶる。
 ばしん!
 まっすぐのボールが、吸い込まれるように健のグローブに収まった。

「ナイボ」

 ヒカルに戻される白球。ヒカルはそれを受け取って、じっと見つめた。

「楽しかねぇ」

 ぽつりと呟く。そして目線だけで空を見上げた。

「野球、したかねぇ」

 その視線は酷く透明で、それがとても印象に残った。

 その夜、僕は眠れずにバルコニーへ出た。広いバルコニーだ。
 バルコニーの外、眼下はすぐに海。

(潮騒が、なんだか耳に障って)

 ふう、とため息を1つ。

(華、眠れているかな)

 そう思うけど、キャッチボールの後散々騒いで(なぜか鬼ごっこに発展した)いたし、疲れているだろうから案外こてんと寝ているのではないだろうか。
 ガラス格子の両開き扉の向こう、部屋の中では健と翔が爆睡している。この2人は枕が変わってどうのとかないんだろうな、と少し羨ましくなった。
 がたり、と離れたところから音がする。
 そちら方面に目をやると、2つ向こうのバルコニー、つまりヒカルの部屋の両開き扉が開いていた。

(ヒカルも眠れないのかな)

 そう思って話しかけようとして、僕は黙った。

(ヒカルじゃない)

 髪の長い、白いワンピースの子。
 その子は僕に気づいて「眠れないの?」と笑いかけてきた。

「きみが、ミチル?」

 さっき話しにでていた、ヒカルの妹の名前。ミチル。

「そうだよ」

 ミチルは楽しそうに笑って、それからバルコニーの手すりに片足をかけた。

「!?」

 僕は驚いてミチル側の手すりまで駆け寄る。駆け寄ったところで、間に華の部屋のバルコニーがあって、手が届くどころではないのだけど。
 バルコニーとバルコニーの間は30センチほど。
 ミチルは手すりに立ち上がる。ふらつきはない。まるで、普通の道を歩くかのようにスイスイと歩いてこちらに向かってくる。

(怖くないのか?)

 足を滑らせれば、海へ真っ逆さまだ。
 ミチルは余裕のある表情で、僕のいるバルコニーまで歩いてきた。
 僕はミチルを見上げる。
 月を背にしていて、その表情はうまく見えない。ただ、微笑んでいるようではあった。

「お邪魔しても?」
「……どうぞ」

 僕は数歩、下がった。ミチルは軽やかにバルコニーに降り立つ。

「ヒカルから聞いてるよ」
「なにを?」
「翠の目の、綺麗な子」
「……どうも」

 ミチルは僕をのぞき込む。ほんの少し、寂しそうな顔をされた。
 整った顔だけれど、ヒカルにはあまり似ていない。でも背は高い方だと思う。僕より高い。
 雑餉隈さんは背は高くないから、母親の背が高いのかもしれない。

「ヒカルとあんまり似てないと思った?」
「ああ、まぁ」
「ふふ、双子なのにね。でも二卵性だから」
「ああ、妹って。双子なの」

 僕はミチルを見る。
 凡そ全ての遺伝情報が一致する一卵性双生児と違い、二卵性双生児は普通のきょうだいと同じだ。普通の兄弟姉妹がそうであるように、血液型や性別が異なっていてもおかしくないし、顔立ちだって、似ていることもあれば全く似ていないこともある。

「あれ、聞いてなかった?」

 双子なんだよ、とミチルは言う。

「……雰囲気は似てるね。なんていうか、全体的な」
「そうかな」

 ミチルは少し嬉しそうに言った。

「でもね、一卵性じゃなくてね、良かったと思ってるの」
「なぜ?」

 ミチルは自分の心臓があるであろう位置に、その白魚のような両手を置いた。
 僕はそのたおやかな指先に、青い絵の具が付着していることに気がつく。

(絵の具)

 露草のような青ーー。

「先天性らしくて、心臓が悪いの」
「……そっか」

 仮に一卵性双生児だったならば、おそらく同じように、ヒカルには心臓に疾患があったのだろう。
 鬼ごっこで走り回るヒカルに、その気配はなかった。

「うふふ、ヒカルはね、気にしてるんだぁ」

 ミチルは俯いた。

「生まれる前から一緒なのに、自分だけ丈夫で申し訳ないって」

 そんなの気にしなくていいのにね、とミチルは笑った。

「だから、……巻き込んじゃってるの気が重い」
「巻き込む?」
「うん」

 ミチルは首を振った。

「手術を受けるの受けないのってやつに」
「それは生きて欲しいんじゃない? 死なせたくないよ。大事な妹なんでしょ」
「重荷になってると思うんだよね」

 ミチルは苦笑いした。

「早く健康になって、ヒカルを解放しなきゃ」

 言いながらミチルは苦笑する。

「まぁ健康もなにも、移植手術がうまくいっても、一生治療はつづくんだけどね」
「そっか」

 数億円規模の渡米しての手術。やっぱり移植が必要なのか。

「それにしては割と健康そうだね」
「ん、いまのとこは」

 人工的な弁を入れる手術して、小康状態なの、とミチルは言う。

「いつまで保つかはわからないんだけど……いま飲んでる薬もね、副作用がキツくてヤなの」
「副作用?」
「うん。感覚がにぶる? みたいな」
「感覚?」
「そう。色彩感覚とか、匂いとか」
「……って、そんな状態でよくここ通ったね!?」

 僕は手すりを叩く。

「うふ、わたし病気が発覚する前は新体操してたの」

 ミチルは柔らかに、バレリーナのように足を上げた。

「ほらー」
「あの、やめて、下着見える」

 僕が目をそらしながら言うと、ミチルは楽しそうにケタケタと笑った。
 いのちを燃やすように、ほんとうに楽しそうに笑った。
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