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月と夜光虫(第三者視点)

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"この国は心憂き境にてさぶらへば、極楽浄土とてめでたき所へ具し参らせさぶらふぞ"

 その、ぼそぼそとした声で、少女は自らの意識が浮上してしていることに気がついた。

 虫だ。
 顔を、虫が、這いまわっている。

(きもちがわるい)

 少女は、そのように思って目を開いた。

「……、久保先生、何を」

 それは、虫ではなく、赤黒い、おぞましい舌だった。
 男は舌を出したまま、にたりと笑った。そのどろりとした眼からは、既に理性が失われている。

「ああ、ルナ、やっと気がついたんだ、僕は」
「……は!? 一体、なにを、……ここは、どこ」

 少女は自らに組みつく男を、蹴り上げるようにして引き離し、距離を取る。
 顔を服でぬぐい、強い目で男を睨みつける。
 男は特に抵抗することもなく、力なくだらりと床に座り込み、ただひたすらにニヤニヤと笑い続けていた。

「なにを、笑って」

 その時、少女は初めて地面が揺れていることに気づき、狼狽して、あたりを見回した。
 あたり一面、真っ暗な水面。
 潮騒が、うるさいほどに。
 天上には、月だけが、青白く光っている。
 否、光っているのではない。ただ、反射しているだけだ。遥か遠くの、太陽の光を。
 そして、気が遠くなるほどの波間のあちら側に、街の灯が揺らめいた。

(これは、船?)

 小型のモーターボートだろうか。少女と男は、たった2人、大海原に浮かんでいた。うねりが船を、右へ、左へといたぶるように動かす。
 波が船に当たるたび、プランクトンーー夜光虫が光るのが見えた。太陽の下では薄汚い錆色の、穢らしく、赤潮の原因でしかないそのプランクトンは、月の下では美しく、青く妖しく光るのだった。

「ど、どういうこと、です、久保先生?」
「ふふ、ルナ、ルナ。気がついたんだ、僕は、君が、君こそが本当に僕を愛してくれているということに」
「は?」
「君は僕を思って試練を与えてくれたね。僕のために色んなことを考えてくれたね。君は僕を愛しているから」

 にこりと笑う男。
 少女は全身から力が抜ける感覚を覚えた。

(何を言っているんだろう、このバカは)

 本当に使えない、そう口内でひとりごち、少女は男に街の灯を指した。

「とりあえず、港へ戻りなさい。なぜこんなところに」
「僕はきっと捕まる」
「……、そうかもしれませんね、でも」
「そうすれば、君といられなくなる。それは君も寂しいだろう?」
「は? 本当に、何を言って」
「だから、また、生まれ変わろう」
「……なんですって?」
「ね、そうしよう」

 男は笑った。
 子供のように、笑った。

「や、やめて」

 男は少女に組みつき、そして抱きしめ、黒い墨のような水面に飛び降りた。
 がぼり、と泡がたち、海にたゆたっていた夜光虫が青く光る。
 2人は踊るように争い、その度にまた、夜光虫がざわめいた。

「い、いやよ、やめて」

 口を開けるたびに喉をつたう、苦く、塩辛い水。青く光る夜光虫もまた、潮水と共に、少女の体内へ侵入はいりこんでいく。

(そんなはず、ない)

 少女は繰り返し、そう思った。

(あたしはヒロインで、ヒロインだから、あたしは正しくて、ヒロインだから、あたしは唯一で)

 鼻に入る海水が、痛みとともに喉に流れ込んでくる。

(でも、じゃあ、こうなるってことは、あたし正しくなかったの)

 冷たい春の海水の中で、少女は戦慄した。男は残念そうにわらいながら、少女の頬を両手で包んだ。

「ああ、可愛いルナ、可愛いルナ、大丈夫、次の世でもすぐに見つけてあげる」
「いやよ、やめて、船に」

(そんなはずない、そんなはずない、あたしは正しい、それがこの世界のたったひとつの真理、そのはず)

 少女は男を突き放そうとしながら、そう念じる。

(あたしはヒロイン、ヒロインだから、正しくて、正義で、だから、だから、だから)

「ああ可愛いルナ、さあ行こう、怖くない」

(あたしは、ヒロインなのに!)

 少女の抵抗など毛ほども気にすることなく、男は少女の頭を押さえつけるように、海中に沈めた。
 青く、夜光虫が瞬いた。
 暴れて、暴れて、なんとか逃れた少女は、荒い息を何度も繰り返しながら、月に向かって手を伸ばす。
 たすけを、求めるように。
 384400キロ離れた、己の名を冠する、その冷たい光に向かって。
 そして何かをつぶやいたが、その声は波の音にかき消されて、少女自身の耳にさえ、届かなかった。
 やがて少女は、再び男に組み付かれ、海中にその身体を沈める。口腔内に、酷い味の潮水が満ちた。

「波の下にも都のさぶらふぞ」

 男は笑って、押さえつけた少女の頭にそう告げた。それから、自らも波間に消える。

 それからしばらくして、白魚のような指が波の隙間に覗いて、ほんの少しわななき、またすぐに海へと消えた。

 そして、潮騒だけが残った。
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