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許嫁殿は証拠を突きつける

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 こちらに気づいた樹くんが、不思議そうに口を開こうとする。

(あ。だめ、名前呼ばないでっ)

 慌てて、マスクの前で人差し指を立てる。

(しーっ)

 私の必死な様子に気づいたのか、樹くんは少し頷いて、再びルナの方を向いた。

「鹿王院、樹、くん……?」

 ルナは少し驚いたような顔をして言った。

「? どこかで会ったことがあったか?」
「……無いわね」

 ルナが、さっきまでの妙な落ち着きを無くしてきたように見える。
 爪を噛みながら、なにかを必死に考えているようだった。

「い、樹様、あの、ど、どうして」

 狼狽した声で樹くんを呼ぶのは、久保だ。
 樹くんは淡々とこう告げた。

「ああ久保先生。これは、祖母に任されまして。細かいことは、あとで」

 あとで、の部分は、チラリと私に目線をくれていた。

(後で説明するってことね)

 了解、と心の中で返事をする。
 秋月くんは驚いた表情で樹くんを見ていて、黒田くんは腕を組んで教卓に寄りかかっていた。ちょっと笑っている。なんだか余裕だ。
 ひよりちゃんは「あれっ」という顔で私と樹くんを交互に見ていた。

(あ、そういや、ひよりちゃん、樹くんに会ったことあったっけな)

 ふと、千晶ちゃんに目をやると、彼女は下を向いて、静かに座っていた。表情は読めないが、まるでこうなることが分かっていたような雰囲気だ。

「……、ところで、証拠ってどういうこと?」

 少し態勢を立て直したルナが、口を開く。

「ああ、まぁ大したこともないのだが。松影ルナ、お前がここに入塾してから今日までの、ここでの滞在時間ーーつまり60時間程度になるのだが、その間の階段の防犯カメラ、その全てを確認した」
「……は?」
「もちろん、俺1人ではないぞ。警備会社の専門の社員も同席して、全てチェックしたんだ」
「階段に、防犯カメラ、なんて」
「あるんだ。この塾は防犯に力を入れていてな、入塾の際に説明されなかったか? エントランスや教室はもちろん、自習室、休憩室に至るまでカメラが設置してある。もちろん、階段にもだ」
「……な、」

 ルナは絶句し、久保をにらんだ。

(あ、コイツ、ルナの可愛さに浮かれてて説明し忘れてたんだな、きっと)

 私はそう思いながら久保を見遣るが、久保は樹くんが現れたことに必死になりすぎていて、私はもちろん、ルナの視線にも気付くそぶりはなかった。

(い、樹くんって何者なの……!?)

 その間にも、樹くんは淡々と説明を続ける。

「もちろん死角はある。だが、突き落とすなんて動作が目立つ行為、必ずどこかに映っているはずなんだ」
「……そうだわ、塾じゃなかった」

 ルナは不気味に笑った。

「塾じゃなかったの。歩道橋、そう、駅近くの歩道橋だったわ。アタシ、皆に色んなとこで嫌がらせ受けてて、だから記憶が混乱したんだわ」
「そうか」

 ルナの反論に、樹くんは特に驚く様子もなかった。

「そうか、では別件へ移ろう……お前がカッターで脅された、という件だが」

 樹くんは、ちらりと千晶ちゃんに目をやった。

「ここに座っている、鍋島千晶にやられたのは間違いないな?」
「……ええ、彼女よ」
「なぜ報告しなかったのですか? 塾長にも、保護者にも。久保先生」

 急に話を振られて、久保は慌てて背筋を伸ばした。

「いやっ、あのですねっ、このま、松影という子は非常に、その、思いやりのある子でして、鍋島の将来などを考えて、あまり大ごとにしないでくれと、こう、自分が被害者にも関わらずですね、その」
「結構です。ではもう一度聞こう、松影ルナ。お前を"カッターで"脅迫したのは、この鍋島千晶だな?」
「……何度も言わせないで。その通りよ」
「そのカッターは、刃が出ていた?」
「あ、当たり前じゃない」
「どこから出した」
「は?」
「カッターナイフだ」
「……カバンからよ。急に取り出して……あ、そうそう、それも駅の近くの路上だったわ。塾の中じゃない」

 だから防犯カメラにも映っていないわ、とルナは笑う。

「ふむ。ならば、それは、あり得ない」
「……は?」
「鍋島千晶に、カッターを使用しての脅迫は無理、だと言っているんだ」
「何を、言っているのか……分からないわ」
「あまり、個人のプライバシーを晒すような真似はしたくないのだが……これは、本人と保護者から許可を得ていることを、前もって宣言しておく」

 そう言って、樹くんは一枚の紙を、後ろに控えていたスーツの男性から受け取った。

「これは、鍋島千晶が通院しているメンタルクリニックの医師が発行した診断書だ」
「……メンタルクリニック?」
「そうだ。そこにいる鍋島千晶は、強迫性障害を患っていて」

 樹くんは、一息置いて続けた。

「加害恐怖、という症状もある程度出ている、と。そういう診断だ」
「……は?」

 ルナはぽかん、と口を開けた。

「加害恐怖とは、簡単に言うなれば、"自分が他人を傷つけるのではないか"という強い恐怖心を抱くことらしいな」

 樹くんは、ちらりと千晶ちゃんを見る。
 そして「担当の医師に短時間話を聞いただけなのだが、」と前置きをして続けた。

「酷くなれば、道を歩いているだけで、誰かを車道に落としてしまったのではないか、という恐怖心から、道すら歩けなくなるらしい」
「……それが?」
「鍋島千晶は"誰かを傷つけるかもしれない"という恐怖から、尖った鉛筆すら持ち歩くことができない……そうだな?」

 樹くんは、もう一度、千晶ちゃんに視線を向けた。

「……はい。カバンから落ちて、誰かの足に刺さるかもって、そう思ってしまうんです……もし入っていたら、何回も、確認してしまいます。そして、そこから動けなくなります」
「は?」

 ルナは、思い切り眉をしかめた。

「そんなこと、あるわけないじゃん」
「あるわけない、しかし、そんなことを考えてしまうから病気なんだろう」
「……」
「そんな人間が、カッターナイフなんて物騒なものを持ち歩けるはずがないだろう」

(……あっ)

 私は合点がいって、思わず千晶ちゃんを見た。だから、千晶ちゃんの鉛筆は全て丸くしてあったのか。

(というか、元々樹くんはここに来る予定だったのね。だから、千晶ちゃんも今日は休まなかったんだ)

「鍋島千晶はカッターを持つことができない。百歩譲って、鍋島千晶がカッターでお前を脅したい、と思うことがあったとしても、カバンの中にカッターを入れて歩くことはできない。その途中で、カッターを落として誰かに怪我をさせるかも、という恐怖が彼女を襲うからだ」

 樹くんは一気に言うと、片眉を上げて、こう言った。

「そういうことだ、松影ルナ。何か申し開きはあるか?」

 ルナは呆然と立ち尽くしていた。
 瞬きを何度も繰り返し、目線も定まらない。

「ところで松影ルナ、その足の怪我だが」

 樹くんは、視線をルナの足元に移した。

「事件から1週間経っても、まだ歩くことさえままならない、という、その足の怪我だが」

 念押しのように続ける。

「どこの病院にかかったんだ?」
「え」
「そこまで酷い捻挫なら、どこかしらの病院へ行っているだろう」
「……」

 ルナは無言で樹くんを見つめている。

「診断書とは言わん。領収証でも構わない。鍋島千晶は、自分の無罪の証明のために診断書を取ってきた。お前もそれくらいはやるべきだと思うが……どうだ?」

 ルナは、ふっ、と笑って軽く手を挙げた。

「とりあえずは、ここまでかしらね」
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