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内弟子物語 第Ⅳ話 怪我1

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 選挙という戦いが終わり、高山たちはこれまで通りの内弟子修業の毎日に戻ることになった。期間中、高山と堀田は選挙事務所にずっと詰めていた関係上、内弟子としての修行はできなかったが、普通では経験できないようなことを体験した。それはそれで大きな収穫だったので、2人は貴重な修行の一つと捉えていた。
 そしてまた藤堂の下に戻り、新たな気持ちで他の内弟子と一緒に修行の日々に戻ることになった。
 改めてみんなが揃った第1日目、早朝稽古の後、藤堂は事務所に戻り、1人でこれからの内弟子修行のプログラムを考えていた。
 今回の経験はいろいろな意味でプラスに働いた部分もあるが、内弟子を募って稽古の場を設けている理由は、本来の武の道を追及したいという若者を育成するためだ。マンガに出てくるような、派手な必殺技の類の伝授を期待してもらっても困る。地味で、根気のいる時間を耐える意識が必要であり、その間に習得してもらうべき武人としての教養もある。
 本来、武をたしなむ者には学問も必要であり、単に強いだけでは通用しないということを改めて理解させ、藤堂が目指す本当の武の継承者を育成するため、新しい学びの課程を組み込むことにした。
 それぞれの内弟子は程度の差こそあれ若い分、血気盛んで、表芸としての武技に興味を持つ傾向がある。それは第一義として必要なことだが、勢いだけで行動すれば、そのうち大きなトラブルに巻き込まれないとも限らない。
 先日の選挙活動の際に経験したトラブルでは、幸いなことに大きな問題は発生しなかったが、一歩間違えるといろいろな人の人生を狂わせてしまう。武には、気をつけなければ人を傷つける凶器の部分が存在することを再度理解させ、荒ぶる意識を抑え、できれば生涯、その技術を具体的に使う場がなかった、というような人生を送らせたいのだ。
 戦う技術を教えながら、それを使う場がないように指導するというのは何とも矛盾した話だが、実はそのような矛盾を考えることこそ活殺自在の意識であり、武道としての哲学なのだ。
 若い時代に理解することは難しいだろうが、だからこそこの時期にきちんと伝え、本来の武の哲学に則って、武の理を学ぶことこそ藤堂が求める形だ。
 そのため藤堂は、内弟子たちが武道・武術を日本が誇る文化として考えられるよう、そのための素養を身に付けるための講座を新たに常設しようと考えた。それは武道を正しく国際的に普及するためにも、欠かすことができないものだ。その実現のため、内弟子第一号の御岳が入門した時、何度か行なった武道に隣接した領域に関する講座をレギュラー化し、文武両道の実現を図ろうと考えた。
 御岳が他の内弟子の兄貴分として振舞っているのも、単に最初に入門したしたというだけでなく、このような見えない部分が基礎として関係している。やはりそういう一見、武に直接関係なさそうなところの存在が、武人として厚みになっているのだ。
 内弟子の人数が増えてくるに従い、そういう部分の教育が少なくなっていたことは藤堂の反省点として、高山の入門をきっかけに、当初行なっていた教養部門の修行を復活させることにした。
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